第16話 晴海謙治、女の背中に学生時代のことを思い出すこと

 小柄な女だ。

 ここからでは小さな背中しか見えないが、その姿はいくらでも想像ができる。表情にはどこか幼さがあり、顔の造作も中高生といって差し支えないような童顔だ。しかし三つ編みにしてひとつに纏めた髪が落ちる先には、明らかに肥満とは違う突き出た腹がある。子どもを孕んでいるという事実が、学生時代とは明らかに違う淫靡な色を感じさせた。


『石和の妻です。この度は、本当に………』

 申し訳ありませんでした、とレシーバー越しに聞こえる声ははっきりしていたが、震えてもいた。きっと瞳は潤み、頬は赤く染まっている。手を握られている幼子はというと、何が起きているのかわからぬという表情で、頭を下げる母親を見ていることだろう。

 盗み聞きの会話に波乱はなかった。起こりようもない。なにせ、何事もなかったのだ。少なくとも物理的には、何かが壊れただとか、怪我しただとか、そういったことはほとんど無くて、だが状況は以前より明らかに悪くなっている。それが彼らを取り巻く状況だ。

 幼児を連れた身重の女は門を出ると、最後に反転して一礼をした。彼女が家の敷地を出たのを確認してから、晴海謙治はるみけんじは双眼鏡を下ろしてシフトレバーに手を伸ばす。路肩に停車していた車をゆっくりと発進させ、徐行速度で車を前方に進めた。T字路を曲がって小学校に面した大きな通りに出て、バス営業所の空きスペースに駐車し、女を待った。


「菜々子」

 同じように路地を曲がってきた女が見えたとき、晴海は大声で彼女の名を呼んだ。女はすぐに気付き、息子の手を引いたままで小走り気味になる。運転席を降りて迎えに行ってやるべきかとも思ったが、そこまでしてやるのは大袈裟だという気がして、晴海は運転席を離れられなかった。

 女は後部座席に乗った。息子と隣り合って座るためだ。来るときもこうして後部座席に乗ってもらったのだ。いまさら確認することでもないのだが、晴海は彼女が迷いもせずに後部座席に乗った理由、否、助手席に座らなかった理由についてはどうしても心の中で確認せざるを得なかった。

「どうだった?」

 すぐには発車させずに、晴海はバックミラーの位置を整えるふりをしながら尋ねる。

「聞いてたとおりだよ……、ちゃんと聞こえてた? ほんとに聞いてたの?」

「おおむね」

「言われたとおりゆうちゃんも連れていったし……やれることはやったと思う」

 そう言って石和菜々子いさわななこはにっこり笑った。もちろんその笑いは、晴海に見せるために作られたものだ。心の底から晴れやかな気持ちでいるわけではあるまい。

 それは頭では理解してはいたが、晴海は彼女には悲しみで苦しんでいて欲しかったし、一分足りとも明るい感情を見せて欲しくはなかった。彼女が落ち込まず、幸せになってほしいと思っているというのに、同時に若者をトラックで轢いた男の妻として、ただただ罪の償いの姿勢を示して欲しかった。


(いや………彼は無事だったんだ)

 仲楯常賢という変わった名の高校生は、トラックで轢かれながらも奇跡的に軽傷で済んでいた。事故直後は頭部から出血しており、衝撃で気絶してはいたが、救急車で病院に担ぎ込まれてしまうと、骨も脳も異常は無く、腕や頭に軽い打撲と擦過傷があるだけということだった。撥ねられた瞬間に意識を失い、自然に脱力したことで衝撃を和らげたのかもしれない、という理屈らしいが、やはり奇跡的だ。

 問題は、だ。彼が轢かれたということ、そのものなのだ。

「家でいいんだよな?」

 返事を聞く前に、晴海はアクセルを踏んで発車させた。菜々子の夫の二の舞にならぬよう、慎重に。

 車道に出て少し走ってから赤信号で止まり、バックミラー越しに後部座席の様子を確認する。菜々子は隣に座る幼児の頭を撫で、その様子を気遣っていた。彼女の子――優は母親に似ておっとりとした性格のようで連れられてきた目的が何なのかはまったく気にしていないようだった。

 ミラー越しの視線に気付いた菜々子が前方を指差す。信号が緑に変わっている。


「けんちゃん、ほんとに……これって大丈夫なのかな。盗聴とかって、違法じゃなかった? なんか前、刑事ドラマか何かで言ってたよ」

 走り出していたため後部座席の様子を確認する余裕はなかったが、彼女が「これ」と言ったのが何かは明らかだ。携帯電話と録音機器だ。彼女が仲楯常賢の家を訪ねている間、携帯電話は集音状態で晴海との通話を保つと同時に録音機器を作動させておくようにと指示しておいた。何が有利に働くかはわからないから、という晴海の判断だった。残念ながら現段階では有利に働くような言質は取れてはいない。

