蒼の女神と愚拳の王
楽山
どこかのストライカー
その屈強な男を倒したのは、必殺の上段回し蹴りだった。
太い首に深々とめり込んだ足の甲。
胸鎖乳突筋を引きちぎり、頸椎をきしませ、動脈を圧迫する。
血流を止められた脳は一瞬でブラックアウト。二メートル近い巨体が白いマットに崩れ落ちた。
突如として――応援の声が歓声に変わった。
万雷の拍手が巻き起こる。
そして。
「一本!!」
主審の掛け声が高い天井を貫き、試合の決着を告げた。
つまり。
東京体育館のメインアリーナで開催された第八回全日本空手道選手権大会――金的・目突き・関節技のみが禁止という過酷な徒手格闘大会が、たった今、決着したのである。
全国から集結した六四名の達人たちの中、最後まで立ち続けたのは、なんと高校生。
若干十七歳の浅井秀介であった。
身長百九十センチメートル、体重百二十キログラムの若き新王者は、担架で運ばれていく前年度覇者・三吉藤吉を一瞥。
その後、主審と大会主催者、観客に向かって、「押忍」と十字を切った。
道着に乱れはなく、激戦による疲れも見えない。
右眉をわずかにカットしているだけだ。その血ももうほとんど止まっている。
無敵。
もしくは最強。
浅井秀介は、今大会でそんな圧倒的戦いぶりを披露して見せた。
時間切れ判定などという中途半端な勝利は一度もなく、全試合が一分半以内の一本勝ちだ。
一試合目――試合開始直後の飛び込み突き。
二試合目――下段回し蹴りによる大腿骨破壊。
三試合目――肝臓を狙った二連下突き。
準々決勝――大外刈りで相手を転がしてからの、顔面への寸止め下段突き。
準決勝――繰り出された技をすべてさばききり、がらんどうになった胸板への正拳突き。
決勝――嵐のようなラッシュにまぎれ込ませた右上段回し蹴りで、三吉藤吉の闘志と意識を刈り取った。
誰が文句などつけようものか。試合場を降りる浅井秀介に浴びせ掛けられたのは、ひたすらの喝采だった。
大きなトロフィーを抱えて選手控え室に戻ってきたら。
「――せんぱぁぁああい!! おめでどぉございますぅううううう!!」
いきなり女の子に抱き付かれた。
「お、おう?」
地蔵のような無表情に困惑の色が現れた。
無礼を働いてきたのは、秀介の後輩だ。同じ空手道場に通う女子中学生で、名前は雛田雪子。愛らしい顔、女らしい身体のくせに、直接打撃制――フルコンタクト空手が大好きな変わり者である。
いくら顔面突きが禁止されているとはいえ、好き好んで殴られたいとは……秀介は、この少女のことを希代のドM女だと思っているのだった。
「離れろ雛田。なに興奮してやがるんだ?」
「冗談! うちらの道場から日本一が出たんですよ!? これが興奮しないでいられますかってんですよ!」
「やれやれ、そんなものかね。宮田さんと伊島くんは?」
「トイレ行ってます。なんか二人とも、感動しすぎてお腹痛くなったみたいで。師範と師範代はあいさつ回りです。今頃、いろんな人に浅井先輩の天才っぷりを自慢しまくってんじゃないですか?」
「おいおい……勘弁してくれよ。お前ら、騒ぎすぎだ」
秀介はそこで雪子を突き放し、トロフィーを押し付けた。
日本王者を証明する立派な記念品である。かなり重かったらしく、「あっ、ととと…………」雪子の体勢が大きく崩れる。
だが、秀介は手を貸さなかった。
後輩の足腰の粘り強さを知っている空手家は、「ちょっ、浅井せんぱーい。これどこ置けばいいんですー? 重いですよう」という泣き言に、「そのへん置いとけ。別にいらん」とぶっきらぼうに答え、道着を脱いだ。
黒帯がほどかれ、あらわになる上半身。
――怪物だった。
おそろしく太い首。
甲冑を着ているようにも見えるぶ厚い胸板。
両の腕は丸太のように太く、しかし十分な長さもそなえている。
その一方で、腹回りは、そのたくましすぎる胸部に対して、気味が悪いぐらい引き締まっていた。切り立った断崖のような印象の胴。女性でも腕が回せそうだ。
そして背中。
まるで加減を知らぬ幼稚園児が粘土を盛ったような立体的造形。いびつな筋肉が群立するその様は、人によっては吐き気さえ催してしまうだろう。
見事なまでの逆三角体型である。
汗をぬぐうのかと思った雪子がタオルを差し出そうとするが――全然違った。
いきなり四つん這いになった秀介は、固い床タイルに拳を突き立て、そのまま腕の屈伸運動を始めたのである。拳立て伏せだ。
テンポ良く上下し始めた百キロ超を見下ろしながら、雪子は絶句しているようだった。
「せ、せんぱ……なに、やってんすか……」
応える秀介の声色はいつも通り。全神経を筋肉に行き渡らせているわけではないらしい。
「見りゃあわかるだろ。今日はまだノルマこなしてなかったし、とりあえず軽く五百やっとくだけだ」
