新たなる受難②

(いい人……だったよね? あまり怒らなかったし……)


如月のおかげで「いい人」のふり幅が広がっている桃香は、電車の中で祐太郎についてそんなことを考えていた。その手には、シュークリームが入っている袋が揺れている。


(どんな用事を頼まれるのかな。コピーを取れとか、掃除をしろとか? でもお詫びはお詫びとして、やっぱりシュークリームは買って返したほうがいいよね。潰れたとしても、こんなにいっぱい貰ったままじゃ悪いし。ああ、もう。本当に今日はついてない……っていうか、私って本当にアホだなぁ)


深い自己嫌悪に陥り、思わず盛大なため息をつく。すると桃香の前に座っていた中年男性が、不快げなまなざしをちらりと向けたあと、いきなり寝たふりを始めた。


(……いや、別に。座りたいとかそんなんじゃないのに)


――どうして自分は人を怒らせてばかりなんだろう。


その日の疲れが一気に押し寄せてきて、桃香は泣きそうになった。電車内で泣いてはいけないと、しきりに瞬きをして涙をこらえる。


(今日はまだ水曜日。明日も頑張らないと)


――潰れてはいるが、話題のシュークリームを持って帰ったらきっと家族は喜んでくれるだろう。形はどうあれ、味はおいしいに違いないんだから。


電車が停止すると同時にどっと流れ込んできた人の波につぶされないよう、紙袋を大事に持ち上げて、桃香はかすかに漂う甘い香りを吸い込んだ。

******


翌朝、いつものように始業三十分前に出社した桃香は(如月より遅いと無言ではあるが、圧力をかけられる)、如月のデスクに置いた書類をもう一度見直した。


(うん、大丈夫。今度は平気)


安心して、給湯室へと向かう。今年は新入社員が入らなかったから、桃香の後輩はいない。あとから出社した人がすぐに飲めるようにコーヒーメーカーでコーヒーを落とし、保温ポットの準備をするのが彼女の役割になっていた。


コーヒーが落ちる香ばしい匂いに癒されながら、シンクによりかかっていつものように心の中で唱えて自らを奮起しようとする。


(今日こそ、なにもミスしませんように。チーフを怒らせませんように。ひとつでも認めてもらえますように)


それでも胸の奥深くまで根を張った憂鬱な気持ちを吹き飛ばすことはできず、どんよりとした表情でオフィスへと戻った。



「最初からこうしてくれれば、私も見直す手間が省けたのに。どうしてこんな簡単なことが、一度でできないのかしらね?」


「すみません。今度からちゃんと見直すように気を付けます」


ねぎらいの言葉など期待はしていなかったが、朝一番で如月に嫌味を言われた桃香は、緊張でこきざみに震える手を握り合わせ、謝罪する。


「いつもそう言ってるけど、ミスは減らないわよね? ……まぁいいわ。とりあえず、この書類を部長と次長のデスクに置いて。あと、社内便で本部にも五部」


「は、はい!」


焦りながら書類を持ち上げた桃香の手から、書類がすべり落ちた。床に散乱したそれを拾い上げるでもなく眺めながら、如月は苦々し気に口元を歪める。


「言ったそばからこれだから。ほんっと、気を付けてほしいもんだわね!」


「……はい。すみません……」


背を丸めてしゃがみこみ、書類を拾っている桃香を盗み見た同僚たちは、彼女に同情はしても、声をかけることはなかった。

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