過去との決別①
あと一時間程度で定時になろうとしていたときだった。本部になる広報部の電話を受けた桃香の耳に、
「なんでレディース物だけいきなりセール価格になってるの? あれは十二月の歳末セールなんだけど! 今日はその予告だけ出してって連絡したじゃない!」
と、怒声が響いた。
「え? ぜんぶ反映するようにって聞いたんですけど……」
「そういう行き違いは本当に勘弁して。とにかくデータを書き換えて。システムのほうで今いったんサイトを止めてるから。もう……とりあえず急いで。お願い」
呆然としながら如月を見ると、すました顔でパンフレットをめくっている。心なしか機嫌が良いように見えるのは、おそらく桃香が会社に大損害を与えるような失敗をしたと考えているからだろう。
桃香は、怒りのあまりめまいさえ感じた。
「如月さん。私、確認しましたよね? 最新に差し替えるということですか、って」
「自分で判断してって言ったと思うけど」
「分かってるんだったら、聞かないでよって言いましたよね? それって了承したと思いますよね?」
「そう? 私はそう思わないけど」
「いい加減にしてください! 私が気に食わないのだとしても、これはやりすぎです! 会社に迷惑かけるような――ああ、もういいです。急いでデータを差し替えなくちゃなので」
初めて自分に反抗した部下に憤慨するあまり、如月は一線を超えてしまったのだろう。相手にするだけ無駄だと思い、桃香はPCに向かう。
「なに、その言い方。仮にも上司に向かって――」
「上司なら、仕事の邪魔をしないでください!」
目の前の業務に必死な桃香は、怯える暇などなかった。怒鳴り返された如月は目を剥いたが、周囲の冷ややかな視線に気づき、舌打ちをしてまたパンフレットをめくり始める。
桃香がPCに向かって猛然とデータの修正を開始した頃、広報部から苦情を受けた部長は、如月のいるレディース部門ではなく、メンズ部門に確認の連絡を入れた。電話を受けたのは桃香の唯一の同期、チャラ男の川原だ。
「はい。確かに入力をしたのは木下でしたが……指示をしたのは如月チーフです」
今まで面倒ごとを避けてきた川原がこのとき初めて、同期を助けたのだった。
***********
「そういうわけで、あの、せっかく誘っていただいたのですが、伺えなくなってしまって……」
17時半には元のデータに直すことができたのだが、システム部門のほうでサイトの公開を再開し、その後エラーがないかのチェックを終えるまでは帰ることができない桃香は、給湯室から祐太郎に電話をした。
「そうか。……いずれにしても、業務が終わったら一度俺に連絡をくれ」
「でも何時になるか……」
「いいから、電話をしろと言ってるんだ」
「あ……はい」
待っていると思うと心苦しいのに……と思いながら、桃香は了承した。
システム上では問題なく、気づいてすぐメンテナンス表示に変えたため、予想していたより被害は小さかった。
すでに購入した顧客はいたが、事の経緯を説明し、いったんキャンセル扱いとさせてもらって、代わりにお詫びのクーポンを送ることで大ごとにはならずに済んだ。平日の昼間だったことも幸いしたのだろう。
すべての作業が終わり、完全に大丈夫だと確信できた頃には、すでに21時を回っていた。
桃香が忙しくしている間、他人事のようにふるまい、定時にさっさと帰り支度をしていた如月は、終業間際に部長から入った連絡に顔色を変えて、そそくさと本部へと向かった。
その後、如月からの連絡もないので、指示を仰ぐ必要もないだろうと判断し、桃香は帰り支度を始めたのだった。
桃香はすでに人気のない職場を出て、薄暗いエレベーターホールへと向かった。
(あ、そうだ。紺野さんに連絡しなくちゃ)
約束していたことを思い出し、エレベーターホールで電話をする。
『終わった?』
いきなり聞かれたが、少しずつ紺野のペースに慣れてきた桃香は、笑顔で答える。
「はい、やっと」
『なら、迎えに行くから、正面玄関のあたりで待ってろ』