「いや、そうじゃなくてですね。大会終わったばっかですよ? しかも全日本。普通この場面で筋トレはないでしょう。頑張って応援したあたしにジュースおごってくれるか、『雛田、お前のために優勝したんだぜ』って、あたしを抱き締めてくれるかの二択じゃないんです?」
「冗談。どっちもないな」
控え室にいるのは秀介と雪子の二人だけ。
ゴクリとつばを飲んだのは雪子の方だろう。長椅子に腰かけた彼女は、まるで珍獣でも見るような目で、「先輩って……いつもそんなんですよね……」と言った。
「なんだよ?」
「いやぁ……マジ天才って言うか、マジ馬鹿っていうか……浅井先輩って、ほんとに、人間ですか? 疲れとかないんですか?」
「疲れって……六回組手しただけだぞ? いつもの稽古の方がスパーやってるだろうに」
「相手が違うじゃないですか。向こうは全国の猛者ですよ? 伊嶋先輩とか神岡先輩とか、そういう中途半端に空手やってる人はいないんですよ。みんな本気で――って……別にいいですけどね」
雪子の唇から落胆のため息が漏れた。
おそらくはあきれているのだろう。もしかしたら怒っているのかもしれない。浅井秀介の適当すぎる態度に、だ。
雛田雪子は女だが、空手が大好きなのだ。
それなのに、日本一の実力を持つ空手家にここまで飄々とされると、空手に人生をかけている人々が――女だてらに拳をふるっている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるのだろう。
もっと……もっと喜んでくれたっていいじゃないか。この大会はすべての空手家の夢だっていうのに……。
そんなことを思っているに違いない。
「………………」
雪子はもうなにも言わなかった。
五百円で買った古着のTシャツ、その胸辺りを指で揉んでいる。
「…………ふむ……」
少女の不機嫌に気付きながらも、秀介は変わらないペースで拳立て伏せを続けていた。
だがいきなり、「なあ、雛田」と声をかける。
「は、はいっ?」
「お前さ……予知能力って信じるか?」
「は? そんなん信じてませんよ。まさか先輩、超能力とか好きなクチですか?」
「いや、好きでも嫌いでもないな」
「じゃあなんでそんな話……」
「別に。ただ、俺とお前らじゃあ、相手にしようってモノが違うってことだ。そういう話だ。そこで、拳の硬さ、技術の磨き方に差が出る」
「せんぱーい。言ってる意味が全然わかりませーん」
「む? そうか。ならいいんだ。忘れてくれ」
「………………」
「………………」
再び静寂が控え室を包もうとした。
しかし、いきなり扉が開け放たれて――現れたのは男が四人。
「浅井ぃぃいい!! やったなお前! 優勝とかすげえじゃんか!!」
「なあ、なあっ! 俺にもトロフィー持たせてくれよ! これメッキ? メッキ? めっちゃ光ってんですけどお!」
「しっかし笑いが止まらんなぁ! 長沼啓介の顔を見たか? 奴め、秘蔵っ子が一撃でやられて声も出とらんかったぞ。まさか野郎のあんな顔が見れるとは、今日の酒が楽しみだわ」
「胸骨陥没ですからな。あれではしばらく空手はできんでしょう。まあ、他流派を批判し続けた報いですな。これで神撫流も少しは大人しくなるかと」
浅井秀介の通う空手道場の師範と師範代、そして道場の兄弟子が二人である。
彼らはズカズカと控え室に乗り込んできて。
「おい浅井、お前なにやってんだ?」
拳立て伏せに打ち込んでいた秀介を不思議そうに見下ろした。
すると雪子が、「見ての通りです。ノルマがどうとか、予知能力がどうとか。変人なんですよ、そこのひと」なんて、不要な説明を加えてくれる。
爆笑が巻き起こった。
「だっは!! 変わってんなぁチャンピオン!」
「全部終わったんだぜ? 今さら筋トレって、頭沸いてるって。なんの意味があんだよ!?」
「やめろやめろ! 興が冷めるぞ。今日ばかりは勝利の美酒を味わおうじゃないか! 浅井はデカイから未成年でも大丈夫だろう!? 儂が美味いポン酒を注いでやるわ!」
「練習熱心なのは結構ですが、もう大きくなる必要はないのでは? ヒグマでも殴り殺すつもりなら話は別ですが」
笑いの渦はなかなか鳴り止まず――
そのうち。
「……っ」
秀介がおもむろに立ち上がった。
そして、上腕三頭筋から薄い湯気を立ちのぼらせながら。
「お話ならあとでうかがいますから、ちょっと外してくれませんか?すげえ、邪魔いです」
四人と雪子を控え室から叩き出してしまう。
「……よし……」
静かになった空間で再開される孤独な筋力トレーニング。
力を込めた呼吸の中、独り言が混ざって消えた。
「ヒグマか……その程度の相手なら、楽勝だったんだがな……ドラゴンがその程度なら」
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