【最終章】イヴは一緒に①

「あいつは、ダメだと言っただろう?」


 突然背後から降ってきた声に、桃香は文字通り飛び上がって驚いた。


「え? あっ、紺野さん。お疲れ様です」


 心臓が早鐘を打っているが、条件反射で桃香は挨拶する。


「お疲れ」


 不機嫌な表情で、祐太郎もきちんと挨拶を返した。しかしすぐにまた、同じセリフを繰り返す。


「だから、あいつはダメだと言っただろう? 松山は妻子持ちだ」


 桃香は戸惑いの表情を浮かべた。


「……え? なんで松山さんが出てくるんですか?」


「上司がどうのと言ってたじゃないか。あの男が」


 祐太郎の表情が、険悪に歪んだ。


「あの男って……川原君ですか? もしかして、聞こえてました?」


 とたんに桃香の頬が上気する。


「ああ。松山に惹かれる気持ちは理解できなくもないが、ダメだ」


「……あの、松山さんは関係ありません……」


 どんどん赤くなっていく桃香を見て、祐太郎は眉を寄せた。


「大丈夫か? また寒気がするのか?」


「いえ。大丈夫です。とにかく、彼が言っていた上司って、松山さんのことじゃないですから! そもそも川原君は松山さんと会ったことなんてありませんし!」


 そこまで言ったところで、桃香は口を開けたまま固まった。


(言い過ぎた! 川原君が知ってる上司って、紺野さんしかいないのに!)


 しかし祐太郎は気づいていない様子で、探るような視線で桃香を見ている。


「そ、そういうことなので……お疲れ様でした! あの、これから知り合いと会うので……これで失礼します!」


 逃げるように駆けだした桃香の背を見ていた祐太郎の目が、何かに気づいたようにゆっくりと見開かれた。片手で口元を覆い、ゆっくりと撫でおろす。嬉しそうな、それでいて悲しそうな複雑な表情を浮かべ、桃香が消えた雑踏を見つめた。


*******


 翌日、祐太郎がなにも気づいてないことを願いながら出社した桃香は、いつもとまったく変わらない彼の様子に、心の中で安堵した。


(良かった。……このまま何も気づきませんように)


 祈るような気持ちで、日々得意先への年末の挨拶および年始の挨拶状の準備を進めている。



 入社して二週間過ぎ、クリスマス前の連休を迎えると、恒例の親睦会が催された。


「今日は早く帰るけどね。クリスマスはやっぱり子供と過ごさなきゃ。奥さんも怖いし」


 松山はそう言いながら、時間がきたらすぐ帰りやすいように、座敷の出入り口付近に腰を下ろした。桃香は相田に奥の祐太郎の隣へと押しやられ、相田の隣には鈴木が座った。


「うるさいのが隣に来てしまったな」


 祐太郎に耳打ちされ、桃香は首まで真っ赤になりながら頷く。


 全員が揃ったところで、祐太郎がビールジョッキを持ち上げた。


「今月も――今年もお疲れ。明日から三連休だし、今夜は思い切り飲んでくれていいから」


 歓声が上がり、宴が始まる。隣でまた口喧嘩――いちゃつき始めた相田と鈴木の会話に笑みを誘われながら、桃香はジョッキを飲み干した祐太郎のために、店員に声をかける。届いたジョッキを手に取った祐太郎は、声をひそめて桃香に話しかけた。


「以前、大学の後輩の話をしただろう?」


「え? あ……はい」

 

 元カノであろう女性のことを思い出し、桃香の胸がちくりと痛む。


「彼女、リハビリもかねて、今は長野の親戚の家で農業をしているんだ」


「そうなんですか。それで、体調は……?」


 どこまで立ち入ってよいのか分からないし、あまり聞きたくないような気もする。桃香は遠慮がちに尋ねた。


「ずいぶん良くなったみたいだ。その親戚の近所に住んでる幼馴染っていうのかな――子供の頃から知ってる男性と、来年結婚が決まったらしい」


「それは――おめでとうございます」


 祐太郎にとっておめでたいことではないかもしれない。そう思いながら、桃香は彼の表情を窺った。が、何も読み取れない。


「幸せそうで、安心したよ。彼女が落ち着くまでは、俺も――」


 祐太郎が何かを言いかけたとき、小野寺が五勺枡に入った冷酒グラスを彼の前に置いた。


「紺野さん。今年もお世話になりました! そろそろもっきり行ってみます?」


「え? ああ……ありがとう」


 小野寺が手にしている一升瓶には、今人気の銘柄のラベルが張ってある。グラスに冷酒を注ぎながら、小野寺は桃香にウィンクをした。そのウィンクが何を意味しているのか分からない桃香は、曖昧な笑みを返す。


