顔を上げて④
「相田さんですか……。えーと、とりあえず伺いますね」
誰だっけ……と思いながら受話器を置いて立ち上がろうとすると、如月が鬼の形相で進路を阻んだ。
「なんであなたに来客? 私用じゃないでしょうね」
「いえ……よく分からないんですけど……」
勢いに押された桃香は、椅子から上げかけた腰を下ろす。
「じゃあ、念のため私も行くから」
「……はい……」
本当に心当たりがないし、やましいことだって何もないから、桃香は了承した。負のオーラを放つ如月を背後に従え、いつも以上に小さくなりながら受付へ向かう。
受付前にいくつか並べられた簡素なテーブルの一つに、見覚えのある美しいセミロングの髪が見えた。
「あ……」
桃香の声に気づいたのか、女性が振り向く。昨日、祐太郎の会社で対応してくれた女性だ。
「こんにちは、木下さん。先日は失礼いたしました。代表の紺野から、お気遣いいただいたお礼の印に……と、こちらを預かってまいりました。どうぞお納めください」
「あら!」
差し出された紙袋を見て、背後から如月が声を上げる。
「でも、これ……」
昨日、桃香が弁償したシュークリームの店のものだった。しかも、大きい。
「昨日はごちそうさまでした。本当においしいですよね、あれ」
茶目っ気のある笑顔を浮かべた相田は、昨日より気さくに見える。
「もしかして、昨日と同じものを? それじゃお詫びした意味がないので……」
遠慮する桃香の横に、如月が立った。
「あの、あなたは? 木下とはどのようなご関係ですか?」
その手は無意識に袋に伸ばされているが、尋ねる口調はきつい。
「申し遅れました。こちらのビルの7階で営業をしております『S&Gコーポレーション』の相田と申します。
先日、弊社の代表が木下様のお世話になりまして、お礼にこちらを『木下様に』お渡しするようにと言付かってまいりました」
相田はまったく動じることなく、営業スマイルに戻って挨拶しながら、伸ばされた如月の手をさりげなくよけて桃香の手に袋を渡した。
如月の顔が一瞬ゆがんだが、基本的には内弁慶だし、さすがに部外者に対しては怒鳴らない。
「それはありがとうございます。ただ、今は営業時間ですので、今後はプライベートな呼び出しはご遠慮いただければと思います」
「それは大変失礼いたしました。ただこれも何かのご縁だと思いまして、ご挨拶も兼ねて、皆さまの分もご用意しております。お口に合えば嬉しいのですが」
これにも相田はまったく気にする様子はない。その営業スマイルには揺るぎがなく、桃香は感動さえ覚えながらその美しい顔を眺めていた。
「あら。それはご丁寧に。では、失礼いたします」
自分の分もあるのだと分かったとたん、多少軟化した如月だったが、さっさと帰れといわんばかりの態度は崩さない。
そんな上司がなんだか急に恥ずかしく感じた桃香は、相田に申し訳ないという気持ちをこめた視線を送る。すると相田は、如月の目を盗んで軽くウィンクを返した。
この職場では何かあるとすぐ視線を逸らす人ばかりだから、それだけでまた桃香は感動し、初めて味方ができたような気分になれたのだった。
************
相田が去ったあと、如月は桃香の手から菓子袋を手荒く奪い取った。
「挨拶に来たなら、上司の私に渡すべきなのに。なんあの、あの失礼な女は?」
鼻息荒くそう息巻いていたが、相手が名乗ったのに、自分は名乗らず早く帰れといわんばかりの態度を取った如月のほうが失礼だったのではないかと思いながら、桃香は俯いた。
――どうせ、何を言っても怒鳴られるのだから。
そんな桃香の態度を不満に思ったのであろう如月は、軽く舌打ちして文句を言う。
「そもそも、別のフロアと交流を深める余裕があるなら、もっとちゃんと仕事をしてよ。いつまでもぼーっとしてないで、早く席に戻りなさい」
そして、如月は更衣室へと向かった。みんなには配らず、一人ですべて持ち帰るつもりなのだろう。
その姿を見て、桃香の心が決まった。
