辞めたいのに②
このまま部長の言葉に頷いてしまったら、下手をすると次の人が定着するまで辞められない。ここでうやむやにするわけにはいかない――と思い、桃香は珍しく反論する。
「それはちょっと……困ります。できれば民法で定められた二週間後、もしくは遅くとも就業規則通りの一か月後に退職したいです」
部長としても、あの従順すぎるほど従順だった桃香が反発してくるとは思っていなかったのだろう。しばし沈黙して考え込んだあと、
「検討させてくれ」
とだけ言った。
「……大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
返事を先延ばしして時間稼ぎをするようなら、部長を飛ばして人事部に直接連絡したほうがいいだろうか。そんなことを考えながら、桃香は受話器を置いた。
***************
『あー、やっぱり? だと思ったけど、無理に引き止めることはできないはずだよね、本社の人も。今まで何のフォローもなかったんでしょ?
もともと問題があるって分かってるのに次から次へと人を送り込むだけで、コンプライアンスの強化どころかヒアリングさえなかったんだから、こっちが強く出れば何も言えないはずだよ。負けるな、木下さん!』
そう励ましてくれたのは、相田だった。先日の会社見学の際にSNSで友達登録したので、部長とのやり取りを知らせたところ、そう返事が返ってきたのだ。
一年以上一緒に働いてきた同僚たちよりよほど親身で、この人と一緒に働けたら楽しいだろうなという希望に桃香の胸が膨らむ。
『頑張ってみます。紺野さんにもよろしくお伝えください』
そう返信すると、
『本人に直接言ったほうが喜ぶと思うよ』
と返ってきた。
――ああ、そうか。お世話になるんだから、お礼は人づてじゃなくて、ちゃんと直接言わないと
反省した桃香は、祐太郎のアカウントにメッセージを打ちこんだ。
『昨日は大変お世話になりました。本社に退職の意向を伝えたところ、検討してくださるとのことです。もし退職できた際には、ぜひよろしくお願いいたします』
すぐ既読マークがついたので驚いていたところ、
『問題が起きたら、すぐ連絡しろ』
と返ってきた。
『ありがとうございます』
『今週の金曜、仕事が終わったあとは何か予定はあるか?』
『特になにもありません』
『みんなで食事をするから、一緒にどうだ。いずれ一緒に働く仲間なのだし、親睦を深めるといい』
場違いなのではないかと一瞬躊躇した桃香だったが、悩むよりまずは行動しろと言った祐太郎の言葉に従い、
『ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください』
と答えたのだった。
新しい会社への期待に足取りも軽くなっていた桃香だったが、それも長続きしなかった。
桃香が部長に連絡した翌日、如月のもとへ朝一で連絡が入った。嫌な予感を覚えながら画面上で文字チェックを行っていた桃香だったが、如月の表情が受話器の向こうの言葉に耳を傾けるうちにどんどん険しくなっていくのを見て、背筋が冷たくなる。
受話器を戻した如月は、
「木下さん、ちょっと来てくれる?」
とだけ言った。いつもなら人目を気にせず怒鳴りつけるのに、今日に限って給湯室に呼びつけられたのだ。
「あの……」
シンクに手をかけて負のオーラを漂わせている如月の背に、桃香は怯えながら声をかける。するとものすごい勢いで振り返り、怒りに歪んだ顔で怒鳴り始めた。
「なんなの、本部に文句言うなんて。あなたが仕事ができないから、わざわざ指導してあげてるんじゃない? それを急に辞めるなんていうから、私が責められたじゃないの!」
「……い、いえ、私……如月さんのことはなにも……」
「でもさ、今の環境に不服があるから辞めるって言ったんでしょ? それって、チームをまとめる私がダメだって言ったことになるわよね? 私のせいで辞めるって言いたいんでしょ?!」
その通り!
