過去との決別③

 駅へ向かったほかのメンバーの姿が見えなくなってほどなくして、祐太郎が呼んだタクシーが到着した。車が走り出すと同時に、祐太郎が口を開く。



「会社見学のときとはまた雰囲気が違っていたと思うが、馴染めそうか?」



 その問いに、桃香は顔を輝かせながら答える。



「あのとき抱いた印象とは、それほど大きく違うことはなくて。皆さん、とても親切な方ばかりですし、一緒に働ける日が楽しみです」



「そうか。それは良かった」



 その後、祐太郎はビジネスバックの中をごそごそと探り、透明ファイルに入った数枚の書類を差し出した。



「入社するに当たって、複数の書類が必要になる。これらを確認して、今月中に相田に提出してほしい。あと、一応、三か月は研修期間とさせてもらうから、その間の給料はこれ。本採用後は、この金額になる」



 新たに出した書類の内容を、祐太郎は長くてきれいな指でさしながら説明する。



「えっ。こんなに?」



 研修期間でも、現在の給料より少し高い。功績が認められての引き抜きという訳でもないのに……と、桃香は驚いた。



「そうか? 特別高くしているわけじゃないが」



「そうなんですか。でも、二年目の今より多いです」



 この金額になるには、あと何年、如月の下で耐え続けることになるのか。考えたくもないが、桃香は自分には分不相応な気がしてならない。



「……なのに、あんな境遇で耐え続けていたのか。この間見たときは弱々しく見えたが、根は強いんだな」



 祐太郎のしんみりとした口調が気になって、桃香は濃い影の中に隠れた彼の顔を覗き込む。



「強くなんかないですよ。実際、ボロボロでしたし。紺野さんに初めてお会いしたときだって、いつも俯いているって言われたじゃないですか」



「でも、あの状態で一年半以上持っていたことには驚嘆するよ。たった半年で、壊れてしまった人もいる」



「……お知り合いの方ですか?」



 つい尋ねた桃香だったが、祐太郎が黙り込んでしまったので、よけいなことを聞いてしまったと後悔した。



「あの、すみません。変な事を聞いちゃって」



 弱々しく謝罪すると、祐太郎は深いため息をついた。



「いや。――大学の同級生なんだ。ゼミでも一緒だった。


俺がコンサルの仕事を始めた頃から疎遠になって、彼女が就職してからは会うこともなかったんだが……一度だけ、留守電にメッセージが残っていた。


忙しくて後で連絡しようと思っていたら、仕事で追い詰められて自殺未遂を図り、鬱で入院したことを彼女と親しくしていた後輩から聞いて、さすがにつらかったよ」



 そしてまた、祐太郎はため息をついた。



「あの時、連絡をしていれば……と何度後悔したことか」



 祐太郎のせいではないと言いたかったが、部外者の自分がよけいな口を出すのは憚られて、桃香は黙って俯いている。



 すると祐太郎は気分を切り替えようとしたのか、急にビジネスライクな口調になった。



「そういうことで、木下さんの様子が気になった。だから、形はどうあれ知り合えて良かったと思っている。


ただ仕事が楽だということではないから、そのつもりで。


最初の一か月は覚えることが多くて、息が切れるかもしれない。そこは耐えてもらわないと」



 桃香は神妙な表情で頷く。



「もちろんです。楽をしたくて転職するわけではないので。ただの役立たずではなく、必要とされるような仕事ができればと思っています」



「自分のことを、役立たずなんて言うな」



 強い口調でたしなめたあと、言葉を抑えようとしているかのように、祐太郎は口元を手で覆った。そして、苦笑する。



「悪い。週末だからかな。疲れがたまって、少し感情的になっているようだ」



 すると桃香は、くすりと笑う。



「紺野さんでも、疲れることなんてあるんですね」



 祐太郎は、さも心外だといった表情になる。



「当たり前だろ。俺だって人間だ。なんだと思ってたんだよ」



「サイボーグみたいな、なんでもできるすごい人かなって」



 そしてまた、桃香はクスクス笑う。車内の暖房で温められるうち、酔いがまた回ってきたようだ。



 祐太郎が女性の話をしたとき、その言葉の端々にただの同級生というだけでなく、彼にとって大事な人だという印象が色濃くにじんでいた。



 そのたび桃香の胸が針で刺されたようにチクチク痛んだことは、笑顔の後ろに隠している。


 翌週の月曜日。


 如月と顔を合わせるのは憂鬱なものの、来月にはお別れなのだから……と奮起して出社した桃香だったが、始業時間が過ぎても彼女は現れなかった。


 勝手に仕事を進めたら進めたで怒られるため、桃香はぼんやりと先週末にトラブルがあった原稿をネット上でチェックしている。



 一通り見終えてもまだ如月は姿を現さなかったため、気が進まないものの、彼女の携帯番号を探そうとしたときだった。


「如月さん、今日は一日本社ですって。こっちには来ないみたい。だから今日は私がこっちも見るから、なにかあれば言って」


 キッズ部門のチーフを担当している近藤が桃香に声をかけた。近藤も子会社からの出向社員で、おそらく三十代前半。如月より若い。


 この女性もことなかれ主義で、桃香と言葉を交わしたのは、記憶にある限りではほんの数度だった。


「急ぎの案件はある?」


 尋ねながら、近藤は遠慮がちに如月のデスクに置いてある書類をペラペラとめくった。姿はなくとも、如月の存在感は絶大だ。


「いえ。先週のトラブルはもう終わったので……十二月頭まではそれほどありません」


「如月さんがいない間の指示は、とくにないのよね? じゃあ、こっちの原稿をチェックしてもらってもいい? 派遣さんが有給消化で休んでて追いついてないの」


「分かりました」


 キッズ部門は部内でも一番静かなチームで、席も一番離れているから、桃香にとって彼らの印象は薄い。


正直、キッズ部門に配属されればよかったと何度も思ったものだが、そもそも出向がメインの部署で、如月対策としての募集で入社したのだから、異動願いを出したところで叶うことはない。


