【最終章】イヴは一緒に②
タクシーの中で、祐太郎は無言だった。
シュークリームを弁償したあの日、無理やり連れだされた夜の失言を思い出した桃香は、窓の外を眺めるふりをして、赤面した顔を見られないようそむけていた。
「あの……今夜はどこへ?」
「俺が住んでるマンション」
「え? あの……どこかで休むって言ってましたよね?」
「だから、俺の部屋で」
「でも、あの……」
「話をするだけだ。不安なら、お母さんに連絡しようか」
そう言って、祐太郎はスマホを取り出した。
「いえ、そんな必要は……って、もしかして母と友達登録してるんですか?」
「ああ。お邪魔したとき、何か連絡事項があった場合のためにって頼まれたから」
「えっ。そんなこと一言も――あの、登録しただけですよね。うちの母、SNSにはまってて……ご迷惑をおかけしてなければいいんですけど」
母親は、他愛のないことでも頻繁にメッセージを送ってくる。まさかとは思うが――と、桃香は不安な面持ちで祐太郎に尋ねた。
「いや、特に……。そういえば、木下さんのことを心配していた。前職があれだったからな。心配なんだろう」
「えええ? もう、ほんと、すみません。必要外のメッセージはしないように言っておくので……」
「気にするな。親御さんが、娘のことを心配しているだけなんだから。――あ、そこを右に曲がった先のマンション前で」
祐太郎の指示通り、運転手が止めた先のマンションは、5階建の低層マンションだった。都心の街並に馴染む真新しい建物を見渡し、桃香はほうっと息を吐いた。
「デザイナーズマンションですか? 外観も素敵ですね」
建物のデザインについてはあまり興味がないらしく、祐太郎は首をひねった。
「そうか? 引っ越しを考えていたとき、取引先に勧められて買ったんだ。見た目より、住み心地はいい」
入口で暗証番号を入力し、オートロックを解除している祐太郎の背後で、桃香は再び固まった。
――ここに入っていいのだろうか。
ここは会社でも店でもなく、祐太郎のプライベートな空間だ。特別な関係ではないのに……というより、特別な関係ではないからこそ、夜間に入るのはどうかと急に理性が働いたのだ。
「どうした?」
動かない桃香に、祐太郎が怪訝な顔をする。
「あの、やっぱり……遠慮したほうがいいかなと思いまして」
「なぜ」
「社内で誤解を招きかねない行為かと思いまして……」
顔を伏せて言いにくそうに言う桃香の頭を見る祐太郎の目が、楽しんでいるように輝いた。
「どんな誤解だ?」
「いえ、だからその……一応、私も女性ですし」
祐太郎の口元が、笑い出しそうに歪む。
「あの時みたいな変な言い訳はしなくていいぞ。ただ少し話をしたいだけだ。それにここには社員はみんな気軽にやってくる。珍しいことじゃない」
(やだ、やっぱり覚えてたんだ。タクシーの中でのあの発言……)
シュークリームの弁償として身体を差し出すことになるのかと勘違いしたあの夜、生理だと言って断ろうとしたときの羞恥心が生々しくよみがえり、桃香はまた首まで赤くする。
分かりやすいな――と思いながら、祐太郎は入口のドアを開き、桃香のために開いたまま待る。その前を、身を縮めて小さくなりながら桃香が通り過ぎた。
出会った頃の暗い空気をまとった猫背とは違い、その姿がとてもかわいらしく見えて、祐太郎は微笑ましく目を細めて眺めている。
エレベーターに乗ると、祐太郎は最上階のボタンを押した。新しいおかげかエレベーターの振動は小さく、動いていることを感じさせないほどにスルスルと上がっていく。祐太郎と二人きりだということを強く意識しすぎた桃香は、ひたすらに階数ボタンを見つめていた。
5階フロアは三世帯入っており、エレベーターを降りて一番奥が祐太郎の部屋だった。
玄関を開くと、広く開放感のある廊下が見えた。掃除も行き届いており、桃香の中で男性の一人暮らしに対するイメージが変わる。
リビングへと案内され、コートを脱いだ桃香は、落ち着かない様子でソファーに浅く腰かけた。
「ビール、コーヒー、牛乳、緑茶、紅茶」
キッチンへ行った祐太郎が、飲み物の名称を羅列する。緊張のあまり、桃香は何を聞かれているのか分からない。
「……え?」
「どれがいい?」
「あの……じゃあ、紺野さんと同じものを」
「なら、日本酒か」
「えっ?」
――上司の家で、しかも好きな人と二人きりというこの状況で、お酒は遠慮したい。
