戦乙女シュヴェルトライテ

 処刑官の剣が振り下ろされるとともに、男の首が桶の中に落ちた。逆さになって桶に入ったため、口のところが僅かに見える。胴体を離れても男の口はぱくぱくと言葉を紡ごうとしていたが、身体を失った首だけでは音にならなかった。シュヴェルトライテは男の声にならぬ剣の歌を受け取り、処刑場に背を向けた。

「ゲイルロド。首だけになっても考えるのをやめなかったのですね」


 既に起きてしまった過去は、全知の主神オーディンでさえ変えられない。

 変えられるのはこれからのことだけだ。

 夜になるまでの間、シュヴェルトライテは街の広場が見える宿の一階で暖炉に当たって過ごした。宿の女主人はシュヴェルトライテが吟遊詩人だと知るや、宿代と食事代の対価として歌を望んだが、シュヴェルトライテは断った。気分ではなかった。もっと端的にいえば、気持ちが悪かった。昼間に見た処刑の光景が目に焼き付いていた――ゲイルロドの血や骨や肉が。主神オーディンに忠誠を誓う戦乙女の仕事は、地上界の死に瀕した英雄を天上界に救い上げてオーディンのために戦わせることだ。英雄を探すには戦場以上に適した場所はなく、だから死体には見慣れていたはずだった。だが死体を見るのと生者が死者に変わる瞬間を見るのではまったく違っていた。

「若い娘さんが見るもんじゃないよ」

 と宿の女主人は苦笑いに近い表情で言った。シュヴェルトライテは無言で頷いて肯定の意思を示しながら、彼女にゲイルロドという人物に関する評価を訊いてみようかと考えた。彼女はこの街の基礎を気付いたのがゲイルロドだと知っているだろうか? ほかの街人は、処刑に来ていた見物人は、処刑人は、果たしてどうだろうか。

 唇を湿らせ、口を開きかけ――止めた。仮にゲイルロドに対して肯定的な言葉を貰えたとしても、それが彼の魂の癒しになるとは思えなかった。なぜなら、ゲイルロドは死ぬまで考えていたのだから。これがゲイルロドの結論だ。人が一度犯した罪は、何をやろうとも、何を為そうとも、消えることはない。贖罪などしようがない。だから考えるしかない。


 狼に追われた月が天頂に輝く頃、シュヴェルトライテは宿を出た。昼過ぎから少しだけ雪が降っていたがもう止んでおり、積もった雪も足が沈むほどではない。行き交う人の姿はなく、静かだった。シュヴェルトライテは己が足音と心臓の音だけを聞きながら、広場を横断して処刑場へと向かった。昼間は処刑場として使われていたが、ようは地面よりやや高い台があるだけの場所で、日頃何かに使われているというわけではない。片付けはぞんざいなもので血は拭き取られていなかったが、首を失った胴体や体を固定する木組みの拘束台は撤去されていたので、首の入った桶が置かれたままだったのは処刑人が撤去し忘れたというわけではないだろう。

 シュヴェルトライテはゲイルロドの首を拾い上げた。低温であるがゆえ、腐敗はほとんど進んでいない。瞼を閉じて、薄く唇が開いてはいるその表情は、今にも言葉を喋りだしそうだ。


「ゲイルロド……」

 人間たちが思うほど、神の尖兵である戦乙女は万能ではない。力ある人間の魂を運ぶといえば恰好もつくが、人の力にしか間借りできない存在だ。そんな戦乙女であるシュヴェルトライテがゲイルロドの元を訪れたのは偶然ではなく、主神オーディンの命令だった。

「ゲイルロドはどうなった。ゲイルロドはどう生きている。ゲイルロドは――」

〈恐ろしき者〉〈轟く者〉〈父なる者〉〈眠りを齎す者〉――それが神々の主神オーディンだ。だが彼でさえ、偉大なる神々の長たるオーディンでさえ、九夜もの間世界樹の枝に目を貫かれたままぶらさがって知識を得た隻眼の神でさえ、万能とは程遠い。万能ではないからこそ、ゲイルロドの変貌は予想できなかった。かつて彼は、幼いゲイルロドの能力を買っていたのだ。彼は善い王になるだろうと、自信たっぷりに言っていたものだ。だからこそ、彼が暴君となったときのオーディンの嘆きは深かった。ゲイルロドを処罰しながらも、その顛末を憂いていた。だからシュヴェルトライテが様子を見に来た。


 それだけだ。シュヴェルトライテはそれ以上のことを主神オーディンから命令されたわけではないし、何かをする力があるわけでもない。主神の配下に過ぎないシュヴェルトライテとゲイルロドの間に、何かの関係があるわけでもない。

 ただシュヴェルトライテはゲイルロドに出会う前に、彼の歴史を知るために、実際に彼の足跡を辿った。それは嘘ではなかった。彼が作り上げた街を訪れた。彼が拓いた田畑で採れた作物を口にした。彼と生活を共にした人々と会話をした。


 それだけ、それだけだ。


 もしそれで何かをしてやりたいと考えたとしても、シュヴェルトライテができることは僅かなことだ。そう、僅かなこと。死者の魂を運ぶ以外にできる、小さな魔法。それは未来を予測する力。

