三、剣と剣の歌

第15話 ゲイルロドとシュヴェルトライテ

「違うだろう」

 違うだろう、それは違うだろう、間違っているだろう。ゲイルロドは己の口から出るそんな言葉を聞いた。吹雪は未だ薄い壁を揺らし、耳の奥にこびりつく音で喚いていたが、漏れ出た本音を隠すほどに五月蠅くはなかった。


 沈黙が帳を下ろしたが、吟遊詩人シュヴェルトライテの視線は今や楽器を擦る弓にはなく、ゲイルロドへと向いていた。

「と、いいますと?」

 雪山の木霊のように、随分と遅れてシュヴェルトライテの問いかけはやってきた。

 厨房から拝借してきた豚の腸詰を噛み千切る。暖炉の火で炙り焼いたので、肉汁が飛び散った。ゲイルロドは己の開かない左瞼を撫でた。裂傷が走る左目には、何があるとつい触ってしまう癖がついている。

「なんだろう、その、だな」

「どうぞ、ご自由におっしゃってください」

「都合が良くないか?」

「お話ですから」

 と言って、シュヴェルトライテは微笑んだ。表情は柔和ではあるが、にべもないと感じる。吟遊詩人が歌を歌であると、作り物であると、架空のものであると断言してしまえば、それは空しいものとなってしまいはしないだろうか。


「そういう意味ではなくて、だな。その娘は罪を犯したのだろう? 友人の男に怪我を負わせ、走れなくまでさせたのだ。戦えず、守れず、逃げられないようにしたのだ。それなのに、怪我を負わされた男の手によって守られ、何の贖罪もせずに安穏と暮らそうとしている。それを都合が良すぎる、と言いたいのだ」

「はて、どうでしょう。たとえば旦那さまが罪人だとして、もしそのような流れになりましたらご不満ですか?」

「不満というか………いや、まぁ、そうだ。不満だな」

「しかし、人の考えは変わるものです。何某かの要因で、いつ罪が取り沙汰にされるかわかったものではありません。旦那さまは先ほど、罪に相当する裁きがどういうものかはわからないというようなことを仰いました、しかし罪人は裁かれるものです」

「裁かれないまま逃げ続ける罪人もいる」

「であれば、逃げ続けることがその罪人の裁きとなりましょう」

「いつか罪を糾弾され、償いをされるであろうことを怯えることが、仕出かした罪に値する裁きだというのか? 果たしてそうか? 盗みでも、同じか? 人を怪我させ、足を動かなくさせてもか? 誰かを殺しても? 贖罪をしようとはしないのか?」


「と、いいますと?」

「と、いいますと、とは……」

「先にもお尋ねいたしましたが……贖罪というのはいったいどのような行いのことでしょうか」

「どのような、とは………」

 ゲイルロドは無理矢理作った笑みを浮かべて女の言葉を繰り返した。おまえは馬鹿なのかと、そんなこともわからないのかと、問わずともわかるだろうと、そんなふうに思わせようとして作り上げた仮面であったが、その内にあったのは、それこそがおれの知りたかったことだという本音であった。


 吟遊詩人の女の返答は無かった。それで、ゲイルロドはいつしか己の声調が有無を言わさない、叩きつけるようなものになっていることに気づいた。立ち上がってさえいた。葡萄酒を卓上に置き、どっかりと椅子に座りなおしてから、わざとらしいくらいに笑ってみせた。「いや、酔っ払ったな」

「さようでございますか」

 ぽつり。応じた女の声音には怯えの色は見えない。

 吹雪の音は少し和らいだように聞こえるが、それは単にゲイルロドの耳が慣れてしまったからだろうか。身体がぼんやりと熱くなってくるのは、暖炉の火のためか、それとも葡萄酒のせいか、あるいは長年の酷使によって蝕まれた身体が平に平にと頭を擦り付けているためか。

 そろそろ部屋に戻るべきだろうか、とゲイルロドは考えた。いまさら、目の前の吟遊詩人に対し、何某かの言い訳を含める必要は無いような気がしてくる。どうせ一夜の出会いだ、などという言い方をすれば色気もあるが、つまりはひとつの宿に泊まっただけの客同士ということだ。明日になれば、もう二度と出会うことはないだろう。でなくてもゲイルロドは老いていて、女は若かった。すれ違うことはあっても、若い者は足が速い。老いたゲイルロドが同じ方向へ歩いていたとしても、置いていかれるだけだ。


「旦那さまが仰った贖罪とは、たとえば隻眼のゲイルロド王が行った行為のことでございましょうか?」

 立ち上がりかけたときに女が声を発したので、ゲイルロドは先を機される形となった。

 この女はそこまで知っているのか――ゲイルロドは唾を飲み込んだ。いや、当然のことだろう。シュヴェルトライテは隻眼の王――ゲイルロドの歌を作るために伝説を収集しているというのだから、ゲイルロドの軌跡を知っているに違いないのだ。

「ええ、確かに主神オーディンによって片目を貫かれ、国を追われたゲイルロドは旅を始めたと聞いております。というよりは、そうせざるを得なかったのでしょうか。ええ、どこへも定住できない、漂泊の旅です。ええ、その最中でゲイルロド王は贖罪をし始めた、と、そう聞いております」

「贖罪?」

「かつてゲイルロドは己の国を訪ねてきた旅人を殺しました。臣下の妻を寝取りました。財を奪い、人を殺しました。ゲイルロドはその償いをするかのように、田畑を耕し始めたそうです」

