第14話 小町恋歌、幼馴染の少年と並んで歩くこと

「なぁ、仲楯くん。きみは今回の事故のことは彼女と……きみ自身の問題だと思ってやしないか? 違うだろう? なぁ、本当はわかっているんだろう?」

 そう言って、文科省の職員、晴海は現場検証を終わりにした。高校に戻るか家に帰るなら送り届けてくれると彼は申し出たが、常賢が拒否したのでその場で別れた。


 晴海が車で去り、そのナンバープレートが見えなくなってからきっかり九秒の間の沈黙を破ったのは、「帰るか」という一言だった。

「うん」

「いや、おまえはこうちゃんの見舞いに行くか」

「いや……家まで一旦帰って、病院はそれから行くよ」

 恋歌は常賢の鞄を手に取り、松葉杖をつく彼の足に速度を合わせて隣を歩いた。こうして共に歩くのは一ヶ月前の事故直前のとき以来だった。あのときは、歩幅の長い常賢が歩みを合わせた。だが今度は逆に恋歌が松葉杖に速度を合わせて歩いた。

「常賢、バスとか乗らなくて大丈夫?」

「ああ……そんな長距離じゃないし、そこまで歩くのも苦労しないから」と返答した常賢は少し考えてから「歩くのは遅くてすまんな」と言った。

「ううん………」

 わたしのせいだから、と危うく言いそうになって口を噤む。自転車に乗るふたりの小学生が車道を駆け抜けていって、途中まで紡がれた言葉は風に掻き消された。


 常賢は間違いなく事故の当時のことを忘れてはいない。だからいまさら、本当のことを伝えても何も変わらない。そうは思うのだが、やはり実際に口に出そうとすると勇気が必要だった。

 それでも、確かめなければならなかった。なぜ彼が恋歌が事故を引き起こしたことを秘密にし、庇い立てるのか、と。頭の中で何度も繰り返すが、その推測はあまりに不可解で、晴海の妄想ではないかという気がしてくる。そもそもあの晴海という文科省の職員は、なぜああも常賢と恋歌の事故に執着するのか。

 わからないままで、しかし彼の言葉にはひとつの真実がある。

「なぁ、仲楯くん。きみは……今回の事故のことは彼女と……きみ自身の問題だと思ってやしないか?」

 晴海が常賢に向けて発した言葉を思い出す。

 事実が明らかになれば、罪を被るのは恋歌だけではない。罪もない同級生を突き飛ばし、事故を起こさせた女の家族も巻き込むだろう。罪人の家族は世論の絶好の標的になるはずだ。


「おばあちゃん、ただいま」

 常賢と別れて家路に着いた恋歌は、磨り硝子の嵌め込まれた玄関の戸を開いた。木造建築の古い家屋だけあり、玄関の石畳は寝転がれるほどに広いが、それを埋める靴の数は瞳の数より少なかった。古ぼけた木造りの靴箱の上には木彫りの木菟や匂い袋のほかに、もはや靴を用為さない人々との思い出の写真が置かれている。恋歌が産まれる以前に病死した祖父の。恋歌の両親の。

「れんちゃん、おかえり」

 和装にエプロンという出で立ちで台所から顔を覗かせたのは、両親を失った五年前に恋歌を引き取ってくれた祖母だった。

「今日は早いねぇ。病院には行かなかったの?」

「うん、ちょっと用事があって……一回戻ってきたの。これから行くつもり」

「そう、じゃあわたしも一緒に行こうかな」と祖母は笑顔を見せてエプロンを解いた。

 祖母は八十歳を過ぎているが元気な人で、今でも琴の教室を開いて教えており、恋歌がアルバイトなどで幸喜の見舞いに行けないときには代わりに弟の世話を焼いてくれる。事故で両親を一挙に失った恋歌には、彼女以外に頼る舫は無かった。だから、彼女には本当に感謝している。

 だが恋歌が引き起こした事故のことが発覚すれば、その祖母ももちろん害を被るだろう。なにより、弟の幸喜が。


 定期的な治療を必要とする幸喜が病院から離れられないにも関わらず笑顔を絶やさないのは、恋歌のおかげだ、とは言わない。だが彼の小さな世界にとって、姉の恋歌の存在が誰よりも大きいであろうという推測は、自尊心から産まれる願望ではない。それしか外との繋がりがないのだから、心を強く繋がるのは当然のことなのだ。

(あの子は、いったいどうなるだろう)

