新たな場所で②

 そのあと、

『大丈夫か? 病院は?』

という質問が届いたのはその数分後。メッセージを送ってすぐ眠ってしまったから、返答しないままになっている。


「あ……あ……これ……す……すみません……」


 パニックに陥った桃香の手からスマホが滑り、足元に落ちて鈍い音を立てる。


「桃香のお知り合い?」


 桃香の動揺をどう受け取ったのか、母の鋭い声が祐太郎に向けられた。


「申し遅れました。今月末より桃香さんと一緒に働く予定の紺野と申します。よろしくお願いします」


「ああ、新しい職場の……。こんなところで立ち話もなんなので、上がりませんか? この子はすぐ寝かせますが、職場環境などについていろいろ伺いたいし」


「……お母さん、それは……」


 慌ててさえぎろうとする桃香の言葉は、祐太郎の返答にさえぎられた。


「お邪魔でなかったら、ぜひ。私もいろいろ伺いたいことがありますし」


(なにをー?!)


 桃香は心の中で叫んだが、ただでさえ具合が悪いところに精神的刺激が加わりすぎて、口に出す元気が残っていない。ぐったりと背もたれに身を預け、力ない笑みを祐太郎に向けたのだった。


 時々階下から聞こえてくる母の笑い声をBGMのように聞きながら、真綿で全身をくるまれているような気分で桃香はベッドに横たわっている。


 ――まさか祐太郎が自宅に来るなんて、予想もしていなかった。


 帰宅してすぐ飲んだ薬の効果が現れ始め、少しずつまともな思考が働き始めると、今度は羞恥で全身が熱くなった。


(ノーメークでこんな部屋着で、しかもぼさぼさ頭にひざ掛け巻いて……最悪。穴を掘って一生潜っていたい)


 そう考えながら、穴の代わりに布団の中に潜り込む。


「桃香? 起きてる? 紺野さん、お帰りになるそうだけど、ご挨拶する?」


 ドアの向こうから、母が尋ねた。


「……こんな姿じゃ出れないよ。よろしく伝えてくれる?」


 布団の中から、くぐもった声で答える。


「分かった」


 ほどなくして、玄関で挨拶を交わす声が聞こえ、そしてドアが閉じられた。


 祐太郎の存在感が家の中から消えたとたん、桃香は緊張の糸が切れたように再び寝入る。目覚めたのは、すでに日が傾きかけた頃だった。


 盛大な寝癖のついたセミロングの髪を手櫛ですきながら階下へ降り、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。グラスに注いで一気飲みしていると、買い物から帰ってきた母が、ショッピングバッグをテーブルの上に置いた。


「もう平気なの?」


 冷蔵庫に野菜や肉をしまいながら、母が尋ねる。


「うん。ずいぶん楽になった。関節も痛くないし」


「良かった。――ところで紺野さんて、社員じゃなくて代表だったのね。あんなに若いのに、すごいわよね。一見冷たそうに見えるけど、いい人だし。桃香のこと、すっごく心配してたわよ。あとでちゃんとお礼なさいね」


「うん」


「お見舞いのカステラも買ってきてくれたの。あとで食べようね。――それにしても、ずいぶん長い間、外で待ってたみたいね。お父さんも今日はパチンコに行っちゃったから、家には誰もいなかったし……。どうってことないって感じの涼しい顔をしてたけど、今日は寒かったし、凍えてたんじゃないかな。お茶を出したとたん、湯飲みを握りしめて手を温めてたわよ?」


「えっ、そうなの?」


 慌ててもう一度アカウントを確認したが、家の前にいるなど、一言も連絡は入っていない。


『本日はありがとうございました。きちんとご挨拶もできず、申し訳ありませんでした……』


 何を書けばよいのか分からず、堅苦しい文章になってしまう。何度も打ち込んでは消去し、消去してはまた同じ文章を……を繰り返すうち、どんどん時間が過ぎてしまうため、とうとうその完結な文章を送信し、桃香は緊張の面持ちで画面を食い入るように見つめていた。


 既読マークがつくと、その緊張は最高潮に達する。


『熱は?』


 簡潔な一言が返ってきた。


『おかげさまで、下がりました。明日には普通に動けそうです』


『治りかけが肝心だ。お大事に』


『ありがとうございます』


 そこで、メッセージのやり取りは終わった。至極簡潔な内容だが、それでも桃香の胸にじんわりと温かなものが広がる。

 

