顔を上げて③
「そうですね……。できれば、の話ですけど」
職場に行くとどうしても萎縮してしまい、声も小さくなってしまう。
如月を前にして笑顔で、大きな声で挨拶などできそうもないが、そんなことを祐太郎に説明しても仕方のないこと。
また質問責めに合うだけだ。
――それに、なんだか酔ってきた。
食前酒のスパークリングワインを一杯、次のロゼワインも2杯程度は飲んでいる。
次から次へと質問を受けて動揺していたせいか、無意識のうちにぐいぐい飲んでいた。
そしてデザートと共に運ばれてきたのは、甘口の赤ワイン。
桃香は酒に弱くもないが、強くもない。
4杯のワインは、桃香にとってはけっこうな量になる。
酔ってくると基本的には笑い上戸になるのだが、今は笑える要素がなにも見当たらないので、酔いの行き先を見失っているような状態だ。
「できない理由は?」
――また質問だ。
デザートのサラメ・ディ・チョコラータをつまみながら、桃香はため息をついた。
おいしいデザートに対する満足のため息、そして疲労のため息が入り混じっている。
その後、酔った勢いで思ったままの言葉を口にした。
「代表の紺野さんはご経験がないと思うんですけど、やっぱり、平社員には平のつらさというものがあるんです」
そして、紺野の顔色を窺いながら言葉を切った。この辺はもう骨の髄まで染み込んだ癖になっているのだろう。
紺野は気を悪くした風もなく、続きを話すよう促した。
「どういうことかな?」
「だから……意見を聞いてもらえないとか、ミスをすると怒鳴られるとか、朝は一番に出社してお茶の用意をするとか、服装にもいちいちチェックが入るとか、そういうことです」
そう言いながら、言葉にしてみると大したことではないように感じて、桃香はだんだん恥ずかしくなってくる。
なんだか子供じみてはいないか……と、小さくなった。
「……細かいことも、日々積み重なれば、それなりのストレスになりますよね……」
「でもそれは元気な挨拶ができない理由にならないのでは?」
淡々と指摘する祐太郎に、再び桃香の感情が揺れた。
「なるんです! だってやることすべて、全否定されるんですよ? つらくないですか?」
言ったあと、自分の言葉にショックを受けた桃香は、それ以上話さないように自分の指で唇を押さえた。
口に出したことで、よけいに胸が痛く、苦しくなるのはなぜなのだろうと思いながら。
「全否定?」
理解できないとでもいうかのように、祐太郎が眉を寄せる。
「え……っと、すみません、言いすぎました。聞かなかったことにしてください」
祐太郎の表情を見るうち、桃香は自分が恥ずかしくなってくる。
自分が全否定されるような人間であることが。
そしてそれを祐太郎に知られることが。
酔いのせいか、それとも羞恥のためなのか、顔を真っ赤に染めてうつむく桃香に、祐太郎が提案した。
「それならやはり、そこは君にとって辞めるべき職場なのだと思う。そこはさっさと見切りをつけて、うちに就職すればいい。歓迎するよ。
その猫背をまっすぐに伸ばして、かつての笑顔を取り戻すことが条件だけど」
「え? でも、そんな急に……」
混乱しすぎて、桃香の視界がぐらりと揺れる。テーブルに肘をつき、頭を抱え込んだ。
すかさずウェイターがやってきて、
「お水をお持ちしましょうか?」
と尋ねるので、桃香は速攻頷いた。
届いたグラスになみなみ入っていたほんのりレモンの香りがする炭酸水を飲み干すと、少し気分が落ち着く。
「大丈夫か?」
祐太郎は困ったような表情をして、桃香の顔を覗き込んだ。彼の顔を間近で見た今この時、桃香は初めて祐太郎を男性として意識した。
(まじか。きれいな顔……)
桃香の顔に何を読み取ったのか、祐太郎の表情がほんの少し和らぐ。
「俺の顔をまっすぐ見たのは、あれ以来、初めてだな」
「……そうですか?」
照れながら、桃香は問い返した。
「最近は俯いてばかりいて、前なんてぜんぜん見てなかっただろ?」
「はぁ、まあ……」
桃香はまだ火照っている頬を手の平で抑え、頷いた。
「さて。今夜はそろそろ終わりにしよう。転職については、また近々話そうか」
ウェイターを呼び、カードで会計を済ませながら祐太郎が言うと、桃香は慌てて中腰になる。
「あの。転職するなんて、一言も……」