「盗聴じゃない。会話を録音していただけだ」

「いや、だってけんちゃんは盗聴していたでしょ?」

「通話していただけだ。スピーカーが入りっぱなしだったおまえの電話と」

「その言い訳は、たぶん通らないと思う」

 その通りだろう。だが日頃から呆としたところのある菜々子だ。彼女ひとりには任せておけなかったし、任せておくには不安が大き過ぎた。そして、放っておけるほどに晴海との縁は薄くはなかった。幼い頃から学生時代に至るまで長い時間をともに過ごした晴海には、彼女のぼんやりとした性格や押しの弱さが心配だった。

(いや、おれが知っているのは十年前のこいつだ)

 昔はこうだった、ああだった、と言ってみても晴海と菜々子の間には十年という期間の隔たりがある。ふたりとも、もう学生ではないし、未成年でもない。何より、菜々子は夫と子どもがいる。今更、焼け木杭に火が点くということはありえない。少なくとも――少なくとも晴海はそう思っている。


 だが変わったといっても、やはり思い出の中の彼女がどこか抜けていて、放ってはおけない存在であるということは変わらない。何より現在の彼女は身重なうえに、舫とすべき存在を失っている。

「べつに、録音した内容をどうにかするだとか、そういう話じゃないんだ。ただ、確認に必要なだけで」

「それなら問題無い?」

「問題無いことは無いが、ばれなければいいだけだ」

「そういうことを言ってると、なんだかほんとに犯罪者の気分だよ……」ううん、と菜々子は独り言ちるように言った。「実際、そうなのかもしれないけど」

「犯罪者ってこたぁないだろう」

「でも、盗聴は……」

「そっちのことじゃない」

 おまえの夫のことだ、とまでは言わなくても伝わった。


 菜々子の夫、石和明は三つの法的責任に直面している。すなわち、行政罰、民事罰、そして刑事罰だ。このうち行政罰――反則金や免許の取消に関してはどうしようもない。石和が常賢を轢いた直後、近くに居合わせた少女が救急に通報しており、そこから警察へも連絡が行っている。記録されている事故については、その通りに処理されるしかない。

 菜々子の夫はトラックの運転手で、運転免許の取消は職を続けられなくなるほどに大きな障害になるのだが、今回は幸いスピードを違反していなかったことと、被害者の怪我が軽かったことが幸いして反則点は大きくなかった。問題は、民事と刑事の罰則に関してだ。

 民事罰――怪我を負わせたことへの治療費や不正な行為を行ったことに対する賠償補填に関するもののうち、一部は運送会社が加入している保険で埋め合わせがされた。だが慰謝料となると話は別になる。こういう場合、単純に金が貰えればその出処はどこでも良い、という場合と、本人から払って欲しい、と言われる場合がある。後者なら、石和の負担は大きく増える。

 刑事罰に関しても、行政罰と同様に怪我が軽かったことで強制的に警察側から書類送検されるということはなかったが、被害者は存在している。彼が加害者である石和の罪の減免を願わない場合、起訴処分ということになりかねないし、いくら怪我が軽いとはいってもトラックで人を撥ねたなら、刑罰に関しては予想がつかない。


 必要なのは、だから、情状酌量だ。


 石和は確かに人を轢いた。若い学生を撥ねた。だがそこに彼の責任が薄いと判断されれば、一切の罰を負わなくて済む、とまではいかなくても、民事罰や刑事罰に関しても処分が軽減されるはずだ。といっても、現場の状況――見通しが悪いだとか、近くに横断歩道が無いだとかいうことについては、既に晴海が手を尽くしている。晴海は文科省の職員であり、この手の事故処理については慣れていた。石和の罪を幾らかでも軽くするためには、彼以外の人物に責任の一部を押し付ける以外にない。わかりやすい例でいえば、被害者である仲楯常賢が走行中の車の前に意図的に飛び出したという事実でもあれば、責任と罪を押し付けることができる。だがもちろん、被害者やその家族との会話のときに「あなたのほうこそ問題があったのではないですか?」などと尋ねることはできない。被害者家族の心証を悪くするだけであり、慰謝料が高くつくだけだ。

 本来であれば加害者側の人間が被害者の家族に会うなどというのは良い選択肢とはいえないが、晴海は知っていた。石和菜々子という女はどこから見ても相手を油断させ、好感を持たさせ、同情を与えさせるような女だと。もし中身も見た目通りでなければ、もっと大きなことを仕出かしていたかもしれない。

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