顔を上げて②
「そうなんですか? 当時のことはあまり記憶に残っていなくて、すみ……」
また謝りそうになって慌てて口を閉じる桃香を見て、祐太郎はため息をついた。
「身体を動かしてみて、どうだった? 少しはストレスを発散できた?」
「はい。もちろん。久しぶりなので、ついていくのが精いっぱいでしたけど……ほんと、同じプログラムをやっていたおばあさんのほうが元気なくらいで。でも終わったあとは気持ち良かったです。ありがとうございました」
「そうか。それは良かった」
ウェイターがやってきて、白のスパークリングワインをグラスに注ぐ。すっきりした味わいで飲みやすく、桃香は二口で飲み干してしまった。
「おいしい……」
桃香は小さくつぶやき、満足そうに小さく頷いている。その様子を見て、祐太郎は唇の端をわずかにほころばせた。
「さっきの大戸さん――ここのオーナーだけど、前の職場では自分の力を活かしきれないと悩んでいて、独立することにしたんだ。独立に当たってのコンサルティングを行ったのが、俺なんだ」
「へえー。あの、システム関係の会社なのかと思ってました」
「そっちもやるけど、システムを絡めた経営コンサルティングってところかな」
「なるほど。なんだか難しそうなお仕事ですね」
「いや。楽しいよ。過程で苦労をしたとしても、協力させてもらった人や企業が成功する姿を見るのがやりがいになっている」
「楽しい……か。私もそう思えたらな」
つい口を滑らせて、桃香はおどおどする。
「いや、あの。別に仕事がイヤなわけじゃ……」
なにかの拍子に如月が自分の愚痴を耳にしたらと思うと、ほぼありえないと分かっていても、恐怖でがんじがらめになる。
「誰だって仕事で悩むことはあるけど、目的意識を持って、やりがいへと昇華することのできる仕事に就ければ一番なんだろうな。そのために続けるべき仕事、辞めるべき仕事っていうのはあると思う」
「そ、そうですね……」
どうしてこの人はいちいち小難しいことを自分に言うのだろうと不思議に思いながら、桃香は目の前に置かれた前菜の盛り合わせに手を伸ばした。
「そういえば、タクシーの中で聞いたよね。ストレスの原因について」
祐太郎は唐突に話を切り替えた。
「ああ……そうですね。それはきっと、自分のせいなんです。頑張ろうと思うほど、失敗してしまうというか。本当に、ヘマばかりで」
桃香は苦笑する。入社以来、ヘマをしない日なんて、一度もなかった。
「ヘマってなに?」
「え? たとえば……ぶつかってシュークリームを落としてしまったこととか。あと、資料のデータを間違えたとか」
「そんなの、すぐ取返しのつくことだろう? それに部下への土産はサプライズだったから、別になくても残念がる奴はいなかったし、俺は大丈夫だと言ったはずだ。資料のデータは修正すれば済むし、その後は同じミスを繰り返さないように気を付ければいい。もしくは――」
祐太郎の熱弁を、桃香はひきつった笑みを浮かべて聞いていた。
――簡単に言うけれど……そう簡単じゃないからつらいのに。
しかし次の言葉に、その笑みも消え失せる。
「もし自分を追い詰めるだけで、何も成長できない仕事なら、それは君にとって辞めるべき仕事なんじゃないかな」
「……どうしてそういう話になるんですか?」
――どれほど苦労して採用を決めたか知らないくせに。
「社員を例えるのに、よく歯車という言葉を使うだろう? でも歯車は時々油を差してメンテナンスしてあげないと、軋んで、もしくは磨り減ってうまく回らなくなる。
馬車馬のように働くという言葉もあるが、それだって手綱を引きっぱなしでは馬の体力が尽きて馬車は動かなくなる」
「はあ……」
――そんなの分かってるし。でも一つのところで諦めずに一生懸命頑張るのって、悪いことじゃないよね?
桃香のイライラが募る。
「まして人間は、歯車や馬よりよほど脆弱だ。無理ばかりしていると、そのうち壊れて――」
「……そんなの、分かってます。でもそう簡単に辞めるわけにはいかないんです。
紺野さんみたいに優秀な方なら、会社もある程度意見を取り入れてくれるんでしょうけど、私はただの平社員で、まだまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんあるんです」
声にはあまり張りがないが、桃香としては精いっぱいの主張だった。
今まで如月の嫌味に耐えてきた日々を全否定されたような気分になり、涙目になる。
「じゃあ、その職場で、今まで何を学べた?」
「それは……」
桃香は言葉に詰まった。普段、そんなことを考えて仕事をしていなかったから。とにかく怒らせないこと、ヘマをしないこと。それだけを考えて、毎日を過ごしてきたから。
「あえていえば……忍耐?」
以外に何も思いつかない桃香は、困ったような顔をして答えた。
「ああ、うん。大事だよな、忍耐。でも木下さんのキャパを超えた重みを耐えてばかりいるから、そんな猫背になってしまったんだと思う。まだ若いのに」
「若いっていっても、もう二十代も半ばですから」
「俺から見れば、十分若いよ。もうすぐ三十になる」
「えっ。じゃあ、29歳ですか? なのに、なんかすごく重要なポストを任されてそうな……」
「重要というか、俺の会社だから」
「俺の会社ってことは、社長ってことですか?」
祐太郎が頷く。
説教じみた彼の言動から、なんとなくかなり上の役職に就いているような気がしていたが、まさか代表だとは思っていなかった桃香は、尊敬のまなざしを向けた。
「すごい。いつ起業したんですか?」
「最初は会社ではなかったけど、この仕事を始めたのは大学四年。知人の起業を手伝ったりするうち、口コミで客が増えて。もともと漠然とだけど社会の役に立ちたいと思っていたから、こうやって人助けのようなことができるのは嬉しいなと思って今に至る」
「本当にすごい。私なんて、とにかく就職したいとしか考えてなかったから……手に職もないし」
「漠然とでいいんだ。何かない? こういうことをしたかったとか」
再び祐太郎のペースに巻き込まれた桃香は、次に届いたロゼワインを口に含みながら考え込んだ。
「そうですね……。
あの時は手当たり次第……といってはなんですけど、とにかく数打ちゃ当たるんじゃないかっていう気持ちでひたすら多業種を回っていたので。
何がしたいっていうより、とにかく採用されたいっていうのが目的になってました。
アルバイトでやってた接客業は楽しかったんですけど……そこで学んだスキルを活かる仕事ならっていう気持ちはありましたね」
「じゃあ、そこで得たスキルっていうのは?」
一つ答えたとたんに、次の質問がやってくる。
まるで圧迫面接を受けているような気分になり、桃香の思考が停止した。
「えーと……スキル、ですか?」
「そう。接客業で学んだスキル」
「……あの、すみません。最近あまり考えたことがなかったので、どうって言われても……すぐに思いつきません」
自分がまた謝罪していることにさえ気づかないほど、桃香は混乱していた。
「そうか。でも一つはあるだろう? さっき俺が言った、元気な挨拶と明るい笑顔。
それは身に着けたものというより、すでに備わっていたものだろうけど、これも一つのスキルだと思う。
何も思いつかないなら、まずはそれを取り戻すことから始めたらどうだろう?」
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