【最終章】最終話/イヴは一緒に③
その言葉を聞いて祐太郎は息を飲み、そして噴き出した。
「本当に。木下さんと話していると調子が狂う」
桃香を抱きしめたまま、身体を揺らして笑っている。そんなにおかしいことかと戸惑いながら桃香がやっと顔を上げると、その顔を見てまた笑う。
「あの……」
桃香は、遠慮がちにそっと祐太郎の胸を押した。
とりあえず、彼から離れたい。好きな人とくっついているのは喜ばしいことなのだが、激しく鼓動する心臓が苦しくて、死んでしまいそうだ。
しかし祐太郎はさらに強く抱きしめる。
「答えるまでは、離さない」
「でも……あの、話をするだけだって仰ってましたよね?」
「だから、話している」
「そうですけど……でも、話をするだけっていうのは、こういうのは入っていないと思うんですけど」
「でも触れないとは約束していない。それとも嫌なのか?」
「そんなことは……ないですけど」
その言葉を聞いて、祐太郎は再び身体を震わせて笑った。祐太郎がこんなに笑っている姿を見るのは初めてで、戸惑いながら桃香は尋ねる。
「なにがおかしいんですか」
「おかしくはない。楽しいんだ」
その違いが分からず、祐太郎の胸に押し付けられたまま、桃香はため息をついた。
「その……長野の人が幸せになったから、気持ちが少し楽になったからですか?」
好きだということを不快には思っていないようだと安心した桃香は、一番気になっていることを訊ねる。すると祐太郎の笑いが止まった。
「後輩のことはずっと気がかりだった。彼女を追い詰める一端を担ったような気持ちになっていたんだ。後ろめたい思いが、木下さんに惹かれる気持ちに歯止めをかけていたのは確かだが……でもやっぱり、別の男に言い寄られている姿を見ると、腹が立って仕方がなかった」
「……惹かれる……紺野さんが、私に?」
桃香の心臓が、大きく跳ねた。痛いほどに。
「そう言っただろう?」
照れる様子もなく、祐太郎はこともなげに言い放つ。
「でも……私、まだ新入社員ですし」
「これが俺の一方的な思いで迫っているのなら、パワハラになってしまうのだろう。だから先に、木下さんの気持ちを確かめたじゃないか」
「でも皆さん、どう思うか……」
「別に、社内恋愛を禁止しているわけじゃない」
ああ言えばこう言う祐太郎とまともに会話できる気がしなくて、桃香はもう一度祐太郎の胸を押した。
「それでもあの……冷静に考えたいので、放してください」
「何を考えるんだ?」
またも質問が飛んでくる。
「展開がすごすぎて頭が追い付かないので、いったん冷静になって状況を把握したいんです」
すると、ほんの少しだけ祐太郎の胸が遠のいた。
「離れてやるから、顔を上げろ」
言葉とは裏腹の優しい口調で、祐太郎は桃香の顎に指を置き、上向ける。しかし桃香は恥じらって、視線を合わせようとしない。
「俺を見ろって」
「見れません」
「どうして」
「緊張しすぎて」
祐太郎は両手で桃香の顔を挟み、強引に視線を合わせる。
「俺を好きでいてくれるなら、何も考えなくていい。ただそばにいて、俺を癒してほしい」
「癒しって、どの……」
ふいに、祐太郎が顔を降ろした。
どうすれば癒しになるのか尋ねようとした桃香の言葉は、祐太郎の唇の中へと消えていく。
はじめ優しく重ねられた唇の動きは、次第に激しさを増していった。
――翌日の朝。
「コーヒーでいいか」
ベッドの中で背中を向けたまま動かない桃香に、祐太郎が声をかけた。
ベッドサイドの時計は、すでに9時を回っている。いつまでも寝たフリはできないなと観念し、桃香は顔を半分布団に埋めたまま振り返った。
「おはようございます。……コーヒーでお願いします」
Tシャツにスウェットパンツを履いて立っている祐太郎は、いつもと雰囲気が違って見える。しかしその姿もモデルさながら様になっていて、桃香は気後れした。
化粧はすでに落ちて、寝癖もついているだろう。着ていたスーツははるか遠くでハンガーにかけられていて、そこに到達するまで下着姿で彼の前を通り抜けなくてはならない。そんな姿を祐太郎に見せるなど、恐ろしすぎて起き上がることができなかった。
そんな桃香の気持ちを読んだかのように、祐太郎はトレーナーをベッドの上に放り投げた。
「大きすぎるとは思うが、それを着るといい」
そしてコーヒーを淹れるためにキッチンカウンターへ向かう。そのすきに桃香はトレーナーに腕を通し、指で一生懸命に髪を梳かす。立ち上がると、大きなトレーナーは膝のあたりまで覆い、袖はぶらりと垂れ下がった。
洗面所を借りて、軽く口をゆすいで顔も洗う。鏡で見ると、やはり化粧はすっかり剥げ落ちている。寝癖も手櫛では治らず、変な位置で盛り上がっていた。それを水で撫でつけ、なんとか収めてからリビングに戻る。