 壊れかけていた自分を救ってくれた祐太郎の不器用な優しさに触れるうち、桃香は感謝以上の感情を抱くようになっていた。



 ――それから二日後。


 体調はずいぶん上向き、鼻水を残すだけとなった桃香は、部屋の模様替えにいそしんでいた。新しい職場に行く前に、心機一転、まずは身近なところから変えていこうと思ったのだ。




(記念に取っておこうと思ったけど……)



 冊子タイプのカタログを勉強がてら大量に積んでいたのだが、それをすべてビニールテープでまとめ上げた。物置に入れておこうか迷ったのだが、桃香が携わったのは電子カタログだったし、今度はまったく違う業種で働くのだから、取っておいても仕方がない。



(懐かしくなったら、ネットで見ればいいんだし)



 ちょうど資源ごみの日だったから、収集時間に間に合うようにゴミ収集所へ急ぐ。すべて出し終えたあとは、片付いた部屋と同様に気持ちもすっきりした。



(さて。あとは……)



 ――相田のようにきっちりとしたスーツ、それに合うバッグや靴を揃えよう。



 祐太郎の会社の顧客は経営者も多いし、その営業職を務めるなら、ふさわしい服装をするべきだろう。



 出かける準備をしながら、試着する予定のスーツに負けないよう、いつもより少し丁寧にメイクをする。



(多少は仕事ができそうに見えるかな)



 いつも肌色補正効果のある日焼け止めにリップクリームを塗った程度で会社へ行っていたから、抑え目の色合いでも派手すぎないかと心配になる。



「ねえ、お母さん。このメイク、濃くない?」



 玄関に向かいながら母親に確認すると、



「どうして? きれいよ。せっかく若いんだし、もう少し明るい色合いでもいいと思うけど」



という答えが返ってきて、安心して靴を履いたのだった。




 火曜日でみんな出勤しているから友人を誘うこともできず、桃香は一人でショッピングモールや路面店を覗きながらいくつか試着していく。あーでもない、こうでもないと悩みながら選んだスーツを三着だけ購入し、その日は終わりにした。



さいわい、昨年度に購入してほとんど着ていないスーツも何着かある。あまり流行は関係のないオーソドックスな形だから、それと合わせれば一週間は着まわせるだろう。



本当はコートやバッグ、靴も新調したかったのだが、考えてみれば病み上がりなのだし、あまり無理をしてぶり返しても良くないだろうと考えたのだ。



 最後に、百貨店の地下食品街に寄る。話好きな母が、先日祐太郎から老舗和菓子店のエビ煎餅が好きだと聞きだし、おみやげのお礼に渡すように言われていたからだ。初出社の際に持っていくつもりだったため、賞味期限は一か月以上あるものを選び、社員全員にいきわたるように一番大きな箱を頼んだ。大きな紙袋をいくつも手に提げ、帰途につく。



 ふと、如月が思い出された。今自分が持っているのと同じくらいの紙袋を持って去る後ろ姿だったからだ。



 紙袋を握る手に思わず力が入り、桃香はうつむいて苦笑した。今もまだ、如月を思うと条件反射のように身体がこわばる。何気なく目をやったショーウィンドウには、猫背ぎみになっている自分が映っていた。



「前を向いて歩け」



 今度は祐太郎の声が再生される。



 桃香は深呼吸して背筋を伸ばし、大股で歩き始めた。



 今は、怯えるだけの自分ではない。自分を認め、一緒に働こうと言ってくれる人たちがいるのだから。



*******



 それから二週間後。



 十二月も半ばを過ぎた頃に、桃香は晴れてS&Gコーポレーションに入社した。明るい笑顔と拍手で迎えられ、まるで新卒の新入社員のような晴れやかな気分で案内された席につく。松山の隣だ。



「今日からよろしく。仕事中は少し厳しいことを言うかもしれないけど、そこは愛の鞭だと思って乗り越えて」



 松山が言うと、相田が


「松山さん、こう見えてSっ気があるから」


と口を挟んだ。



 その言葉を否定することなく、松山は柔和な笑みを浮かべる。



「そういうこと。じゃあ、今日は木下さん用に顧客のデータをまとめてもらおうかな。まとめながらある程度情報を頭に入れてもらって、明日から少しずつ顧客への挨拶に同行してもらうことにするから」