「じゃ、あとは木下さん、よろしくね!」

 

 小野寺は一升瓶を桃香に押し付け、そそくさと自分の席へ戻った。


「あ、それ。俺も飲みたいな。グラスは……あ、あった。これでいいや」


 相田の向こうから、鈴木が声をかけてきた。テーブル中央に置いてあったワイン用のグラスを手に取り、桃香へと差し出す。


「私が酌してあげるわよ」


「ええ? フレッシュな人に注いでもらったほうが、味もフレッシュなのに」


「バカね。酒は円熟味が増したほうがおいしいでしょ」


「なるほどね。さすが年の功」


 相田もまだ二十代で、桃香とそれほど大きく離れているわけではない。しかし年下という負い目を感じているのか、鈴木はやたら年齢にこだわっている様子だ。


 祐太郎はといえば、グラスの底を軽くお手拭きで拭き、淡々と飲んでいる。


 先ほどの話の続きが気になった桃香は、思い切って話しかけてみた。


「それで……その、同級生の方が幸せになって良かったですね」


「え? ああ。――木下さんにぶつかったとき、彼女が重なったんだ。だからよけいに、立ち直って欲しかったのかもしれない」


 祐太郎としては、何気ない言葉だったのかもしれない。しかし桃香は、ひどく傷ついた。


「……私個人を認めてくれたわけじゃなかったんですね」


「え? なんでそうなる?」


「いえ、いいんです。仕事はすごく楽しいし、まだ少ししかたってませんが、やりがいも感じているので。――どんなに感謝してもしきれないほどです」


 こわばった顔に必死に笑顔を張り付けながら話す桃香の様子に、相田が気づいた。


「どうしたの? 紺野さんにいじめられた?」


「なんだよ、人聞きが悪いな。いじめてなんかない」


 祐太郎の言葉に、桃香は頷いた。なぜこんなに胸が痛いのかと、自分でも驚いている。


「もちろん、木下さんのことは前々から認めていたよ。だからうちに誘ったんだし」


「ありがとうございます。そう言っていただけて……あの、すみません。今日はもう帰ります。なんだか体調が――」


「そうだったの? 大丈夫?」


 相田は桃香が立ち上がるのに手を貸した。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 するとちょうど出入口に腰かけて靴を履いていた松山が、顔を上げた。


「あれ? もう帰るの? なら、駅まで一緒に帰ろうか」


「ありがとうございます。でも……急ぐので」


 お酒のせいか、感情が荒波のように押し寄せて、今にも涙となって目から溢れ出てしまいそうだ。ゆらめく桃香の目を覗き込んだ松山は、軽く嘆息する。


「いいから。そんな状態じゃ、一人で帰せないよ。せめて駅まで一緒に行こう。これ、上司の命令だから」


 生真面目な顔をしてそんなことを言う松山に、桃香は表情を和らげる。


「命令とか……横暴ですね」


「言ったでしょ、俺はSだって」


 松山は微笑んで、立ち上がった。


********


 松山と桃香は肩を並べ、しかし無言で駅へと向かっていた。


「木下さんて、恋愛とかしたことないの?」


 唐突に聞かれ、自分の世界に浸っていた桃香はきょとんとした顔で松山を見上げる。


「なんでですか?」


「慣れてない感じだから」


 これにはさすがに桃香もカチンときた。


「そんなことないですよ。これでも大学時代には恋人がいました」


「恋人っていっても、友達に近いものだったんじゃない?」


「ええ? そんなこと……ないですよ」


 あるかもしれない、と思いながら桃香は答えた。言葉尻が弱々しくなる。


「まあいいけど。今は子供中心だからあれだけど、うちも結婚まではいろいろあったなぁ。恋愛って、難しいし不思議だよね」


 松山の眼鏡の奥の瞳はいたずらっぽく微笑み、優しく桃香を見つめている。


「そうですね。恋愛って、難しいし面倒だなって思います」


 こんな気持ちさえ抱かなければ、ほかの社員と同じように、祐太郎とも自然に打ち解けることができたのではないか。


「面倒かもしれないけど、でも楽しいよね。いろんな発見があるし」


「それは両想いになったら、ですよね。片思いは寂しいかな。見てるだけでいいってときもありますけど。むしろなんの関わりもなく、遠くから見てるだけのほうが楽なのかなぁ」