「え? でももう遅いし……」
『腹は減ってるだろ? みんな飲んでばかりいたから、食べ物はたくさん残っている』
そう言われたとたん、桃香の腹の虫が鳴く。
「そうですか。じゃあ、伺おうかな……」
答えたとたん、電話が切れた。
正面玄関はすでに施錠されていたので、桃香は警備員に挨拶し、裏口から出た。建物をぐるりと回って正面玄関へ向かう途中で、大股で歩く祐太郎に出くわす。
「あ、お疲れ様です。すみません、迎えに来ていただいて……」
「いいって。それより、こんな時間までお疲れ」
今の職場では一度もかけられたことのなかった労いの言葉に、桃香は感動した。しかもさきほどまでトラブルの対応でピンと張っていた緊張の糸がプツンと着れたのもあって感情が高ぶり、目頭が熱くなる。
しかしここで泣いては祐太郎も驚くだろうし、なにより自分が恥ずかしい。大きく息を吸って喉元に上がってきた熱い塊を飲み下し、笑顔で
「ありがとうございます!」
と返事をする。
すると祐太郎は少し驚いたような顔をして、その後、口の端を少し上げた。
「いいね。それ」
「はい?」
戸惑う桃香に、祐太郎は笑みを大きくする。
「今は、下を向いてない。だからすぐ俺に気づいただろ? 前だったら、ずっと下を向いて俺に気づかず、前を突っ切ってっただろうな。――うちに転職を決めて良かっただろ?」
桃香は、祐太郎の整った顔を見上げた。
「そうですね。……本当に、決めて良かったです。まだ安心はできませんけど、でも12月の頭には辞めることができそうです。紺野さんのおかげです。ありがとうございます」
すると珍しく紺野が目をそらした。顎のラインもきれいだな……とぼんやり考えながら桃香が見つめていると、
「さ、行くぞ。料理が冷める」
と言って、さっさと歩きだした。
その後ろを、桃香は小走りで追いかけていく。初めて二人で出かけたときと同じように、少し距離が離れると、祐太郎は立ち止まって桃香を待っている。その繰り返しがなんだか楽しくて、桃香はほんのり頬を染めていた。
「お疲れ、木下さん!」
案内された小さな居酒屋ののれんをくぐり、奥の座敷へと向かうと、軽く出来上がった状態の相田が元気よく出迎えた。大きなテーブルを、二十人程度が囲んでいる。
「相田さんも……皆様もお疲れ様です。遅れてしまってすみません」
「いいの、いいの。今日のすみませんはあまり卑屈に聞こえなくていいね」
相田が言うと、隣に座っていた鈴木が彼女の肩を軽くつついた。
「うるさいよ、酔っ払い」
「はあ? 先輩に向かってうるさいとは何」
「先輩後輩は関係ないって言ってたのは相田さんだろ」
「それにしたってねー」
祐太郎は、言い合いを始めた二人から遠く離れた場所を指さした。ちょうど二人分の席が空いている。その横で、直属の上司になる予定の松山が桃香を手招きした。
「お疲れ様です。遅くなりまして……」
恐縮しながら桃香が座ると、松山は笑顔で
「いやいや。仕方ないよ、仕事だったんだし。なんだか大変だったみたいだね」
と言いながら、桃香に取り皿を差し出した。
「ええ、まぁ……。でも解決したので大丈夫です」
さすがに関係のない会社に詳しい業務内容を話すわけにはいかないから、桃香は苦笑してそれだけ答える。
「そっか。お疲れ様。まあ、食べてよ。さっき紺野さんが、木下さんのために注文――」
桃香の頭ごしに祐太郎に睨まれた松山は、苦笑した。
「……本当に、いろいろお気遣いいただいて……」
さらに恐縮する桃香の皿に、祐太郎は無言でアボカドサラダを取り分けた。
「無駄口叩いてないで、さっさと食べろ」
するとテーブルの向こう側から、相田が大声を張り上げた。
「そういう言い方じゃ、木下さんが怯えちゃいますよ、紺野さん。もっと……こう……召し上がれ! って感じにですね」
そう言いながら相田は隣に座っていた鈴木の肩に肘を置き、身体を支えた。
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