過去との決別②
「痛い、痛い。ちょっと、ちゃんと座ってくださいよ」
顔をしかめて鈴木は文句を言っているが、相田を見る彼の目は優しい。職場であんなに風に言い合える相手がいるなんて羨ましい……と思い、二人の様子に桃香は笑みを誘われた。
逆に呆れたような視線を送っていた祐太郎だったが、ふと我に返り、桃香に尋ねた。
「十二月の頭には退職って言ってたよな? じゃあ、うちは年明けからってことにするか? 少しゆっくりしたいだろう」
「……そうですね。でも別にやることもないし、ずっと家にいると両親がうるさいので、お邪魔じゃなかったらお手伝いできたらなって思ってます」
「そうか。なら、改めて紹介しておこうか」
その場にいた全員が、立ち上がった祐太郎に注目した。
「もうすでに会っている者もいるだろうが、12月から一緒に働くことになった木下桃香さんだ」
とつぜん紹介されたので、届いたばかりのビールジョッキにちょうど口を付けたところだった桃香は、慌てて立ち上がった。
「よろしくお願いします。木下桃香です。若輩者ですが、よろしくお願いします」
おじぎをして顔を上げた桃香は、男性陣は困ったような表情、女性陣は何か言いたげな表情で自分を見つめていることに気づいた。
(どどどどどうしよう。私、浮いてる? 挨拶が変だった? なんか恥ずかしいこと言っちゃったかな。どうしよう、みんな呆れてるかも)
染み付いてなかなか消えることのないネガティブ思考が沸き上がりかけたとき、鈴木が冷静な口調で指摘した。
「木下さん。上唇に泡がついてる」
「え? あ、やだ! すみません!」
おろおろしながらお手拭きで口元をぬぐう桃香に、その場にいた全員は温かな視線を向ける。
「本当に木下さんてかわいい。ねえ、一緒に飲もうよ」
鈴木を押しのけ、相田が桃香に近づいてくる。すると祐太郎が片手を挙げて制した。
「ダメだ、来るな。酒癖の悪い相田に絡まれたら、木下さんが入社を思いとどまるかもしれない。鈴木、お前が相手をしろ」
「ええ? なんで俺が? 勘弁してくださいよ」
嫌そうな顔をしながらも、桃香に近づく相田を阻止すべく、鈴木は立ち上がった。
「あの二人、いいコンビだろ? 周りはさっさとくっつけばいいのにって思ってるんだ」
松山が桃香に耳打ちし、クスクスと笑う。
桃香の目には仲の良い同僚が単にふざけあっているように映っていて、相田と鈴木の間に恋愛感情があるようには見えない。
「え? そうなんですか?」
「そうそう。知らないのは当事者だけ」
眼鏡の奥の目が、楽しそうに微笑んでいる。
つられて桃香も微笑みながら、就職してから自然消滅した元カレ以来は色恋沙汰からめっきり離れていたから、そういう勘も鈍ってしまったのかもしれないと考える。
と、いきなり祐太郎が横から顔をぐいと突き出した。
「そいつは妻子持ちだ」
「はい?」
いきなり何を言うのかと驚いた桃香は、すぐ目の前で不機嫌な顔をしている美丈夫を見つめた。
「松山はけっこう女子に人気があるようだが、妻子持ちだ」
すると松山は気を悪くした風もなく、
「何言ってるんですか、紺野さん。取り立てて人気があるなんてことはありませんし、僕たちはあの二人について話していただけですよ」
と笑った。
すると祐太郎は不機嫌な顔で、
「お前は無邪気なたらしだな」
と言い放つ。
「はい? いつ僕がたらしたんですか」
「いつもだよ」
すると松山は肩をすくめ、
「やれやれ。じゃあ、僕はあっちの騒々しい二人の仲を取り持つとしましょうかね。それじゃ、木下さん。ゆっくり楽しんで」
と言って、まだ小競り合いを続けている相田たちのそばへ席を移動した。
「本人はああいっているが、社内女子の間では断トツ人気らしい」
どうしても腑に落ちないといった口調で、祐太郎が言う。
「そうなんですか? ……ああ、でも分かります。松山さんて優しそうですもんね。物腰も柔らかくて安心感があるというか――」
松山を褒めるうち祐太郎の顔が不機嫌になっていくように見えて、桃香は慌てて付け足した。
「あ! あの、紺野さんもすごく優しいです。本当に、このたびはすごく助けていただいて……」
すると祐太郎は、唇の端を上げた。
「松山は、確かに優しそうに見える。
