第17話 晴海謙治、疑念を深めること

 車窓からの風景に映る車は疎らになり始め、背の高い建物は殆ど見えなくなる。坂を下っていき、部活動がどこぞの大会で優勝しただとかいう段幕が金網にかけられている中学校そばの緩いカーブを曲がる。細道を抜ければ、鼠色の、おそらく元々は白色だったのであろう薄汚れた壁のアパートがある。駐車場が無いので、晴海は道路の端に車を寄せた。


「けんちゃん……送り迎え、ありがとね。お茶でも飲んでく?」

 息子を連れて車を出た菜々子は、そんなふうに申し出てきた。晴海は菜々子を、菜々子の息子を、そしてアパートの二階の部屋を見た。菜々子のたちの部屋だ。警察に拘束されるほどの立場ではないものの、会社からはひとまずの謹慎処分を喰らっている菜々子の夫――事故の当事者のひとりである石和明があの部屋の中にいる。

「いや、遠慮する」

 と断ると、菜々子は少し逡巡した様子を見せてから真面目な顔で「けんちゃん、お仕事してるの?」

などと問いかけてきた。

「舐めてんのか」

「あ、いや、定職就いているのかとかそういう意味じゃなくて……こうやって送り迎えとか、わたしのお手伝いとかしてくれるけれど、それって本業じゃないんでしょう? こんなことしてて、ほんとのお仕事のほうは大丈夫なの? 迷惑じゃない?」

「もう五時は過ぎている」

「定時でいつも終わるわけ?」

「上司には事故調査が長引いていると伝えてある。被害者はあれだし、それに」と晴海は運転席に座ったままでハンドルを叩いた。「これから残業だ」

「そう……うん、ごめんね。ありがとう」

 菜々子はすぐに引き下がった。息子に、バイバイしようね、などと言って手を振らせているのを尻目に、晴海はアクセルを踏んだ。


 アパート沿いの道からひとつ曲がってから晴海は車を停め、胸ポケットから煙草を取り出した。一本咥える。菜々子やその息子がいる間はずっと煙草を我慢していた。言われたわけではないが、妊婦や幼児の前で吹かすほど常識がないわけではない。

 しばらくの間は暗かった。火を点けないで、咥えたままでいたからだ。

 税金の増加に伴い、今どき煙草を吸っている輩などそうそういない。人数が減ると、少数派への風当たりは強くなる。昨今では煙草を吸っているというだけで、頭のおかしい人間扱いする者もいる。ま、わからないでもない。煙草なんて吸っていても、百害あって一利なしだ。それを理解しながら吸っているのだから、やはり喫煙者というのは欠陥があるのかもしれない。


(石和は、煙草は吸わないだろう)


 もともと吸わないのか、あるいは菜々子と結婚してから吸わなくなったのか。晴海は彼女の夫である石和明と直接対面したことがないので知らない。だが少なくとも菜々子からは喫煙者特有の匂いはしないので、現在吸ってはいないのは間違いない。もともと喫煙者で禁煙したのだとしたら、立派なことだ。晴海は禁煙したことも、しようとしたこともないが、素直に賞賛しておく。

 自分も結婚していたら禁煙していただろうか、などと考えながら手元を照らし、煙草の先を熱源に押し付けた。煙を肺に吸い込み、噎せた。涙が出た。くだらない想像をしたせいだ。一瞬の想像の中では菜々子が妻になっていた。馬鹿馬鹿しい話だ。

 未だ三分の二ほどが残っている煙草を携帯灰皿に押し付けて消し、ハンドルを握る。菜々子の誘いを断ったのは、単に彼女の家に上がりこむのが気まずいだとか、夫の石和明に会いたくないという理由だけではない。仕事だ。菜々子に言ったのは冗談ではなかった。午後いっぱいを彼女のために使ってしまったぶん、取り戻さなくてはいけない。


 といっても、午前中にできるだけのことはやった。事件関係者から話を聞き、可能な限りの情報を集めた。集めようと努力した。が、巫山戯た話で、当の事故の被害者――仲楯常賢は事故直前のことを覚えていないのだという。