 恋歌のことが知れたら、きっと苦しく思うだろう。だのに、いったいどうすれば良かったのだ。

 いや、簡単なことなのだ。もっと清く、正しく生きれば良かった。恋歌が学業や外の世界について弟に語る際、その中身は常に偽りだった。話の中の恋歌は、優しく、友に囲まれ、日々を軽やかに過ごしていた。その嘘の通りに生きれば良かった。だがそうできなかった。

 今日も、それは変わらなかった。嘘で塗り固めた会話のあとの病院からの帰路、恋歌は自己嫌悪に包まれた。


 夜、寝るのが早い祖母に気を遣って足音を殺しながら、恋歌は畳部屋の電話に向かった。祖父と両親の仏壇、それに固定電話だけが置かれている畳部屋には、廊下を隔てた縁側の広い窓硝子から月光が差し込んでいる。月は丸く、雲は無く、夜は雪の日のように明るかった。家の裏手にある雑木林のほうから喉の奥から絞り出すような鳴き声が聞こえた。鳥だろうか。狼だろうか。

 受話器を取ってダイヤルに手をかけてから、恋歌は目的の電話番号を知らないことに気づいた。少し考えてから、古い記憶を辿ってかけたのは、常賢の家の電話番号だった。朧げな記憶は正しく、通知音が耳元で鳴り始めたが、誰かが取るやもしれないと思うと急に怖くなった。電話をかけたのは、もちろん常賢と話したかったからだ。彼が事故当時のことを覚えているのか。覚えているのなら、なぜそれを話さないのか。それが知りたかった。いや、知りたくないことだったが、いつまでも宙ぶらりんにしてはいられないことだった。面と向かっては問いただせなかったが、電話越しならなんとか尋ねられる気がした。だがやはり、真実をその口から聞くのは怖かった。

 だがそれ以上に怖かったのは、彼の両親が受話器を取ることだ。


「なぁ、仲楯くん。きみは……今回の事故のことは彼女と……きみ自身の問題だと思ってやしないか?」

 晴海はそう言った。ああ、そうだ。彼の指摘は正しい。恋歌も常賢も子どもをで、ならば親と繋がっている。子どもの受けた傷は、親がどうにかして癒す努力をするものだ。たとえ治すことができないとしても、胸を痛めて、きっと助けてやりたいと思うものなのだ。

 恋歌とは違い、常賢の両親は健在だ。父親は地銀の銀行員だ。小学校の頃は一年間だったか二年間だったか単身赴任していたが、週末ごとに家に戻ってくるのだ、と幼い頃に常賢が話してくれたのを覚えている。母親は専業主婦で、恋歌と常賢が外で遊んでいると、一緒に遊びに加わるような、少し子どもっぽい、優しい人だった。


 ふたりとも、常賢を愛していた。


 それが、一生治らないかもしれない怪我をした。どんなにか嘆いただろう。悲しんだだろう。怪我が残すのは肉体、そして精神への傷跡だけではない。怪我の治療には金がかかるし、リハビリも無料ではないはずだ。将来的に常賢が仕事に就くときに、片足に力が入らないというのは障害になりうるだろう。でなくても――でなくても、理屈などなくても、悲しむのは当然だ。そうじゃないか?

 ふたりは恋歌が彼らの息子を傷つけたということは知らないだろう。だがそれでも、怖かった。彼らと話をすることが。


『……恋歌?』

 唐突に耳元で鳴り響いた声に恋歌は思わず受話器を取り落としそうになった。男性の声だ。常賢の母ではない。若い声だ。常賢の父ではない。何より、家族のほかの者であれば恋歌のことを呼び捨てにしたりはしない。常賢だ。

 彼に尋ねたいことは決まっていたが、実際に問いを投げかける段階にまで来て、恋歌は躊躇してしまった。言葉がなかなか出てこなかった。常賢の家の電話はどこにあっただろうか。居間の戸棚の上だったような気がするが、小学生のときと同じ場所にあるのだろうか。いま、周囲に誰かいるのだろうか。そもそもがどうして電話の相手が恋歌だとわかったのだろうか。

『かけ直す。ちょっと待ってて』

 と言うなり、一方的に電話は切られてしまった。待つも待たないもなく、すぐに電話がかけなおされてきた。常賢だった。おそらくは、携帯電話に切り替えたのだろう。ならば場所は自室だろうか。周りに誰もいないのだろうか。この通話は誰にも聞かれていないのだろうか。

「常賢……どうしてなの?」

『何が? ああ、電話番号が表示されてたから――』

「違う」そうじゃなくて、ともどかしい思いを募らせて恋歌は問いかけた。「そうじゃなくて……わ、わたしのっ、わたしのこと……常賢は覚えているんでしょ? わたしのせいだって、わかっているんでしょ? 記憶が無いなんて、嘘なんでしょ? それなのに、それなのに、事故のことを、どうして……何も言わないの?」