 遠い目をする桃香に、松山は吹き出した。


「それって恋愛じゃなくて、アイドルやタレントに憧れる気持ちと一緒じゃないかな。恋愛って、相手を自分のものにしたくならない?」


 草食系に見える松山のがっつり肉食系の言葉に、桃香は顔をひきつらせた。


「松山さんて、ほんとSですね」


「これはSって言わないと思うけどな」


 話しているうちに、少し気が楽になってきた。桃香の表情が、少し和らぐ。


 その時、メッセージの着信を知らせる電子音が鳴った。スマホを確認した桃香は、画面を食い入るように見つめる。


『紺野祐太郎 今どこだ』と記されている。


 さりげなく覗き込んだ松山が、肩をすくめた。


「ほら。早く返事しないと」


「えっ?」


「駅前のコンビニ前にいますって、返事しないと。相手は代表だよ? 無視しちゃダメでしょ」


「無視だなんて……そんな失礼なこと、しませんよ」

 

 そう答えながらも、桃香は躊躇している。すると松山は自分のスマホを取り出して、誰かの番号を呼び出した。


「あ、紺野さん。お疲れ様です。木下さんと一緒なんですけど、どうも具合が悪いみたいで動けずにいるんです。駅前のコンビニあるじゃないですか。今、そこにいるんですけど、僕はそろそろ帰らなくちゃまずいんで、あとはお願いします。彼女にはここで待っててもらうので」


「え? 具合悪くないですよ、私!」


 慌てる桃香に微笑みながら、松山は無情にも切電した。


「なんでそんなウソを言うんですか……」


 激しく動揺する桃香は、その場で右往左往した。すぐ駅に向かうべきか、それともここで祐太郎を待つべきか。迷う心が、そのまま行動に現れている。


「木下さんて、本当に面白いっていうか、ピュアっていうか。紺野さんが気にするのも分かるな」


「面白いかどうかは分かりませんが……危うい人間だと思われていたようです」


 とたんに桃香がシュンとしょげ返ると、松山はため息をつき、冷えた空中に白い息が広がった。


「不器用だなぁ、二人とも。きちんと話しなさい。いつまでも悩んでいるようだと、仕事もやりづらいから。じゃ、僕は行くから。お疲れ」


「お疲れ様です。……えっ? 行っちゃうんですか?」


 せめて祐太郎がやってくるまで一緒にいてほしかったのだが、ふいに松山は真顔になった。


「これ以上遅くなると、奥さんが怖いし。子供が寝る前に帰って、一緒に風呂に入って、寝かしつけたいからごめん」


「あ、そうなんですか? それじゃ早く帰りたいですよね。すみません、引き止めちゃって。お疲れ様です。また来週もよろしくお願いします」


 笑顔でそう挨拶した桃香だったが、振り向いたとたんに祐太郎の大きなシルエットが見えて、緊張に顔をこわばらせた。


「具合が悪いって?」


 急いで来たのだろう。少し息が切れている。


「いえ、具合はそんなに悪くないというか……ただ疲れただけというか……」


 さすがに松山が嘘をついたとは言いづらく、桃香は言葉を濁す。


「本当か? 顔が赤い。また熱があるんじゃないのか?」


 祐太郎の大きな手が、桃香の額に添えられた。ひんやりと冷たい指先に、桃香は思わず身を縮める。


「熱はないようだな。……さっきはどうした?」


 顔を覗き込む祐太郎の視線から逃れようと、桃香は顔をわずかに逸らした。


「あれは……なんでもないです。少し卑屈になってしまって」


「どうして卑屈になる必要がある? 俺は木下さん自身を認めたから、スカウトしたんだ。それの何が気に食わないんだ?」


「気に食わないなんて、とんでもないです。先ほども言いましたが、本当に、心から感謝しています」


「それならなぜ、そんな塞いだ顔をしている?」


 いつもより、追及が厳しい。たじろいだ桃香は、やっとのことで言葉を絞り出した。


「もっ……もともとこういう顔なんです」


「そんなことないだろう? 相田たちと女子トークをしているときや松山相手だと、もっと明るい顔をしている」


「そりゃあ……女子トークは楽しいですし、松山さんとはほぼ一日一緒に動いているわけですし」


「俺が苦手なのか?」


 怒っているような、困っているような、なんともいえない表情で祐太郎が尋ねる。


「そういうわけじゃ……。緊張はしますけど」


「緊張なんてする必要はないだろ? あの会社で、俺に対して緊張してる奴なんて、一人もいないのに」


「私は新入社員ですから……」


 そういう桃香の腕を、祐太郎がつかんだ。


「ここじゃ身体が冷えて、また風邪を引いてしまう。どこかで休もう」


「いえ、あの、帰ります」


「いいから少し、俺に付き合え」


 桃香の腕をつかんだまま、祐太郎はタクシー乗り場へと向かった。

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