 人通りの少ない片田舎の道を走りながら、晴海は腕時計で時間を確かめた。時刻は二十時を少し回ったところで、とっぷりと暗い。

 文科省の役人であるところの晴海が白瀬市に派遣された理由はといえば、菜々子に呼ばれたわけではなく、学業環境の整備のためで、平たくいえば登下校最中に学生が事故に遭ったため、今後そのようなことがなきように事故原因を追究し、必要な環境を報告するためだ。だが今のところ、その事故原因がわからない。


 事故が起きるべきして起こった。見通しの悪い道で、カーブ方向に沿った豊かな街路樹が先の見通しを防いでいた。消えかけの中央分離帯で分けられた細道と歩道は柵で仕切られているが幼児でなければ超えるのは容易な高さなうえ、切れ目もあるので誰でも車道に出て、車道を横切ることができる。なのに近くに信号や横断歩道は無く、車両の速度制限も緩い。これではいつ事故が起きてもおかしくはないわけで、まさに起きるべくして起きた事故だった。

 晴海は刑事ではない。だから、事故原因が解釈できれば、それで報告はできてしまう。車両の速度制限を厳しくし、街路樹の整備を行い、街路樹を整備して見通しを良くすれば事故確率はずっと減るだろう、と。


 だが調べていくと、事故の成立はそれだけでは解釈できなかった。


 明らかに不審だった点は、被害者――仲楯常賢が車道にいたことだ。事故のあった道は彼のいつもの通学路であったのだが、家から高校に行くまでの間で、あの場所で車道を横切る理由がないのだ。たとえば車道の反対側には郵便局やクリーニング屋があるが、彼が利用した記録はなかった。ポストも集荷記録から調べてみたが、少なくとも彼や家族の名義で投函された郵便物はなかった。あるいは事故の場所を通る前にどこかに寄り道をしていて、その結果としてあの場所で車道を横切ることになったのかもしれないとも想像できた。だが彼の母親が家を出て行った時間を覚えていたのだが、事故地点に辿り着くまでの時間を平時の通学時間をから逆算すると、どこかに立ち寄るだけの余裕があったとは思えない。その日はいつも行っている部活動の朝練がなく、だから平時とは歩くスピードが違ったのかもしれないとも考えられたが、彼が家を出た時間は始業には十分に余裕があったため、少なくとも急ぐ理由は見当たらなかった。また彼の財布や学生鞄からは、寄り道を示すような証拠物は出てこなった。

 とはいっても、人間どこで何をするかはわからない。ただ車道に出てみたくなったのかもしれないし、あるいは反対側の歩道に猫でも見えて触りに行こうとしたのかもしれない。それらしい理由はいくらでも挙げられたし、手持ちの情報だけで報告書を書いてしまって今回の事故を片付けてしまうこともできた。


 だがふたつ、晴海にはこの事件を追究する理由があった。

 ひとつは加害者の妻が学生時代の友人だった菜々子だったということだ。苗字が変わっていたので、最初はわからなかった。

『まもなく左です』

 カーナビの電子音声を受けて、晴海はウィンカーを点させた。

 車を乗り入れたのはチェーンのファミリーレストランの駐車場だった。外の階段を上がり、二階部分にあるレストラン内に入る。

「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」

 愛想の良い店員に迎えられて喫煙席に着く。午前から午後にかけては調査、夕方になってからは菜々子の手助けで忙しく、腹が減っていたわけだが、それがファミリーレストランに入った理由ではない。

 注文の品が来るまでの間は、晴海は「おひとりさまですか?」という店員の問いかけを反芻しながら煙草に火を点け、店員たちを確認していく。捜していたのは目立つ少女で、だからすぐに見つかった。

 小町恋歌という、事故の第一発見者の少女が他のテーブルから皿を下げていた。今回の事故に関して食い下がるもうひとつの理由が、彼女だ。

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