 キッズ部門の商品データをチェックしながら、相変わらず任されるのは雑用ばかりではあるものの、桃香は入社して初めて、心穏やかな一日を職場で過ごすことができたのだった。


******


 その翌日。


 如月は出社したが、すぐ部長とともに会議室へと消えた。


 三十分ほど過ぎた頃に肩を落として現れた如月は、桃香には目もくれずに荷物をまとめ始める。


 部長が、各チームのリーダーを呼び寄せた。


「如月さんは本日から一週間の有休後、倉庫業務に異動してもらうことになった。次のチーフが来るまで、私がここに常駐する」


唖然として部長を見つめる桃香に、同期のチャラ男、川原がウィンクを送った。


(何なの、突然……)


 桃香の顔が引きつったが、川原は気にすることなく、涼しい顔で仕事に戻る。


 長年勤めるうちにたまりにたまった如月の私物は、大きな紙袋3つ分にもなっていた。パンパンに膨らんだそれを両手に提げた如月は、恨めし気な視線を桃香に送る。


「あんたのせいだからね」


 声は潜められていたが、ちょうどフロア内が静まり返ったあとだったため、よく響いた。


「如月さん、止めなさい。支度ができたなら、行こうか」


 部長の厳しい声が飛び、如月はまた桃香を睨み付けた。その目にうっすら涙がにじんでいるのを見て、桃香は怯む。


 今まで傷つけられてばかりだった相手が、弱い部分を自分に見せたことに驚き、そして僅かではあるが罪悪感のようなものも覚えた。


 ――自分が彼女に何かをしたつもりはないものの、自分の何かが彼女を傷つけたのだと感じたから。


「あの――」


 思わず声が出た。怒り・恨みのこもった如月の視線が、桃香を射抜く。それでも桃香は、震える唇から言葉を絞り出す。


「……今まで、ありがとうございました。お疲れ様です」


 如月は唇をかみしめ、もう一度桃香を睨み付けた。


「あんたのそういうところ、ほんとに嫌い。優等生ぶっちゃって」

 

 言葉を絞り出すようにそう返事をしたあと、足音荒くフロアを出ていった。その後ろに、部長がついていく。如月の入館証をビルの出口で回収するのだろう。


 二人の気配が消えたあと、フロアのあちこちからため息が聞こえてきた。桃香も同様で、どこか抜け殻のような雰囲気を醸し出している。そこへ川原が近づいて耳打ちする。


「先週のあれ、彼女の指示だったって証言したんだ。懲戒解雇かと思ったんだけど、そこまではしなかったみたいだね」


「え?」


 いつの間に……と驚く桃香に、川原は得意げな表情になる。


「今までフォローできなくて悪かったけどさ。俺だってあの人怖かったし。でも最近、横暴がエスカレートしていたからちょっと見かねてたんだよね。さすがに損害与えるのはどうかと思ったから、俺が部長に報告しといた」


 説明したあと、川原は初めて同期として顔を合わせたときの軽い調子に戻り、桃香を肘でつついた。


「やっとパワハラ婆がいなくなってすっきりしたところで、今夜祝杯でも上げにいく?」


「うーん……祝杯を上げる気分じゃないっていうか……。今夜は遠慮しとくよ」


 突然なれなれしい態度に戻った川原に慣れることができず、桃香は腰が引けている。


「今までだって、別に無関心だった訳じゃないよ。声をかけて励ましたいなと思ったけどさ、木下さんに話しかけるたびに如月さんの当たりがどんどん強くなってたから、話さないほうがいいなと思っただけで。俺だったら一か月もたたずに辞めてたね。もっと喜びなよ。よく耐えてたと思うし」


 別に川原が言い訳する必要はないのに――と思いながら桃香が曖昧な笑みを返していると、戻ってきた部長に会議室に来るよう声をかけられた。


「如月さんもいなくなったことだし、退職を考え直すつもりはない?」


 そう切り出され、桃香は困った顔で首を横に振る。


「いえ。もう、次の仕事が決まっているので」


「そうなんだ。じゃあ、仕方ないな。なるべく早く後任を決めるから、引継ぎを頼むよ」


「引継ぎって言っても……私、如月さんの雑用しかしてこなかったので。文字チェックとか、書類の整理とか……。それに私も有休消化をする予定なので、出社するのはあと十日くらいしかありませんが」


 祐太郎と出会ったあの日まで、桃香の向上心というものは完璧に打ち砕かれていたので、自ら進んで学ぶということさえ忘れてしまっていた。下手に口を出すと、また怒鳴られるという恐怖心もあり、質問することさえできずにいたあの日々。


 今思うと、なんてもったいない時間を過ごしたのだろうと思う。


 しかし、この会社とももう少しでお別れだ。


 ――だから、過去はもう振り返らない。


 失った日々を取り戻すためにも、これから祐太郎のもとで有意義な日々を過ごしていきたいと改めて考えた桃香なのだった。

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