でもああ見えて、あいつは笑顔のままで相手を追い詰めるからな。逆に怖いタイプかもしれない。アシスタントになった際は、気を付けるといい。
――でもあいつからは多くを学べるし、成長できることは確かだ。仕事では本当に頼りになる」
急に不機嫌になったり、かと思えば部下思いの顔になる。そんな祐太郎の横顔を、桃香は横目で様子を窺った。
祐太郎という人間の人となりを今もまだつかみきれずにいる桃香は、めまぐるしく変わる彼の表情に翻弄されているような気がする。しかしそれは如月のような不快さはなく、「どういう人なのだろう」と好奇心をくすぐられるタイプのものだった。
不愛想で言葉使いは荒いが、根底に優しさや思いやりが感じられるからだろう。
先日見学に行ったときにいなかった人や、挨拶できずにいた人から言葉をかけられ、酒を酌み交わすうちに酒が進み、桃香はだんだん楽しい気持ちになってきた。
会社を辞めることが決まり、気持ちに余裕が出てきたからだろうか。本来の「酔うと笑い上戸」の酒癖が顔を出し始める。
急にくすくす笑い始めた桃香に、祐太郎は眉をひそめた。
「おい、何がおかしい? 人がまじめな話をしているのに」
「いえ、なにもおかしいことなんて――でも……ふふっ……紺野さん、優しいなって思って」
「優しいと思うと、笑いがこみ上げるのか?」
「え? あ、これは癖で……別におかしいって訳じゃないんです」
言いながらまたクスクス笑っている桃香を、祐太郎は困ったような顔で見降ろした。
「おかしくないのに、笑うのか? この間は酔ってもそんなに楽しそうじゃなかったから、笑い上戸だなんて気づかなかった」
「それは……落ち込んでいたし、緊張していたので……」
ふと如月が思い出され、桃香はすっと酔いが覚めていくのを感じた。
――あの日は確か、シュークリームを如月にあげなかったことでへそを曲げられてしまい、当たり散らされた後だった。
祐太郎のシュークリームを潰してしまったのが、ついこの間のようにも感じるし、ずいぶん前のできごとのようにも感じる。
――あれからいろいろあったから……。
あの会社だけが、自分の世界ではないことに気づくことができた。
自分を受け入れ、評価してくれる場所があることに気づいた。
祐太郎に出会ったおかげだ。
(あの時はどうなるかと思ったけど……)
タクシーの中で生理中だと言ったことを思い出し、桃香は羞恥に首まで真っ赤に染める。まともに祐太郎を見ることができなくなり、ジョッキを傾ける手もぎこちない。
「どうした? 急に黙り込んで。――酔いが回ったか?」
「そういう訳じゃ……ないんですけど……」
祐太郎は、もしかして覚えていないかもしれない。そう思わないと、これから一緒に仕事なんかできやしないと思った桃香は、なんとかぎこちない笑みを浮かべた。その表情に何を思ったのか、祐太郎はまた語りだした。
「とにかく、酒より食事を摂れ。落ち込んだときはおいしいものを食うに限る。食べすぎたと思ったら、その分、動く。汗を流して老廃物と一緒にストレスもすっきりだ」
――この人は、悩んだことなどないのではないか。
容姿に恵まれ、会社を経営し、部下にも慕われているように見える。
「あのジムには、よく行くんですか? すごく高そうなのに」
思わずそう訊ねたあと、なぜ地雷を自分で踏みに行くのだろうかと桃香は冷や汗をかいた。
「一応、顧客なんでね」
「なるほど。そういうことだったんですね」
「一応、福利厚生で格安で使えるようにしてあるから、入社したらストレス発散に利用するといい。一人で行くのが心細いなら、相田あたりを誘ってもいいし」
「相田あたりってなんですか! その言い方はなんか失礼ですよ、紺野さん!」
地獄耳なのか、遠く離れた場所から相田が責めた。
それから一時間ほど過ぎた頃、
「そろそろお開きです。皆さん、お疲れ様でした。また来週から頑張りましょう」
と、相田が声を張り上げた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
祐太郎や周囲の人々に礼を言いながら立ち上がった桃香は、会費を払うために幹事らしき相田に声をかける。
「あ、これ。紺野さんの奢りだから大丈夫。月に一度、懇親会を兼ねてタダ飲みさせてくれるの」
