新たな場所で①

 それからほどなく、桃香の代わりに派遣社員が入社した。就職活動がうまくいかず、大学卒業後は派遣として働いていたが、今回この会社に紹介予定派遣としてやってきたのだ。


 如月の代わりには、定年退職を一年後に控えた物静かな男性、矢田がやってきた。本社の経理部門で長年働いていたのだが、競争率が激しくてなかなか役職に就けずにいたため、今回の話に二つ返事で頷いたとのことだった。


「ここの仕事はまったく分からないから、いろいろ教えてもらわないと」が口癖で、出向のチーフたちにいろいろ尋ねている。


 前任者とのギャップが激しすぎて、最初はみんな戸惑っていた。しかし次第にフロアには活気ある声や笑い声が響くようになり、雰囲気はずいぶん和やかなものになった。


「聞いたよ。大変だったね。この部署にずいぶん大変な人がいるというのは噂で聞いていたけど、実際に見た人は誰もいなかったから。でも君が頑張ってくれたおかげで、社内体制を見直すきっかけになった。俺もこうやって最後にそれなりの肩書がついたし。ありがとう」


 矢田にそう労われ、桃香は目頭を熱くする。不思議なことに、桃香は如月がいたときより涙もろくなっていた。


「私こそ、短い間ですが、矢田さんと一緒にお仕事できて嬉しいです」


 桃香の言葉に、矢田は照れたように灰色の髪が薄く残っている頭頂部を片手で撫でた。


「いやあ。向こうでは若い子にぜんぜん相手にされなかったからね。そう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」


 まるで地獄のようだった日々も、最後は穏やかで心地よい空間で過ごせたおかげで、職場に対する負の感情はほとんど払拭できた状態で、桃香は退職の日を迎えた。


 大きな花束が、矢田から渡される。


「お疲れ様。今までありがとう。新しい職場でも頑張って」


 その言葉に合わせ、桃香と関わらないようにしていた人たちが、温かな笑みをたたえながら拍手した。桃香はまた、ぽろぽろと涙をこぼす。


「ありがとうございます。あの――じつは同じビルに入っている会社に入社するので、もしかするとこれからたびたび顔を合わせる機会があるかもしれませんが」


 今までなんとなく伏せていたが、このまま黙って辞めて、ばったり顔を合わせたら気まずいだろうと思い、やっとカミングアウトした。


「なーんだ。じゃあ、こんなにしんみりする必要ないじゃん。今日が最後ってことじゃないんだから、花束だっていらなかったかも」


 川原が言うと、キッズ部門の近藤がしかめ面をする。


「そういうこと、言わないの! この会社ではお疲れ様でしたっていう挨拶なんだから。本当に、心の底から、お疲れ様。今まで何も力になれなくてごめんなさいね」


 近藤も、ずいぶん打ち解けた雰囲気になっている。桃香は泣き笑いをしながら、首を横に振った。


「いえ。今まで本当に、お世話になりました」


 この職場を離れることを、こんなに寂しく思うことになろうとは、まったく予想していなかった。


 みんなにエレベーターホールまで見送られ、嬉しいやら恥ずかしいやらの桃香は頬を上気させ、何度もおじぎをしながらエレベータに乗り込んだのだった。


 ビルを出て数歩進んだところで、「桃香!」と名を呼ばれ、桃香は振り向く。川原がエントランスを走り抜け、追いついた。


「飲みに行かない?」


「でも今日は大きな花束を持ってるし、早く活けてあげないと。……どうしたの、急に?」


 同期とはいえ、それほど親しくした記憶もない。どうして急に馴れ馴れしく呼び捨てにし、何度も飲みに誘ってくるのかと戸惑う桃香は、ピーコートのポケットに両手を突っ込んで身を寄せてくる川原から一歩離れた。


「そんなに警戒しなくてもいいじゃん。これでもさ、罪悪感を抱いてるんだ。最初とぜんぜん雰囲気が変わっていく桃香を、ただ見てた自分に。だからお詫びに、ゴチしようかと思って」


 そしてまた、桃香との距離を縮める。パーソナルスペースというものを知らない男のようだ。


「川原さんはぜんぜん悪くないんだから、罪悪感なんて抱く必要ないよ。誰だって、如月さんは怖かったんだし……。私だって、逆の立場だったら怖くてなにもできなかったと思うし。だから気にしないで」