――とはさすがに言えず、桃香はただただ小さくなって俯いた。
ここまでキレてしまった如月には、何を言ったところで耳に入ることはない。
おとなしく、嵐が過ぎるのを待つしかないと思ったからだ。
「ふざけんじゃないわよ。ただでさえヘマばかりして手間のかかるあなたをせっかく育ててあげてるのに、すべてが無駄になるのよ? また新人に1からおしえなくちゃなのよ?」
「それは本当に申し訳ないと……」
「申し訳ないって思っていたら、辞めるなんて言わないでしょ! 私のせいになるんだから! ほんっと、むかつくわ」
バンとシンクを手で叩き、如月は給湯室を出ていった。
桃香は震える指をポケットに入れ、呼びつけられたときに起動しておいたスマホの録音を止めた。
『いい? なにかあったら、すぐ録音しておいて。パワハラの証拠になるんだから』
相田の提案だった。
「怖すぎ。なにこの人」
録音を聞いた母親は険しい表情になり、父親は唖然としている。
「桃香、よく一年も耐えたね……。もうさっさと辞めちゃいなさい。こんなところにいたって、成長なんてしないんだから。お父さんも、分かった?」
父親はバツが悪そうな顔をして、テレビ画面を凝視しながら
「そうだな。うん……これはすごいな……」
とつぶやいている。励ますつもりが逆に愛娘を追い詰める結果になっていたことに気づき、胸中穏やかではないのだろう。
「えーと、なんだっけ。誘われているその会社はすごく雰囲気が良いんでしょ? 桃香が納得している会社なら、文句は一言もないわよねぇ?」
追い打ちをかけるように母親が尋ねると、父親はこっくりと頷いた。すると母親は満足したように桃香に向き直る。
「これ以上引き留めようとするなら、労働基準監督署なりなんなりにこの録音渡しちゃいなさい!」
「ありがとう、お母さん。でもなるべく穏便に済ませたいと思ってるの。同じビル内に転職するわけだし」
そう答えながら、自分の次に来る人のために、部長とはきちんと話すべきなのだろうとも考える。それはそれで神経をすり減らす作業になるのだろうと思うと、やはり気が重い。しかし希望を持って新しく入社してくる人が、自分と同じ苦しみを味わわせることになるのは避けたいと思ったのだった。
以来、如月の当たりはかつてないほどひどくなった。出社しようとすると胃が痛くなるほどだったが、とにかく自分に非のある行動は慎もうと、桃香は気力を振り絞った。
木曜日、部長が桃香と面談するために久しぶりに販売促進部に顔を出したときは、足が萎えるほどに安堵した。部長がいるときだけは、如月は優しいからだ。
「それで、退職の理由をはっきり教えてくれないか」
会議室で部長と二人きりになった桃香は、先日の録音を再生した。
はじめは驚き、次第に顔をしかめ、最後には無表情になった部長が放った言葉は、
「これ、無断で録音したの?」
だった。
「そもそも社内でこういう録音をするっていうのは、ちょっと常識がないというか。下手をすると懲戒解雇の原因にもなるんだけど」
如月の罵倒に耐えた桃香をねぎらうことも、これまで如月の行動を放置していたことを謝罪することもなく、いきなり脅され、桃香の瞳に涙が盛り上がる。
しかしあらかじめ用意していた言葉を、桃香は声を震わせながらもしっかりと告げた。
「パワハラを告発する際、録音は唯一の証拠となります。ですので、懲戒処分には当たらないと思います。
そもそも懲戒解雇処分は、労働者の行為が秩序を乱したり、業務に支障を与えたときに適用されます。この場合は逆に秩序を取り戻すために必要な行為とみなされると、法律に詳しい方に教えていただきました。
むしろこの録音を理由に懲戒処分をされるなら、大変遺憾ではありますが、告訴するしかないのかな、と。また、この録音のほかに、ここ数年で同部署内で退社した人数、期間もその証拠となりうるとのことで……」
言葉を押し出すたびに、冷たい空気が会議室に流れる。両親が調べてくれた内容を一通り話した桃香は、呼吸することさえ苦しく、俯いて息を詰めていた。
しばらくすると、部長は大きなため息をつき、両手で顔をこする。
「まさか君が、こんなことをするとはねぇ……。で、その録音は?」
「両親にも聞いてもらい、その後データのコピーを取りました」
「……なるほどね。じゃあ、希望通りの期間で退社を認めれば、お互いにとって幸せな結果になると、そういうことかな?」
「そうですね。ただ……今のままでは、同じことの繰り返しになってしまいます。今後の人のためにも、対策を考えていただければと」
「まぁそうだよね。ここまで人が変わってばかりじゃ会社としても手間がかかるわけだし。しかし対策って言ってもねぇ。例えばどうすれば長続きすると思う? 如月さえいなくなれば、平和になるのかな?」
まるで自分にはまったく非がないといった言い草の部長に、さすがに桃香もムッとした。
「それを考えるのは、部長や本部の仕事ですよね。そこまで私に意見を求められても困ります」
いつも弱気な桃香が予想外に強い口調で言うものだから、万策尽きたといった表情で部長は苦笑し、もう一度ため息をついた。
「分かった。そこまで言うなら、仕方がないね。ただ社内の規定通り、あと一か月はいてほしい。それまでに次の人を探すから」
これ以上、如月のいじめに耐える気力は桃香の中に残っていない。しかし期限が決まっているのならなんとか踏ん張れそうだ。
「見つからなくても、一か月で辞めます。あと、有給をぜんぜん使っていないので、そちらも利用させていただきます」
「……分かった」
部長が会議室から出ていくと、安心のあまり、桃香の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
その後、部長と如月が会議室に入った。桃香としては気が気ではない時間が続き、ドアが開いたときは机の下に潜り込みたい気分になる。しかしその日は部長がずっとフロアにいたので、桃香は如月に罵倒されることなく、帰宅したのだった。
翌日は部長がいなかったが、釘を刺されたのか、とくに突っかかってくることはない。というより、まるで桃香が存在しないかのような態度を取られ、非常に仕事がやりにくい。
その日、昼食から帰ってきたら、いきなり机の上に商品データを出力した書類が置いてあった。
「あの……如月さん、このデータは……」
桃香が尋ねると、如月は顔を上げることなく、
「いつものように処理しといて」
とだけ答える。
「いつものように……って、あの、これを最新に差し替えろということでしょうか?」
「一年以上もやってたんだから、それくらい自分で判断できるでしょ」
それでもなんとなく不安を覚えた桃香は、恐怖を押し殺してもう一度念を押した。
「でもあの、確認させてください。これを最新に差し替えてよろしいんですよね?」
「ああ、もう。分かってるんだったら聞かないでよ」
その返答に安堵して、PCに入力を始めた桃香だったが――。
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