辞めたいのに①



 いざ転職を決意したまでは良かったものの、辞めると伝えたあとに如月がどう出てくるかが気になって仕方がない桃香は、悶々と悩んでいた。


(如月さんに先に伝えるべきか、飛ばして本社に連絡するか……)


 父親に相談すると、返ってきた言葉は

「そんな得体も知れないベンチャー企業、しかも三十そこそこの若造がやってる会社なんて、いつダメになるか分かったもんじゃない。

それにまだ二年目じゃないか。そんなんじゃ何も身についてないんじゃないか? 今のところのほうが知名度はあるし、安定もしているだろう。

それなのにふらふらするなら、結婚相手を探したほうがいいんじゃないか?」

といった内容だった。一人娘だから、本当は嫁になど出したくないはずなのだが、昔かたぎの父親としては、転職という行為自体に強い抵抗があるようだ。


「変な会社じゃないよ。取引先はけっこう大手が多いみたいだし、成長も続けているよ。今の会社は雑用ばかりだから身につくものってほとんどないけど、今度の会社は営業アシスタントから初めて、実力次第でどんどん仕事を任せてくれるって言ってるし。職場の雰囲気も明るくて――」


 必死に説明する桃香だったが、父親は口をへの字に曲げたままだ。


「そりゃ、最初は良いところばかり見せるんじゃないか? 今の会社で実力を認めてもらうのが一番だと思うけどな」


 父親一人説得できないのに、なかなか人が長続きしない職場で一年以上続いている貴重な人材を簡単に手放さないであろう本部を相手はなおさら、そう簡単には辞めさせてくれないのではないか。


 そう思った桃香は、シュンとしょげ返る。


 すると仕事に関して一切口を出したことのない母親が、いきなり割って入った。


「あのね、お父さん。パワハラやサービス残業で疲れ切った社会人の自殺が連日報道されているっていうのに、明らかに問題があると思われる職場で我慢しろなんて言えないでしょ。鬼じゃあるまいし。私はこれ以上『頑張れ』なんて言えない」


「別に俺は、そんなつもりじゃ……」


 予想外の母親の反撃に、父親はたじたじとなっている。


「ごめんね、桃香。もっと早く「辞めちゃえば?」って言ってあげれば良かった。でも職場のことは何も言ってくれないから、相談されるのを待ってたんだけど、ちょっと待ちすぎちゃったね」


 母親の笑顔を見て、桃香の目に涙が浮かぶ。


「うん。ありがとう、お母さん」


 父親は気まずそうに咳払いし、湯飲みに入った茶をすすった。



 その翌日。


 如月がいない時間を見計らって(たいてい、15時頃になると一人でおやつ休憩に行く)、桃香は本部に電話をした。一年に一度か二度程度しか見かけない部長を呼び出し、辞職の意向を伝えたとたん、

「ちょっと待ってくれ。急に言われても……。待遇などを見直しても、無理ということか?」

と、慌てて引き留められた。


 原因は如月だと分かっているくせに、今もなお気づかないふりをする部長に、桃香は空を仰いだ。


「そうですね。申し訳ないのですが、辞める意思は変わりません」


「それなら来期の新入社員を配属するから、それまでいてくれないか」


「……来年の春まで、ですか?」


「その後、引継ぎもあるだろうから……五月くらいまでいてくれると助かる」


「……それはちょっと。それまで派遣の方にお願いするのは無理ですか?」


「そうだね。そうすぐに見つかるとも思えないし」


 ――見つける気がないのだ。


 桃香が辞めたら、なかなか続く人を見つけることができなくなるから。新入社員が入るまで、何人変わることやら……と危惧しているのだろう。




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