 祐太郎は奥の部屋で誰かと打ち合わせをしていて、朝から顔を見ていない。初日の挨拶をしたかった桃香は少し寂しく感じたが、それも仕事への興味ですぐに薄れた。



 改めて相田に社内を案内されたあと、顧客情報を自分なりに見やすいようにまとめてファイルに閉じ、松山と翌日以降のスケジュールを打ち合わせ、手帳に書き込む。昼休みには相田やほかの女子社員と一緒にリフレッシュルームで食べ、他愛のないおしゃべりに花を咲かせる。



 それだけで桃香は夢心地になっていた。あまりに前職と環境が違いすぎて、その幸せが逆に怖くなってくるほどに。



 そこへ、突然祐太郎が顔を出した。



「木下さん、挨拶が遅れてすまない。ようこそ、我が社へ。あと、えび煎餅もありがとう。さっそくいただいていた」



 ちょうど紙コップのコーヒーを口に含んだところだった桃香は、思わずごくりと飲み込み、熱さにむせる。



「あ! いえ! こ、こちらこそ! 喜んでいただけて……」



 桃香の口内がひりついている。やけどしたに違いないと思いながら、なんとか返答した。



「昼休みが終わったら、俺に声をかけてくれ。書類関係がまだ残っているから」



「分かりました」



 邪魔をした――と、祐太郎はその場にいた女子社員一同に軽く頷いて挨拶した。彼の姿が消えると、相田がクスクスと笑う。



「別に私がやっても良かったんだけど。木下さんの入社手続き」



「ああ……。入社前にその件でご連絡くださるって言ってたんですけど、結局いただけなくて。お忙しいのかなと思ってたんですけど、連絡できなかったことに責任を感じているのかもしれませんね」



 本当のところ、桃香は祐太郎からの連絡を心待ちにしていたから、結局来ないと分かったときはけっこう落ち込んだのだが。



「入社してからでも良い手続きのために、病み上がりの人を呼び出すのは悪いがどうのって言ってたかも。紺野さんて、見た通りの筆不精なのよ」



 相田の言葉に、経理担当の加賀見が笑顔で頷く。



「本当に。そっけないわよね」



 一年の育児休暇後に復帰して三か月だという加賀見は、三十代前半の優しい顔立ちの女性だ。子供の発熱で急な休みを取りたいなどの連絡をすると、「分かった。お大事に」のみが返ってくるという。



「この3か月の相田に、五度も休みをもらうことになっちゃって。こういう世の中でもやっぱり休みが増えると良い顔はしてもらえないところが多いし、さすがの紺野さんも文句の一つは言うかなって覚悟したんだけど、ぜんぜん。本当に働きやすい職場だから、木下さんも一緒に頑張ろうね」



 温かな言葉に再び胸にこみ上げるものを感じながら、桃香は頷いた。



「それで。木下さんて、恋人いるの?」



 いきなり訊ねてきたのは、桃香より一つ上の小野寺だった。この中では一番女子力が高く、甘い香水の香りを漂わせる人形のような美女。相田も美人だが、クールビューティの彼女とはまた違う、人形のような美しさを漂わせている。