桃香の顔がこわばるのを見て、祐太郎はにんまりと笑った。
「嘘だ。コーヒーにしよう。簡単なのでいいか?」
桃香が頷くと、二つのマグカップにそれぞれドリップバックをセットし、ポットから湯を注いだ。部屋の中に、香ばしい匂いが漂う。
外から時折クラクションが響く以外はとても静かで、桃香は目の前にあったテレビのリモコンを手に取った。
「あの、て、テレビを点けてもいいですか? 金曜の夜にいつも観てるのがあって……」
「どうぞ」
了解を得た桃香が電源ボタンを押すと、男女が濃厚なキスを交わしている映像が写し出された。どうやらクリスマス前に恋愛ドラマを放送していたらしい。
「あ! あの、これ……あっ!」
慌ててチャンネルを変えようとした桃香だったが、焦りすぎて手からリモコンが滑り落ち、大きな音を立てて床に落ちた。
「落ち着け」
今にもこぼれそうな笑いをかみ殺し、祐太郎はしかめ面をしながらマグカップを桃香の前に置いた。
一方桃香は気持ちを静めようと細く息を吐き、ゆっくりとリモコンを拾い上げた。
テレビ画面はすでにCMに代わり、ビールを飲んでいる芸人が口元に泡をつけ、豪快に笑っている。
「私ったら、何やってんだか……。ヘマはなかなか治らないですね」
疲れた顔でそうつぶやく桃香に、祐太郎は呆れたような顔をした。
「そんなに慌てる場面か? 小学生じゃあるまいし」
「……」
言い返す言葉も見つからず、桃香はただ頬を上気させている。これ以上からかっても、桃香を追い詰めてしまうだけだと気づいた祐太郎はため息をつき、話を切り替えることにした。
「それで、さっきの話の続きだが……」
祐太郎の口調が変わり、桃香は我に返った。
「さっきの……あの、長野に行った方のお話ですか?」
「ああ。彼女が幸せになると聞いて、やっと自分を許せるような気がした。それで――」
祐太郎はそこで言葉を区切り、桃香をまっすぐ見つめる。
「先日のあれは、松山じゃないとしたら俺のことか?」
(もしかして、あの一言で気づいちゃった?)
川原が知ってる上司は、当然ながら祐太郎一人だということに。
「先日の……って、川原君の話ですか?」
答えは分かり切っているが、桃香は尋ねずにはいられない。
すると祐太郎は眉を寄せて不機嫌な表情になった。
「川原っていうのはあの軽そうな男のことか」
その言葉を聞いて、桃香は困ったような表情を浮かべた。
「軽そう……そうですね。ほんと軽いです、あの人は。……でも私のもう一人の恩人でもあるんです」
「恩人?」
祐太郎は相変わらず不機嫌だ。
「前に言いましたっけ? 辞めると言った直後くらいに、大きなトラブルがあったんです。その原因は、私じゃないって本部に進言してくれたのが、川原君で」
「それを恩に着せて、木下さんに迫ってたのか?」
「そういうわけではなくて……謝罪したいって言ってました。同期なのに、ずっと助けてあげられなかったって」
自分も川原と同じ立場だったら、きっと心苦しく感じただろうと桃香は思った。下心があったという点は、川原流の冗談として受け止めている。
しかし祐太郎は納得がいかない様子だ。
「謝罪してるような態度じゃなかったが……」
「そういう人なんです、彼」
話題がそれて安堵した桃香は、クスクスと笑った。店ではビール1~2杯程度しか飲んでいないのに、その酔いが今さらやってきたようだ。
「じゃあ、邪魔しないほうが良かったのか?」
ほかの男の話題が彼女を微笑ませたという事実が気に食わず、祐太郎の声が幾分低くなっている。しかし桃香は熱いコーヒーに気を取られ、気づかなかった。笑顔のまま答える。
「そんなことないです。何度断っても、飲みに行こうって誘われていたので」
すると祐太郎は安心したように頷き、話を切り替えた。
「それで――さっき言っていた、木下さん個人を認めているという話だが」
「それは……いいんです。気にしないでください」
また話題が自分に戻ってきたので、桃香の笑みが消えた。緊張のせいか、肩が痛い。無意識に右手を上げ、首元を揉んだ。
「いや。誤解させたままではこちらも落ち着かない。俺だって、一経営者だ。困っている人を助けたいとは思うが、会社に誘うのは仕事ができると思った者だけだ。だから木下さんのことは、きちんと認めている」
「私の何を認めてくださったのか分からないのですが……ありがとうございます」