(紺野さんの会社見学に行ってみよう)
トイレに向かい、ポケットにしのばせていたスマホでメッセージを送る。
『ぜひ、会社の見学をさせてください。仕事が終わったあとになりますが、ご都合のよろしいお日にちを教えていただけると幸いです』
急いで席に戻り、如月がいない間に仕事を進めておくため黙々とPCに向かっていた桃香のポケットの中で、スマホが振動した。
もしかすると祐太郎からの返信かと思ったが、ちょうど如月が戻ってきたので、確認せずにそのまま作業を続ける。
相田が持ってきた菓子のおかげか、如月の機嫌は直っていた。桃香に嫌味を言うことなく、背後を通り過ぎて自分の席へと戻る。そして原稿チェックという名目の時間つぶしをするため、自社のパンフレットを開いてペラペラとめくり始めた。
今までは必死すぎて気にならなかったそんな行動も、今はとても見苦しく感じる。
少しずつ、桃香の中で何かが変わり始めていた。
しばらくしてから再びトイレへ行った桃香は、スマホを確認した。
『とくに用事がなかったら、さっそく今日の夕方以降はどう?』
祐太郎からのメッセージに、『お願いします』と返信した。
仕事が終わったら向かう旨を伝え、急いで席へ戻る。
とたんに
「で、終わったの?」
と如月に尋ねられ、トイレに行く前にプリントアウトしておいた資料を渡したのだった。
************
時計の針が5時を指したとたんに席を立った如月は、
「これ、十部コピーして本社に送っておいて」
と、一時間以上前に渡した資料を桃香の机に放った。確認など十分もあれば終わっただろうに、勤務時間が終わったとたんに嫌がらせのように指示をする。
それでも桃香は机から落ちそうになった資料を押さえ、おどおどしながら小さな声で答えた。
「……分かりました」
こんなこともあろうかと、祐太郎にはおそらく17時半くらいになるだろうと伝えてある。
作業自体はそれほど時間がかからなかったため、おおむね時間通りに上のフロアに到着した。受付にはすでに相田が立っていて、笑顔で桃香を迎える。
「お疲れ様です。今日はいきなり伺ってしまい、申し訳ありませんでした」
相田の言葉に、桃香は恐縮する。
「いえ。こちらこそ、上司が失礼なことを……」
「大丈夫。知ってるから。ちょっと調べれば、ビル内のことはたいてい分かっちゃうの」
奥の部屋へ案内しながら、相田は急にくだけた口調になった。
「あ、そうなんですか?」
「そう。掃除のおばさんとか、警備員さんとか、管理人さんとかと仲良しなんだよね。彼らって、けっこう情報通なんだから」
「あー! 掃除のおばさん、優しいですよね。この間、残業した帰りに会ったらチョコレートをくれました」
「いつも持ってるのよ、あの人」
相田はくすりと笑って、ガラスで仕切られた廊下を奥へ進んでいく。
ガラスの向こうでは、パーテーションで区切られたスペースで数人の従業員がPCとにらめっこをしていたり、電話をしていた。
その一番奥に、祐太郎がいた。
社員とたいして変わらないスペースで、デスクやチェアもほかの従業員と同じ。とくに特別な感じはなく、パッと見は会社代表とは分からない。
一心にPC画面を眺めていた祐太郎だったが、相田が声をかけると顔を上げ、桃香のもとへやってきた。
「よく来てくれた。とりあえず、少し話そうか」
そしてさらに奥にある扉へ向かい、中へ入るように促す。会議室……と呼ぶには少し狭いが、ここも白と赤を基調とした明るいスペースだ。促されるまま桃香は座り心地のよい椅子に腰かけ、祐太郎と向かい合う。
「さて。もし我が社に来てくれた場合、木下さんに任せる予定の仕事についてだが――」
いつものように、祐太郎は前口上なしでいきなり切り出した。
最初は営業アシスタントとして営業担当や祐太郎に同行し、いずれは桃香にも営業職を担ってほしいという。待遇も今より断然良く、断るほうがおかしいと思えるほどの内容だった。
「でもこの業界のことはよく知らなくて……。それに私に営業職は務まるんでしょうか?」