「いきなりというわけじゃなくて……そうだな、一度、会社見学でもしてみるか? そっちの仕事が終わった後でもいいから、来てみるといい」
「いえ、だから、そういうことではなくて……」
「まずは行動すること。自分の目で確認して、選択すること。別に取って食う訳じゃないし、気軽に見てみるといい。その上で合わないと思ったら、断ってくれていいから」
言いながら、祐太郎は忙しそうに店内を行き来している店主に手を上げて挨拶をした。店主は笑顔で会釈する。
「え? でも、私なんか雇っても、紺野さんには何の得もないのに……」
「その『私なんか』っていうのは、やめろ。自分の価値を自分で下げてどうする」
――なんだか……啓発セミナーを受けている気分。
祐太郎は励ましているつもりのようだし、その気持ちは桃香も嬉しいのだが、如月とは別の意味でプレッシャーを感じてしまう。
「……でも、どうしてですか? シュークリームを落としてご迷惑をかけたのに、以前挨拶しただけの私にこんなに親切にしてくれるなんて……」
すると祐太郎の顔が暗く翳った。
「人が堕ちていく姿を見るのは嫌なんだ」
そう言った後、桃香がそれ以上なにかを訊ねる前に、祐太郎は席を立つ。
「タクシーを呼んでもらった。家の近くまで送ろう」
自宅まで車で一時間程度はかかるだろうから、桃香は近くの駅で降ろしてほしいといったのだが、酔っている女性を一人で帰すわけにはいかないと祐太郎が言い張り、結局自宅近くまで送ってもらうことになった。
車中ではほとんど無言だった二人だが、
「そこを曲がったところにコンビニがあるので、そこで止めてください」
と桃香が運転手に伝えると、祐太郎が口を開いた。
「とにかく、一度会社を見てみてくれ。そのうえで合わないと思ったら、気兼ねせず断ってくれていいから」
「……分かりました。じゃあ、またご連絡しますね」
あの一言以来、どこか傷ついているようにも見える祐太郎を思いやり、桃香は頷いた。
「分かった」
「今日は本当に、いろいろお世話になりました。埋め合わせをすると言いながら、ごちそうになってばかりで……」
タクシーのドアが開き、恐縮しながら桃香が降りようとしたとき、祐太郎が右手を差し出した。
桃香は遠慮がちにその手をつかみ、握手をする。温かく大きな手に包まれ、桃香の動悸が激しくなった。
「じゃあ、必ず連絡をくれ。待っているから」
そう言って、祐太郎は手を離した。ドアが閉まり、タクシーが走り出す。
握手をした手を、桃香は胸元でそっと握りしめた。
――ドキドキしているのは、きっとまだ酔いが残っているせい。あれはただの握手だし。
そう自分に言い聞かせながら、酔い覚ましのお茶を買うためにコンビニへと入ったのだった。
明日は金曜日。
あと一日耐えれば、やっと休みだ。
転職については週末にゆっくり考えようと思いながら、桃香は自宅へと向かったのだった。
***************
そして迎えた翌日。
その日はすべてのうっ憤を桃香にぶつけようとしているかのように、如月の当たりがいつも以上に強かった。昨日のシュークリームの件を、まだ根に持っているらしい。
「ねえ。そんな簡単な資料に、どんだけ時間かけてるの? さっさとやってよ」
「はい……すみません」
「あと、ミスはしないでよ! 逆に時間かかっちゃうんだし」
「……はい」
「返事すりゃいいってもんでもないでしょ。はい、さっさと手を動かす!」
何を言っても気に食わないといった態度はいつもと同じだが、口調がいつも以上に激しい。緊張のあまり桃香の手が震え、ホームポジションから指が外れておかしな文章を打ち込んだ。
「……はあ? なにやってんの? 日本語でお願いしますね!」
背後から動かず、じっと作業を睨み付けているから、桃香はなかなか調子を取り戻せない。
「す……すみま……」
そのとき、受付の女性から内線がかかってきた。桃香は救われたような気分で受話器を取る。
『木下さんにお客様です』
「え? 私にですか?」
いつも雑用ばかりの自分に、来客など来るはずもない。驚いていると、
『相田様とおっしゃってます』
と、受付が答えた。
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