「それくらい、農民なら誰しもやっているだろうに」

 ゲイルロドは自嘲気味に笑った。

「ええ、その通りです。ですがゲイルロドが耕した場所は、荒れ果てた大地でした。戦火によって流れた血が染み込んだ大地でした。水気が無く、花は無く、巨大な岩が立ち塞がる、さながら死者の国ヘルがごとき場所でした。実際、そこには死体がそこかしこに転がっていたそうです。当時、未だゴート族は戦争下にありました。ええ、ブルグンド族を主とする異民族との戦争です。彼の暗愚で怠惰な行いが招いた戦火の残る場所だったのです。わざわざそんな場所を耕さなくてもいいだろうに、と思うところではございますが、かつて王という立場でありながら国を追われたゲイルロドには、他国に亡命することも、己が国に戻ることもできず、そうした危険な場所しか残されていなかったのです」

「その大地を耕した」

「ええ、大地を耕し始めました。草ひとつ生えない赤茶けた土を。山犬さえ近づかない荒廃した土地を。始めは何もかも上手くいかず、種は無駄になるばかりでしたが、たったひとりで碌な道具もなく堅い土を耕し、水を引き入れているうちに、作物に実りをつけることができるようになりました。

 実りがあれば、人も寄り付きます。ゲイルロドは旅人に施しをし、寝床を与えてやりました。移り住みたいというものがいれば、家を建ててやり、外壁を作ってやりました。そうしてその土地は徐々に豊かになり、ひとつの村ができました。それからゲイルロドはその土地を離れました。似たように荒涼とした土地に移り住んだゲイルロドは、また土を耕しはじめたといいます。また、何もないところから――何もないところから、またゲイルロドは田畑を耕しました。水を引きました。塀を作りました。そうして人が増えるや、ゲイルロドはまたその土地を離れました。実際、わたしは彼が建てた塀や家々を見て参りました。たくさんのものを――何年も何年も、ゲイルロドはそんな生活を続けたといいます」

「どうして――」

 問うまでもない質問をゲイルロドはした。いや、問う意味はあった。物語を収集する詩人だというこの女が、どのようにゲイルロドの為したことを評価しているのか知りたかった。

「それは、ですから、贖罪でしょう」

「ゲイルロドは、贖罪できたと思うか?」


「と仰いますと、どういった意味でございましょう?」

「どういったって……だから、罪を償えたか、と、そういうことだ」

「罪を償えたか、とは、妻を奪われたうえで自殺を強制された家臣の無念さを解消できたか、ということでしょうか?

 土地を奪われた、行くあてなく荒野を彷徨って飢えて死した民の虚しさを埋めてやれたか、ということでしょうか?

 親を殺され、復讐するために鍛え、にも関わらず望み半ばに死した子の絶望を癒してやれたか、と、そういった意味でございましょうか?」


 ああ。

 ああ、ああ、わかっていた。

 ゲイルロドは罪を犯した。アグナルを殺した。故意にではなかった。舟の上で諍いになったときに小突いたら、落ちてしまった。浮いてこなかった。助けられなかった。動けなかった。そうして王になった。

 王になったあとの罪は、わざとではない、などと片付けられるようなものではなかった――いや、始めは何もわかっていなかった。帰ってみれば父親が死んでいて、ゴート族の王として働かざるを得なくなった。権力を守るために、力を行使した。そのうちに、殺し、奪うようになった。己の快楽のために。

 初めにアグナルの、兄の命さえ奪わなければ、あのような悪逆非道の行いにも手を出すことはなかっただろう。兄とともに支え合って、ゴート族を治めていけたのだ。それなのに、それなのに――。

「旦那さま?」

「何をしても無駄だったというのか?」

 零れたのは本音だった。いまさら誤魔化すこともない。ゲイルロドは――贖罪をしていた。贖罪であろうと思われる行為を行っていた。そうして人々から許しを請おうとしていた。言葉にはしなかったが、いつでも人の目を気にして生きてきたし、いつかゲイルロドの過去を知り、過去を悔いたことを知り、過去を悔いて罪を贖おうとしたことを知って、罪の許しを授けてくれる相手を探していた。

 シュヴェルトライテという吟遊詩人はその絶好の機会を与えてくれると思っていた。彼女は隻眼の王ゲイルロドの伝説を収集していながら、目の前の老人がゲイルロドであるとは気付いていないように見えた。

 だがその期待は散った。

 あの日、誤って兄王を殺したときから重ねた罪は、何をしてでも償えそうになかった。死んだから。死んだ人間には償いようがないから。いいや、死んでいなかったとしても、怪我をさせれば、それをなかったことにはできないから。痛みと傷は残るから。


「死ななければ、良かった」

「え?」

「いや……歌の話だ。あんたの歌だ」とゲイルロドは誤魔化した。「事故にあった相手が死んだら駄目だし、罪に問われるのも苦しすぎる。かといって、相手に庇われたようでは、罪を償うには不便すぎる。だから、駄目だ。事故が起きても、誰も傷つかないべきなのだ。血は流れず、傷は膿まず、死が訪れないべきなのだ。そうすれば、何もかもが丸く収まるはずだろうに」

「そう思いますか?」

「そうではないか?」

「では――」

 女は弓を手に構えた。女は弦を指の腹で抑えた。女は言った。

「それではそろそろ最後にいたしましょう。剣と剣の歌を」

 雪が降っていた。降り続いていた。だがゲイルロドは月に照らされた雪原に不穏な空気を感じ取っていた。

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