 桃香はまた一歩下がりながら、どう説明すれば諦めてくれるのだろうと悩んでいる。


「気にしなくていいって言われてすぐ納得できる程度なら、ほんとは気にしてないってことだと思うんだよね」


 川原はやんわり拒絶されていることなど意に介さない様子で、桃香の隣に立った。


「別に取って食おうって訳じゃないんだから、肩の力を抜きなよ」


 川原は肩に腕を回し、桃香を押すように半ば強引に歩き始める。


 大学に入学したとき、派手めのサークルに勧誘されたときの状況とそっくりだと思いながら、困り果てた桃香は川原の顔を見上げた。今後も顔を合わせる可能性があると思うと、むげに断るわけにもいかない。


「あの……! だから、今日は……」


 正直、飲みになんて行きたくない。そこはストレートに伝えようと思い、口を開いたときだった。


「木下さん」


 声をかけられて振り向くと、すぐ後ろに背の高いシルエットがそびえ立っていた。ビルの照明が逆光となり、その顔はよく見えない。


 驚いた二人が固まっていると、

「お疲れ。出社は今日までか」

と低い声で尋ねられ、桃香の表情が明らかに安堵したものへと変わる。


「紺野さん、お疲れ様です。出勤は今日までだったので、こんなに大きな花束をいただきました」


 笑顔で花束を掲げて見せると、色とりどりの花の影に桃香の顔が隠れる。川原はといえば、桃香の肩から手を降ろし、彼女と祐太郎を見比べながら問いかける。


「知ってる人?」


「うん。今度入社する会社の代表の方」


「紺野です。よろしく」


 祐太郎が一歩前へ出ると、無表情で能面のように見える顔が浮かび上がった。いつもと雰囲気が違っていて、緊張した桃香はごくりと唾を飲み込む。


「……あー! 何度かお見掛けしたことが! 女子がけっこう騒いでますよね」


「女子がどうのというのは分からないが、同じビルだから見かけることもあるだろうね」


 無遠慮な川原の言葉にも、祐太郎は表情を崩さない。


「ところで、今後の仕事に関して木下さんに話があるんだ。遠慮してくれないかな」


「それ、俺も興味があるな。一緒に聞いたらダメですか?」


「部外者は、遠慮してくれと言っている」


 ゆっくり、言い含めるように、しかし断固とした口調の祐太郎に、川原は両手を掲げて苦笑した。


「分かりましたよ。それなら、木下さんをよろしくお願いします。――じゃあ、桃香。またね」


 やっと引き下がった川原は最後に桃香の肩をポンと叩き、からかうような笑みを祐太郎に向けてから、二人に背を向けた。


「紺野さん、仕事の話って――」


 なんでしょう――と尋ねようとした桃香に、祐太郎は相変わらず表情を消した顔を向ける。


「あれはなんだ」


「え? あれ……ですか?」


 あれ、というのが何を差しているのか分からない桃香が首をひねると、祐太郎は吐き捨てるような口調で答える。


「今の、男だ」


「ああ、川原さんのことですね。同期で入社した人で、飲みに行こうって誘われていたんです」


 いつもと違う祐太郎の様子に、桃香は引き気味だ。


 桃香にとって今日は最高の解放記念日だというのに、川原といい祐太郎といい、なんだかおかしい。そんな彼女の表情に気づいた祐太郎の顔に、うっすらと戸惑いの色が浮かぶ。


「いや――別に責めてるわけじゃないんだ。困っていたようだったから、心配になっただけで」


「そういうことでしたか。ご心配ありがとうございます。じゃあ、仕事に関する話というのは……?」


「特にないが、ついでだから途中まで送ろう」


「大丈夫です。いつも通ってる道ですから」


「途中であいつが待っていたら嫌だろう?」


 確かに――と納得した桃香は、申し訳なさそうな顔で頷いた。


「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、駅までお願いします」


 しかしどうしても祐太郎のほうがかなり足幅が広く、いつものように桃香はまた小走りでついていくことになった。桃香との距離が離れれると祐太郎はまた足を止め、スマホを見るふりをして待っている。