シュークリームを弁償した後のことを考えてみたが、入社前に特別なことはなにもしていないし、なにかをして褒められた記憶もない。
「木下さんは、営業に向いているかもしれないな。相手に安心感を抱かせるし、対応もとても誠実だ。計算高さはまったくないが、うちの会社の特性上、そこが逆に良いと思う。それが、スカウトした理由だ」
「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけて、すごく嬉しいです」
元カノと同じように壊れかけていたから雇い入れたのではないと納得できて、桃香は安心した。
「それに――」
まだほかに理由があるのかと、桃香は期待に目を輝かせながら祐太郎の言葉を待つ。
「それに、木下さんに笑顔が戻ったときは、俺も本当に嬉しかった。一緒に働けて、光栄に思う」
いつになく、祐太郎の歯切れが悪い。いつもなら、もっと説教じみているのに。
どうやら面と向かって褒めるのは苦手のようだ――と微笑ましく思い、桃香は目の前の丹精な顔立ちを見つめる。
――見た目が良くて、若くして経営者で、会社もそれなりに成功している。
こんな高スペックな男性を好きになるなんて、身の程をわきまえないと――とも思う。
一年以上かけてじっくり叩き込まれたネガティブ思考は、どんなに良い環境に入ったとしても、そうすぐに消えるものではない。
だから今は、その言葉で満足していよう。そう思ったのだが、知らず知らずのうちに涙があふれ出た。転職以来、やたら涙もろくなっている自分を呪う。
「なにが気に入らないんだ?」
ストレートな言葉とは裏腹に、祐太郎は珍しく弱り切った表情を浮かべている。
「そういうんじゃなくて、嬉しいんです。ずっと褒められたことなどなかったので」
祐太郎は俯いて目元をハンカチで抑えている桃香のほうに手を伸ばしかけたが、途中で力尽きたようにパタリと下げた。
「そうか。それで――ひとつ、質問なんだが」
「なんでしょう?」
鼻をすすり、気持ちを切り替えるように微笑む桃香の表情を探りながら、祐太郎が口を開く。
「さっきも聞いたが、木下さんが思う上司というのは、俺か?」
――どうしよう。
気持ちがバレたら、一緒に働けないと言われるのだろうか。さっき、光栄などと言ってくれたのは、その前フリだったのだろうか。
桃香の顔から血の気が引いていく。
青い顔で黙りこくっている桃香に、祐太郎は一歩近づいた。
「それとも、前の会社に気になる上司でもいたのか?」
「それはないです」
そこは即答できた。
「だったら、俺しかいないだろう?」
入社したばかりの会社の代表に、気持ちを打ち明ける勇気などない。しかしこうも詰め寄られ、嘘をつき通せる桃香でもなかった。
言葉を発することはできず、小さく頷く。それがあまりにも僅かだったから、祐太郎はもう一度訊ねた。
「それは、俺だという肯定なのか?」
「す……すみません。ご迷惑はおかけしませんから……」
圧迫感を覚えた桃香は、かつての自分のように条件反射で謝罪の言葉を口にしていた。
「謝ることなんてないだろ? どうして君は……」
びくりと肩をすくませた桃香を見てたまりかねた祐太郎は、一気に距離を詰めて強く抱きしめた。
「……?!」
目の前がいきなり祐太郎の身体でさえぎられ、息苦しいほどに抱きしめられた桃香は、何が起きているのか分からず、呼吸さえ忘れて固まった。
「そうか。俺か」
頭上で、そうつぶやく声がする。しかし見上げる勇気などない桃香は、祐太郎の胸に顔を押し付けられたままだ。
――これは、自分の気持ちを知って喜んでくれているのだろうか。
(……まさか)
にわかには信じがたい。
今まで恋愛をしてこなかったわけではないし、過去に恋人がいたこともある。だからまったくの恋愛音痴というわけではないはずだが、相手が祐太郎となるとその言葉をどう受け取ったら良いのかまったく分からない。
いつの間にかCMが終わったテレビからは、定番のクリスマスソングが流れていた。画面は見えないが、ドラマは華僑を迎えていると思われる。リモコンをまた落とさないように握り直すと、チャンネルが切り替わり、今度はバラエティー番組と思われる笑い声が響いた。
「あ、あの……すみません」
「だから、そう簡単に謝るなと何度も……。何を謝っているんだ?」
「ち、チャンネルを変えてしまったので」
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