祐太郎がソファーの前のローテーブルにマグカップを置いたので、桃香は端に座り、全身から緊張のオーラを漂わせながらコーヒーを一口すすった。熱く香ばしい液体が喉元を通り、桃香はホッと息を吐いた。
「おいしい。目が覚めますね」
「ゆっくり寝てたしな」
「えっ。すみません。いつから起きてたんですか?」
「7時かな。おかげで桃香の寝顔をたっぷり眺めることができた」
「そんな、寝顔を見るなんてやめてください! ……間抜けな顔をしてませんでした?」
すると祐太郎は何も答えず、含み笑いをする。
「なんですか、もう!」
羞恥に顔を真っ赤に染めた桃香を抱き寄せ、祐太郎は唇を重ねた。
「コーヒーの味がする」
そう言って、桃香のマグカップからコーヒーを飲む。
祐太郎はもうすっかり恋人気分に浸っているようだ。
祐太郎のペースにすっかり巻き込まれている桃香だったが、時計を見てふと我に返り、ソファーの傍らに置いてあったバッグからスマホを取り出した。メッセージの着信を知らせるランプが点滅している。
『相田さんにあまりご迷惑をおかけしないようにね。今夜はイブだけど、また出かけるの?』
祐太郎の家に泊まることになったとき、家には相田の家に泊まると連絡をしてあった。今の段階では、さすがに祐太郎の家とは言えない。
「……イヴかぁ……」
嘘をついて申し訳ないと思いながら、母親に送るメッセージを考えていた桃香がぼそりとつぶやくと、祐太郎は桃香を掬い上げ、膝の上に乗せた。そして桃香の頭の上に顎を乗せ、両腕で抱え込む。
「や……あの……!」
じたばたする桃香を押さえつけるうに、抱いた腕に力をこめる。
「明日まで休みなんだ。イヴも一緒に過ごそう」
「でも……一度帰ろうと思います。着替えもしたいし……」
「じゃあ、今夜また来るといい。来なかったら、木下さんの家まで迎えに行く」
桃香は慌てて首を振った。
「来たら母に家に引きずり込まれて、根ほり葉ほりいろいろ聞かれますよ。紺野さんがすごくお気に入りみたいなので」
「別に聞かれて困るようなことはない。むしろ早くご挨拶したいくらいだ」
「まだ早いです! もう少し仕事が落ち着いてからじゃないと……。大丈夫です。ちゃんと戻ってきますから! 約束します」
桃香は必死に言い募った。
母親はまだしも、父親は激怒するだろう。どう説明しても、父の目には手を出すために採用した上司といった風に映ってしまう。すぐ辞めろと言ってくるに違いない。
「そうか。桃香がそう言うのなら……もう少し、時期を考えて挨拶することにしよう」
そこはあっさり引いてくれたので、桃香はほっと胸を撫でおろす。
「じゃあ、帰るので……あの、降ろしてください」
抱え込んで放さない祐太郎を見上げ、桃香は懇願する。するとまたキスをされて、桃香はうっとりと目を閉じた。
結局桃香が祐太郎の家を出たのは、昼を大きく回った頃になっていた。
自宅でシャワーを浴びて着替え、再び出かけようとする桃香を、母親は大きな笑顔で送り出した。
「楽しそうで良かった。桃香のそんな顔、久しぶりに見てお母さんも嬉しい。今夜も楽しんでね。いってらっしゃい」
母親の言葉で、昨年のイヴをどう過ごしていたのか振り返ろうとしたが、まったく記憶がない。クリスマスの浮ついた空気など感じる余裕もなかった。
しかし今年は、街を彩るイルミネーションを見るだけで、笑みが浮かぶ。
普段のぶっきらぼうな祐太郎からは想像もできないほどゆうべは優しく、情熱的だったことを思い出し、桃香はまた頬を緩ませた。
祐太郎にぶつかってシュークリームを潰してしまったときは、自己嫌悪に陥って落ちていく一方だったが、彼のおかげで人生の大きな転機を迎えることとなった。
感謝がいつしか恋になり、しかし絶対手の届かない人だと思っていたのに、今は情熱的な恋人になっている。
(こんなにいいことばかり続いたら、今度は悪いことが起きそうで怖いな……)
幸せすぎて怖いというのは、こういう感覚のことを言うのだろう。
しかしそんなことを言っては、また祐太郎に説教されてしまうと思い、桃香は苦笑した。
****************
地下鉄を降りて徒歩数分。
祐太郎が済むマンションが見えてきた。
桃香はインターホンを押し、祐太郎がオートロックを開ける。
五階に到着すると、祐太郎は玄関の前で待っていた。
「お帰り」
白い息を吐きながら、桃香を迎える。
「約束、守りましたよ」
「当然だ」
祐太郎が広げた腕の中に、桃香は照れながらも飛び込む。
部屋着のまま待っていた彼の胸は少し冷たい。
桃香の目の端に、街のあちこちで輝くイルミネーションが映った。
― fin ―
ネガティブ女と高スペック男 八柳 梨子 @yanagin
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