 一息に言い切ってしまったあとで、恋歌は周囲を見回した。壁ひとつ隔てた向こう側が祖母の部屋だ。そう大きな声を立てたつもりはなかったが、彼女に聞かれたい話ではなかった。


『嘘というわけでも、ない』

「え?」

 周囲に注意を払っていたため、恋歌は常賢の返答を聞き逃しそうになった。

『目が覚めた直後、記憶が混乱していたのは本当なんだ。いや、轢かれたのか直前のことは覚えていた。覚えてはいたけど……あまり現実感が無かった。間違いだったのかもしれないと思っていた。だから、言うか言わないかを考えていた。そうしたら……リハビリしていたときに、こうちゃんに会った。それで聞いた。おまえの両親の事故のことを』

 恋歌は混乱しながらも、常賢の言葉を理解しようとした。常賢は幼馴染で、事故が起きたのは小学生の頃、つまりまだ仲が良かった頃だ。だから常賢は事故のことを知っている。だから「聞いた」というのは事故そのもののことではない。事故の詳細。事故の原因。

『こうちゃんが事故を起こしたと』

 恋歌は息を止めた。彼が言ったことは事実だった。


 恋歌がいま住んでいるのは祖母の家だが、母方の祖母だ。そして事故が起きた日、両親と弟は隣県に住む父方の祖父母の家に行っていた。恋歌も一緒に行く予定であったが、熱を出したため、祖母の家に預けられていた。だから高速道路で起きた衝突事故のことは、熱にうなされたまま夢現つに聞いた。

 事故後の検死では運転席にいた父からも母からもアルコールや薬物などは検出されず、車にも何の欠陥も無かった。それなのに障害が何も無い高速道路で、父の運転する車は中央分離帯を乗り上げて、そのまま対向車線に衝突した。当初は居眠り運転か突発性の心筋梗塞などによる意識不明が原因だと思われていたが、そうではなかったことが事故から二週間経ってようやく意識がはっきりした弟の口から語られた。

 幸喜は……弟は確かに事故を引き起こした。事故を引き起こし、両親を殺した。彼は高速道路を運転中の父に後部座席から巫山戯て目を覆ったのだ。父は動揺してハンドルを切ってしまったのだ。そうして事故が起きたのだ――馬鹿な話だが、同じくらい、いや、もっとくだらない理由で事故を起こした恋歌には笑えない。


 恋歌は、ああ、確かに幸喜を許した。彼のせいで両親は死んだが、罵ったりはしなかった。理由は簡単だ。彼は幼かった。まだ小学校に上がる前だった。それに意識不明のまま、なかなか目を覚まさなかった彼が目を開けてくれたことがそれだけで嬉しかった。何より、彼は家族だった。諍いで、もうこれ以上家族を失いたくなかった。それが理由だ。

 だが、恋歌は――今回、恋歌が引き起こした事故は、故意のものではなかったというのは同じで、しかしそれ以外の要素はあまりに違いすぎる。恋歌は自分の行為が何を引き起こすかがわかっていないほど幼くはないし、恋歌自身も怪我をしていない。何より、恋歌は常賢の家族ではない。

 なのに、なぜ庇うのだ。


「常賢……」

 恋歌は、恋歌はもう、常賢との会話を打ち切りたかった。これ以上話を続けて、常賢の考えを下手に捻じ曲げてしまうことが恐ろしかった。事を穏便に済ませられるのであれば、恋歌にはそれ以上の幸いはなかった。何より話を続けるだけの気力がなくなっていた。

 いや、ただひとつ、訊いておかねばならないことがあった。

「今日、文科省の晴海さんという方が……石和さんって人の名前を出したでしょ? あれって、誰なの?」

 晴海が石和明という人物の名前を出したとき、明らかに常賢の様子が変わっていた。常賢の考えを変えるだけの力を持つ人物なのだろうか。ならば危険だろうと、そう思って尋ねてみたくなった。


 返答を聞いた恋歌は、訊かなければ良かったと後悔をした。

『……トラックの運転手だ』

 事故に関連したトラック運転手となると、ひとりしか思いつかない。常賢を轢いたトラックの運転手だ。

 恋歌は自分こそが事故を起こした犯人だと知っていたからこそ、ずっと忘れていた。今現在、最も糾弾される立場に立たされているであろう人物のことを。恋歌は許されるべきではないということを。


 それでも……それでも恋歌は罪から逃れたかった。

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