「え? なんですか、いきなり……いないですよ」



「なーんだ。紺野さんとできているのかと思ったのに」



「そっ、そんな、めっそうもない。私じゃ紺野さんに釣り合いませんて」



「えー? 相性よさそうなのに。私、こう見えてもそういうのけっこう当たるんだけどなー。例えば、鈴木君と相田さん」



 矛先がいきなり相田に向き、桃香は胸を撫でおろした。一方、相田は驚いて一瞬目を剥いたが、すぐに冷静な表情を取り繕い、すました笑みを浮かべる。



「私と鈴木君がどうしたって?」



「もう、とぼけちゃって。みんな思ってますよ、鈴木君が相田さんに夢中だってこと。相田さんもまんざらじゃないんでしょ?」



「そういう小野寺さんはどうなってるの? 大人な彼氏がいるって話だったじゃない? 確か私の旦那より年上だったよね」



 慣れた様子で、加賀見が間に入る。いつものやり取りなのだろう。すると急に小野寺は暗い表情になった。



「彼とはですね……この間、別れちゃったんです」



 とたんに加賀見は慌てた表情になる。



「まじか。ごめん」



「いいんですよ。仕方ないかなって感じです。だからみんなの幸せな話を聞いて、次へ進む活力にしようと思ったのにー」



 明るく振る舞う小野寺の肩に、相田は手を置いた。



「よし。今度、合コンしよう。知り合いに誘われてるんだけど、一緒に行こう」



「よし。行く」



 小野寺は力強く頷く。



「そろそろ昼休み終わるよ。歯磨きしないと」



 加賀見がお昼の女子トークを締めくくると、その場にいた全員が一斉に腰を上げた。



*******



 二日目以降の桃香はは、外回りから事務処理まで覚えることが多すぎて、目の回るような日々を過ごしていた。それでも仕事は楽しく、充実している。



 確かに松山のS具合はなかなかのものだったが、彼が出した課題を乗り越えたあとには、必ず何かを身に着け、成長していることが実感できた。



 これは当然といえば当然なのだろうが、社員でなかったときとは祐太郎との関係性も変わり、以前より距離を感じるようにもなった。



 相田や鈴木、ほかの社員が気軽に祐太郎に絡んでいるのが羨ましくもあるが、いずれにしても完全な片思いで良いと思っていたから、寂しさはあっても同じスペースで過ごせる喜びのほうが大きい。



 気づくと目の端で祐太郎の姿を探している自分が情けなく感じることもあるが、以前の職場に比べると、バラ色の日々と言っていい。



 同じビルで働いていても、かつての同僚と顔を合わせる機会はめったになかったが、一度だけ、川原とばったり会ったことがある。偶然を装っていたが、十二月の寒空の下で桃香を待っていたらしい川原の顔は、寒さにこわばっていた。



「久しぶり。元気?」



 相変わらず軽い口調で、桃香に声をかけてきた。



「うん。そっちはどう?」



 少し警戒しながら、桃香は距離を保つ。



「前よりはぜんぜん活気があるかな。でも俺、来年から本社に異動したいって部長に伝えたんだ。異動願いが受理されるかどうか分からないけど……たぶん、今回の功労者だし、部長の弱みも握ってるから、ほぼ決定だと思う」



「本社に?! そんなに早く異動できるなんて、すごいじゃない。部署はどこを希望したの?」



「一応、営業。だからさ、来年以降はたぶんこうやって顔を合わせる機会もないと思うから、そんなに怖がらなくていいよ」



屈託なく笑う川原に桃香は苦笑を返し、ほんの少し肩の力を抜いた。



「学生時代にキャバクラでバイトしてたから、女性には慣れてるつもりだったんだけどね。――如月女史は別として。いずれにしても、桃香に謝りたかったっていうのは本心。ちょっとした下心がなかったって言えば嘘になるけど」



 前回と違って、ある程度距離を取って接する川原に、桃香はとうとう警戒を解いた。



「どうして急に下心なんて持ったのか分からないけど……でも謝る必要なんてないって、前も言ったでしょ」



「自分では気づかないもんなんだな。辞めるって決めた頃からなんだろうけど、日に日にキレイになっていったから、なんだか気になって」



「えええ? それはないでしょ。今の会社なんて美女だらけだから、霞んじゃってるよ」



「それは聞き捨てならないな。今度合コンをセッティングしてよ」



 チャラ男の本領発揮とばかりに、とたんに川原が食いついた。



「嫌です。新しい職場付近で見つけて」



「冷たいなぁ」



 笑顔でそう言って、川原は桃香の頬に手を伸ばした。親指ですっと頬のラインを辿り、桃香が驚く前に再び距離を取る。



「あと、相手が上司でも、好きならちゃんと伝えたら? いつも我慢してるばかりじゃ、皺が増えるぞ」



「ええ? なんのこと? それに皺って……」



 桃香の質問には答えず、川原は人混みの中に姿を消した。桃香は川原が触れた頬を、指先で確かめる。



(上司って、まさか紺野さんのこと? どうして知って……)



 呆然と立ち尽くす桃香の背を、大きな影が覆った。


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