 未来は誰にも知り得ぬものだ。たとえ万能の主神であっても、未来は見通せない。観測する力そのものが未来を歪めてしまうから。だが、ある程度予想することができる。その予想を謡って聞かせることはできる。

 それはあくまでシュヴェルトライテの為した予想。現実の未来とはまったく違うかもしれない。だが、ゲイルロドは――ゲイルロドはシュヴェルトライテが見通した未来を、語った歌を現実に起こるべきことのように信じたかもしれない。だとすれば、どうなるだろう。

 シュヴェルトライテは首を置き、去った。首はそのまま放置された。


 首はなかなか腐らなかった。だが腹を空かせた栗鼠がやってきて、肉を齧ったばかりか、その前歯で頭蓋骨に穴を開け始めた。やがて脳へと到達し、それも喰らった。腹いっぱいになった栗鼠だったが、猛吹雪の日に雪に埋まった。栗鼠の埋まった雪には上から上から降り積もり続け、次に太陽の光を浴びたのは春になり、馴鹿が掘り起こしてからだった。雑食の馴鹿は眠りこけていた栗鼠をがつがつと喰らった。


 栗鼠に比べると、馴鹿は長く生きた。雪解けが始まると踊るようにタイガの森を駆け、川に首を伸ばして水を飲んだ。つがいとなる雌を見つけるや交尾をし、その胎に子を成した。狼の脅威から雌を守りながらの生活は楽ではなかったが、次の年の新芽が伸びる音を発する季節になると子どもが生まれ、喜びを感じた。子の存在は馴鹿にとってさらなる重みであったが、傷だらけになりながらも寿命まで生きた。世界樹の下で死んだ馴鹿は、その身が腐り始める前に鴉に食われた。


 鴉は狡猾だった。かつて主神オーディンのもとで伝令役を務めたこともあり、魔法に通じていて千里眼を用いた。誰よりも安全に、誰よりも慎重に獲物を探し、死んだ馴鹿もそうした手法で見つけた安全な獲物だった。彼は常に身を隠す場所を探しながら動き、太陽が起き上がっていない薄明のときを好んで空を駆けた。だがどんなにか警戒しても、己よりも素早く巨大な鷲に狙われれば、それまでだった。


 鷲は若かった。が、巨大であり、力強かった。己は誰よりも強いと考えており、実際に力でも速さでも誰にも負けることはなかった。しかし力に自惚れた鷲は兎を狩ろうとしていたところで、老いた狼に背後から襲われた。力では負けていなかったし、爪の鋭さも、狡猾さも上だという自負はあったが、爪を兎に突き立てていたために負けた。鷲は狼に喰われた。


 狼も、その後に死んだ、その死体は栗鼠に喰われた。栗鼠は馴鹿に喰われ、馴鹿は鴉に喰われた。

 何度も生きて、何度も死んだ。

 その中でしかし、鼠は、鹿は、鷹は、狼は――忘れなかった。あの歌を。何度も想った。あの歌を。あの女の歌を。名前も顔ももはや思い出せなくなった、しかし語った内容は忘れえぬあの歌を。


 生きた。みな生きた。そして死んだ。何度も何度もそれが繰り返されて、また老いた狼の番になった。が、今度ばかりは狼が老衰で死んだり、馴鹿に蹴られたり、鷲に喰われたりする前に、巨大な金属の塊が狼にぶつかってきた。

 トラックを運転していた男は激しい音が聞こえた瞬間に血の気が引いた。衝突音で己が何かを轢いてしまったことは即座に理解して、急停止させた車から飛び降り、被害者を探した。トラックの傍らで倒れている生き物が人ではなかったため、運転手は安堵の息を吐き、その次には生き物を殺しておきながら安堵を感じる己が情けなくなった。

 と、そんな逡巡をしているときに獣の体がぴくりと動いた。運転手は駆け寄り、その容体を確かめた。元の色が何色なのかわからないほど薄汚れているが、彼には獣が犬に見えた。左目のところに大きな裂傷があるうえ、どうやら眼球そのものがないらしい。事故のせいかと思ったが、目のところに走る傷跡は明らかに古く、その傷からは血が出ていない。どうやら古傷らしい――いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。大事なのは、生きているということだ。スピードをそれほど出していなかったのと、獣ならではの身の軽さも怪我を軽くするのに役立ったのだろう。骨は折れていて、もしかすると内臓に損傷もあるかもしれないが、少なくともすぐに死んでしまうような容体ではない。病院に連れていけば、助かるかもしれない。

 そう思った運転手は獣をトラックの助手席に載せようとしたが、獣は四足で立ち上がるや、走り出した。まさか怪我がないのかと運転手は訝しんだが、走り方は明らかにびっこを引いていて、どうやら脚が折れているらしかった。それなのにいったいどこへ、と追いかける。

 獣は立ち止まった。男と女の前だった。彼らは言い合いをしていて、女のほうが手を振り上げた。獣は女の脚に噛みついた。女の剣が振り下ろされるその前に。

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