お開きになったとたんに酔いが覚めた様子の相田に驚きながら、桃香は握っていた財布をバッグにしまった。
「……すごいですね。でも私、まだ働いてないのにいいんでしょうか?」
「大丈夫、大丈夫。紺野さんが誘ったってことは、もう一員としてみなしてるってことなんだから。心苦しいなら、その分、仕事で返せばいいの。来月から一緒に頑張ろうね」
一緒に頑張ろう――。
そんな何気ない一言に、また桃香は感動して涙ぐむ。
「……はい。よろしくお願いします」
「あー、相田さん。俺のほぼほぼ同期を泣かせてもらっちゃ困りますね」
いきなり鈴木が間に割って入った。
「はあ? 泣かしてなんか……あれ? どうしたの、木下さん。もしかして、プレッシャーに感じちゃった?」
桃香の顔を覗き込んだ相田が、少し焦った様子で尋ねる。
「いえ。逆に、とても嬉しくて」
「ほら! 泣かしたわけじゃないでしょ」
相田がどや顔で鈴木に向き直ると、
「木下さん、気を使わなくていいんだよ。相田さんが怖いなら、怖いって言ってくれて」
と肩に手を置いて慰めるふりをする。
最初の印象は二人ともとてもクールだったのだが、プライベートではとても親しみやすい性格のようだ。
再び言い合いを始めた二人を見て、邪魔してはいけないと思った桃香は、そっとその場を離れた。
「ね。知れば知るほどお似合いだよね、あの二人」
入口付近で固まっていた一団の後ろにひっそりと隠れるように付いた桃香に、松山が声をかけた。並んで立つと、松山もけっこう背が高い。
柔らかな物腰で、さりげない気遣いができるその人柄は、女子社員の人気が高いというのも納得だなと思いながら、桃香は頷いた。
「恋愛感情は分かりませんが、とても仲が良いですよね。見ているこちらまで楽しくなります」
「一緒に仕事をするようになったら、嫌でも気づくよ、きっと。……っと、奥さんからメッセージが来た。紺野さん、申し訳ないのですが、先に帰らせていただきます」
勢いよく二人の元に近づいてきた祐太郎に、松山が声をかける。その瞬間、不機嫌そうに引き結ばれていた祐太郎の唇がほどけた。
「どうした?」
「どうやら子供が熱を出してしまったらしく。夜間診療所に連れていかないと」
松山の普段のにこやかな表情が一気に暗いものへと変わり、早口に説明した
「急いで帰れ。また来週」
「ありがとうございます。じゃあ木下さん、またね。皆さんも、お先に失礼します」
軽く片手を上げて挨拶し、松山は速足で帰途に着く。その後ろ姿を見送りながら、桃香は隣に立った祐太郎に問いかけた。
「お子さん、大丈夫でしょうか? おいくつくらいなんですか?」
「今年、二歳になるそうだ」
「じゃあ、まだ赤ちゃんなんですね。かわいい盛りだし、さぞ心配でしょうね……」
桃香の言葉に、祐太郎は頷いた。
「ああ見えて、かなり子煩悩だしな。――この間と同じ場所まで送ろう。車はもう呼んだから、すぐ到着すると思う」
「いえ。今日はそれほど飲んでませんし、一人で帰れますので」
電車で帰ると言っているほかの社員の手前、まだ入社もしていない自分だけが特別扱いされるのは気が引ける。遠慮する桃香の肩に、相田が手を置いた。
「私たちのことは気にしなくていいよ。紺野さんの仏頂面を見るより、みんなでわいわい電車で帰ったほうが楽しいし」
その言葉を聞いた祐太郎が、間髪入れずに釘を刺す。
「……ほかの乗客に迷惑をかけないように」
「分かってます。じゃあ紺野さん、木下さん、お疲れ様です。また来週」
相田はほかの社員と連れ立って、駅へ向かって歩き出した。
「送るというより、話したいことがある。車内会議だと思ってくれればいい」
「話したいこと……ですか?」
「今後のこととか――入社の条件のようなことを、まだ細かく詰めていないだろ?」
「ああ! そうですね。確かに」
桃香は納得した様子で頷いた。職場環境だけは十分すぎるほどに確認したのだが、給料とか福利厚生など、まだ確認していないことも多くある。
別に今じゃなくても……とは思うが、桃香ももうしばらく今の会社で働くのだから、移動時間を有意義に使おうとしてくれているのだろう。
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