新たなる受難⑥

「え? でも……」


『なにか用事でもあるのか?』


「いえ。これから帰ろうと思っていたところで……」


『それなら、下で待っていろ』


「あ、はい。すみません……」


『そこ、謝るところじゃないだろ。すみませんっていう口癖、直したほうがいいぞ。……まぁいい。とくかく待っていてくれ』


「あ、はい、す……」


またすみませんと言いそうになった桃香は慌てて口をつぐんだが、すでに通話は切られた後だった。


(……すみませんって、そんなに言ってるかな。毎日注意されてばかりだから、いつの間にか口癖になっちゃってたのかも。……みっともないな、私)


 恥ずかしいのか、悲しいのか、その両方なのか。

 複雑な思いを抱えながら、桃香はエレベーターから降り、エントランスホールの窓際にあるスツールに腰かけた。スマホを取り出し、会社のネットショッピングのページを開いて不具合や間違いがないかのチェックを始める。商品説明の内容は一応如月も目を通しているものの、ミスがあればすべて桃香のせいにされてしまうし、鬼のように責め立てられる。指摘される前に修正しておきたい――ということで、これは毎日の習慣になっていた。


(ん、まぁ大丈夫かな。寝る前にもう一度見直しておこうっと)


 如月に怒られるくらいなら、時間外労働なんてなんのその。絵に描いたような社畜と化しているが、当の本人は必死すぎて自分が置かれている状況を客観的に捉えることができずにいる。


 スマホをバッグにしまったとき、

「それじゃ、行こうか」

と、祐太郎が現れた。


「あの……どちらへ?」


「いいからついてこい」


「え? あ、分かりました」


 颯爽と歩く祐太郎の後ろに、猫背の桃香が続く。



 道へ出ると、祐太郎はタクシーを止めた。


 とある有名ホテルの名を運転手に告げて、腕を組んで目を閉じる。


 ――まさか、シュークリームを弁償するほか、謝罪として身体を差し出せと言っているのだろうか――。


 ――いやいや、受付のお姉さんだったらまだしも、私なんて抱きたいとも思わないのでは……?


 桃香の脳内で、さまざまな疑問が沸いては解決されないまま渦巻いている。


「あの……」


「なんだ?」


 祐太郎が片目を開けた。


「その……私、大変申し訳ないのですが、今日は生理で……」


 真っ赤になって口ごもりながら桃香が言うと、祐太郎の顔がゆがみ、そしてそっぽを向いて肩を震わせた。


「あれ? あの……紺野さん?」


 どうやら笑っているらしいと気づき、桃香は泣きそうになった。やはり自分に興味を持つはずなどないのに、どうしてこんな恥ずかしい勘違いをしてしまったのか――と後悔する。


「あの、すみません、私……」


「だから、簡単に謝るなって言ってるだろ? もういいから黙って乗ってろ」


「はい、すみ……」


 ません、と心の中で付け加えながら前を見ると、ミラーごしに運転手と目があった。彼も笑っていたことに気づき、桃香は深くため息をつく。


 するといきなり祐太郎が解説を始めた。


「ため息は、たまったストレスを軽減する効果がある。よくため息をつくと幸せが逃げるというが、あれは嘘だな。優位に立った交換神経を落ち着かせる役割があるから、むしろ我慢するほうが幸せを逃すと思う。無意識にため息が出ることがあるだろ? あれは身体が自然にストレスをリセットしようと働いている証拠だ」


「へえー」

 

 桃香と運転手が同時に相槌を打った。 


「だとしたら、今の君のため息の原因となるストレスは俺か? それとも別の何かか。到着するまでに考えるといい」


 頭の中では即座に祐太郎だと思ったが、それもなにか違うような気がして、桃香は素直に考え始めた。 

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