 今夜は大きな花束を持っているから、いつも以上に遅れを取りがちな桃香は、五度目に追いついたときに息を切らしながら謝罪した。


「すっ、すみません。いつも歩くのが遅くて……」


「俺こそ、逆に急がせてしまってすまない。誰かに合わせるというのが、どうも苦手で」


 いつも「簡単に謝るな」という祐太郎の謝罪の言葉に、桃香は驚いて彼を凝視する。


「……俺の顔に何かついているのか?」


 祐太郎は気まずそうに目をそらし、片手で顎や頬を撫でた。


「いえ。なにも……」


 桃香もなんだか気恥ずかしくなって、慌てて目をそらす。

 二人の間にぎこちない空気が流れたが、先に祐太郎が口を開いて切り替えた。


「そういえば、相田が福利厚生や契約内容について話したいと言っていた。近々連絡してやってくれ」


「分かりました。……ほぼ毎日ラインをしてるんですけど、なぜか仕事に関することはまったく書いてくれないんですよね」


 すると祐太郎は苦笑した。


「あいつはオンとオフの切り替えが激しすぎるんだ。ラインはオフでのやり取りだから書かないんだろうが……そこまで厳密に分けなくてもいいと思うんだが」


「ですよね。初めて会ったときの印象と、ぜんぜん違いますし」


 隙のないいでたちの相田と、みすぼらしい自分の姿を比べて落ち込んだ記憶がよみがえる。


 ――あれから、ずいぶんいろいろなことがあった。


「だろう? クールで冗談なんて一言もいわないように見えるのに、一歩踏み込むとあっという間にあんな感じだ」


「憧れます、相田さんみたいな女性に。私は不器用だから……」


 桃香の言葉に、祐太郎の目が細くすがめられた。


「そういう自己否定は止めろと何度も言ってるだろ? バイトでは器用に立ち回っていたんだから、きちんと研修さえすればしっかりこなせるはずだ。自信を持てとは言わない。自信なんて、ただの概念なんだから。だがネガティブな思考は――」


 いつもの調子を取り戻した祐太郎が、熱弁をふるい始めた。その姿を眩しそうに見つめていた桃香だったが、十二月初旬の風がふいに吹き抜け、くしゃみをする。

 顔を赤くした桃香が軽く鼻をすすると、祐太郎は申し訳なさそうに話を止めた。


「こんなところで立ち話などするべきではなかったな。大丈夫か? 顔が赤いが」


「大丈夫です。早歩きをしたので、身体がほてっているからだと思います」


 祐太郎の後を追いかけて走るうち、桃香はうっすらと汗をかいていた。それが引くと同時に、少し寒気を感じ始めている。


「じゃあ、早く帰ろう。近々またメッセージを送るから、入社前に一度話そう」


 祐太郎の言葉に、桃香は笑顔で頷いた。出会った頃にSNSのアドレスは交換したが、めったに祐太郎から連絡が入ることはない。


 新しいメッセージが入るたびにドキドキしながら画面を開くが、祐太郎の名が別のアカウントの下へと消えていくのを見ては寂しく感じていたのだった。


 桃香が駅の改札を抜けるのを確認し、祐太郎は踵を返した。人混みの中に消えていく彼の姿をそっと見送りながら、桃香はコートの襟を掻き合わせる。寒気がどんどんひどくなり、立っているだけでもつらくなっていく。


(退職したことで気が緩んだから、風邪ひいちゃったかな)


 そんなことを考えながら、家路を急ぐ。帰宅後、母親に大きな花束を渡して桃香は衣服を脱ぎ捨ててベッドに横になった。心配した母親が持ってきた体温計で測ったら、8度9分。熱があると自覚したとたんに天井が回り始め、桃香は力なく瞼を閉じた。



 翌日、桃香は母親に引きずられるように病院に連れていかれた。不愉快な検査を受けたあと(グリッと巨大な綿棒で鼻の奥をえぐられた)、インフルエンザなど重篤なものではなかったため、抗生物質などを処方してもらってすぐ帰宅した。


「ホッとしたから、今までの疲れが一気に出たのねぇ」


 そんなことをしみじみつぶやきながら母が車を運転する横で、桃香は頭からフリースのひざ掛けをかぶってぼんやりとしていた。


「あら、誰かしら。いい男」


 あまりのだるさに母親のつぶやきにも反応しなかったのだが、いつの間にか止まった車の窓をコツコツ叩かれて、やっとそちらに目をむけた。とたんに、その瞳が大きく見開かれる。


「こっ、紺野さん……?」


「知ってる人?」


 母親の問いかけに応える余裕はない。急に身体が熱くなり、額に汗がにじむ。


「大丈夫? また熱が上がったんじゃない?」


「ああ、うん。大丈夫……」


 相変わらずフリースをかぶったまま固まっている桃香に、祐太郎は下を指してみせる。無反応の娘の代わりに、母親がボタンを押して窓を開けた。


「今朝、メッセージが届いたから。大丈夫か?」


「……メッセージ……?」


 ゆうべ朦朧としながら、食事の約束をしていた友人の高丸日和にメッセージを送ったような気がする。しかし祐太郎には送った記憶はまったくない。


 のろのろとポケットからスマホを取り、画面を開いて確認すると、昨日見た位置から祐太郎の名が上にあがっていた。


『熱が出た。ごめん。明日は無理』


 日和に送ったはずのそのメッセージは、祐太郎のアカウントに記録されていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る