過大な期待を寄せられているように感じて、桃香は嬉しいどころか逆に不安になる。
「だから、最初はアシスタントって言ってるだろ? そこで学んで、独り立ちしてもらおうと思っている。それに接客が得意だったのなら、営業も大丈夫だ。要は人と接する仕事なんだから。接客業で得たものを活かしたいんだろ?」
「まぁそうですけど……」
「興味を持ったのなら、ぜひ挑戦してほしいと思うが」
「興味はすごくあるんですけど……」
煮え切らない態度の桃香に、祐太郎の眉がひそめられた。
「なにか問題でも?」
「あの……私が担当している仕事って、人の回転が速いんです。次の人が決まってある程度安定するまでいたほうがいいのかなって思ってしまって……私もまだ二年目ですし」
「じゃあ、なんでここに来た? 転職を考えているからじゃないのか?」
「そうなんですけど……」
祐太郎の会社を見学しようと思ったのは、上司の器の小ささを初めて実感したから。自分を活かしてくれそうな職場で働きたかったから。
しかし律儀な性格の桃香はどうしても、父親の
「簡単に辞めるようなやつは、どこに行っても一緒だ」
という言葉と、面接時に部長に自己PRした自分の言葉が足枷になり、祐太郎の申し出に首を縦に振るのを躊躇わせる。
「嫌なら断ってくれてもいいって言っただろ? 自分の気持ちに素直になれ。決めるのも、働くのも自分だ。自分が何をして、どう成長していきたいのか。それだけを考えて決めればいい」
そのときノックの音がして、相田がお茶を運んできた。優雅な身のこなしで音もなく二人の前に湯飲みを置き、桃香に笑みを向けて口を開いた。
「よけいなことかもしれないけど、木下さんの上司……えーと、如月さんだっけ? あの人と一緒に働いていても、木下さんはつらいだけじゃないかな。
掃除のおばさんも、掃除中って表示しているのにずかずか入ってきて、のろのろしてるんじゃない!――っていきなり怒鳴られたって驚いてたし。
自分より下だと思えば、理不尽なことを言ってもいいって思ってるタイプの下で働いてても、何も得るものはないと思う」
「……掃除のおばさんも?」
だから落ち込んだ桃香に優しかったのか――と合点がいく。いきなりチョコレートを差し出されたときは驚いたが。
桃香が考え込んでいると、祐太郎は落ち着いた口調で提案した。
「社内を見て回ったらどうだ? みんなには見学する人がいると言ってあるから、なにか知りたいことがあれば誰にでも気軽に声をかけてくれていい」
「……はい。ありがとうございます」
桃香は立ち上がり、相田の後について会議室を出た。
「ここは厳しい人はいても、理不尽な人はいないから仕事はしやすいと思うよ。みんなけっこう仲がいいし」
部屋を出たとたんに相田が耳打ちしたので、耳に息がかかった桃香はくすぐったそうに苦笑する。
「そうなんですか。うちは……みんな個人主義というか」
同期ともほとんど会話がないくらいだ。
「うちに来ればいいのに。そしたらもっとのびのび仕事ができるよ。――あ、松山さん。こちらが先ほどお話した木下さんです」
相田に声をかけられた中年の男性が、笑顔で振り向いた。黒縁眼鏡がよく似合う、優し気な顔立ちをしている。
「こんにちは。初めまして。営業主任の松山です」
「初めまして。木下です」
握手を求められ、気恥ずかしさを感じながらも桃香は応じた。
「社長一押しの人材と聞いています。もし興味を持っていただけたなら、ぜひ弊社に来ていただけると嬉しいのですが」
桃香は驚きを隠せない。
「一押し……ですか? 私が?」
「はい。秘めたる才能を伸ばしたいと――」
「松山。無駄話はそのくらいにしておけ」
背後から祐太郎の声が聞こえて、桃香は振り向いた。幾分顔を赤らめた祐太郎が松山を睨み付け、その少し後ろで相田が笑いをかみ殺している。
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