第13話 小町恋歌、何も見ていなかったことを知ること

 この一ヶ月というもの、聴取など必要に駆られる場合を除いて事故現場に向かうことは避け、遠回りして通学していた。怖かったのだ。その恐怖というのは、事件の真相が発覚するかもしれない、ということではなく、もっと根本的な――常賢が轢かれたことに、人が軽々と飛んでいくことに、他人の血を見ることに対する本能的な恐怖だった。こうして他人とともに、思い返したくない記憶を掘り返しに行くとなれば、もちろんのこと理性的な恐怖も付随した。


「この辺かな。そこの郵便局に停めさせてもらおうか」

 運転席でハンドルを握る晴海の口調は軽く、恋歌としてはあまり話したくないタイプだった。しかし晴海の車に乗っているのが、ほかに恋歌と隣に座る常賢だけとなれば、何がしかのリアクションを返さないわけにはいかない。職員室で調書をとられていたときには担任が時たま口出しをしてくれたのだが、彼は職員会議があるとかで、学校に残ってしまっていて、いまや晴海と恋歌と常賢の三人だけなのだ。

「最近の子は、みんな携帯持ってるから郵便局とか使わないよね。ポストとか、正月くらいしか使わないんじゃない?」

 恋歌は曖昧に頷いた。常賢も。降りる。反対側に回り込んで松葉杖の彼を手伝ってやるべきかとも思ったが、先に降りていた晴海が後部座席のドアを開けていた。

「さて、現場はここか。あまり見通しの良い場所とはいえないね。きみの事故を除くと、少なくともここ十年は交通事故の記録は無いんだけど、まぁそれは運が良かっただけだろう。ハインリッヒの法則っていって、一件の大きな事故の陰にはその三百倍のニアミスがあるっていうからね。ほら、なんていうんだっけ、ヒヤリハットとかいうよね。カーブを抜けて来た先だけど、片側の高い石垣が視界を防いでいるだけでカーブそのものはきついわけじゃないから、速度も落ちにくいだろう。この辺は信号が少なくて渋滞するような道じゃないから、自然と速度が出やすいんだよね。車道幅も広いし」

 と晴海が語るのを、恋歌は黙って聞いていた。下手なことを言うと藪蛇になりかねない。恋歌は、事故とは無関係な存在にならなくてはならないのだ。ただの――ただの事故現場に出くわした、幼馴染の友人が轢かれた現場に最初に駆けつけただけの、第三者にならなくてはいけないのだ。


「ところで」

 急に晴海の顔がこちらを向いたので、恋歌は震えそうになった。が、彼が視線を向けたのは正確には恋歌ではなく、隣に立っていた常賢だった。

「きみはどういう経緯で轢かれたのかな? 家からの道程を考えると、どうしたって左側の歩道を歩いていれば自宅から高校までに辿り着くはずだろう? だから、わざわざ危険を冒して車道を渡る必要は無いはずなんだけど……それとも何処かに寄り道をしてきたのかな?」

「よく覚えていません」と常賢は即答した。「事故前後のことははよく覚えていないんです」

「ああ、そうらしいね。とても残念だ。ただ、覚えていないなら覚えていないで、自分自身の行動を想像できないかい?」晴海は両の手を広げた。午後の下校の時間であれば、制服姿の学生が行き交い、買い物帰りの主婦の姿が目についたが、彼はそれらを気にする様子は無かった。「この通りで、車道を挟んで向かって右側にある施設は、スーパー、郵便局、銀行、あとは床屋だね。きみは朝、これらの施設に用事があって車道を渡ろうしたところを、運悪く轢かれてしまったのだろうか? でも朝の登校時間で開いている店は無いから、登校途中で寄っていくってことは無さそうだね。ああ、郵便局のポストに何か投函するものでもあったのかな? いやぁ、残念ながら事件当時、きみの鞄を警察が漁ったという記録は無いんだよね。でも、さっき言ってたよね。郵便局に行くような用事は特にないって。それとも、秘密の名前で深夜ラジオに投稿でもしていたかな? いや、あれだって、いまはメールで投稿するやつのほうが多いんじゃないかな。ああ、そもそも今の子はラジオとか聞かないのかな」

 晴海はずっと常賢に向かって語りかけていた。思えば、職員室で調書を取っているときからそうだった。まるで、恋歌のことはいないかのように――いや、語りかけているのは無駄な相手だと断定しているかのようだ。


 恋歌はだんだんと、己の足が覚束無くなりはじめていることに気づいた。背中は冷たいのに、胸だけがどきどきと鼓動を早めていた。

「ねぇ、おれには謎なんだよ。事故が起きた原因はわかる。ここは見通しの悪いカーブを抜けた先なのに、事故の対策がされてはいない。だから、歩道からの飛び出しがあったとすれば、それを避けるのは困難だ。事故がいつ起きてもおかしくない場所だ。わからないのは、なぜそれがきみなのか、ということなんだ。なぜ、きみが轢かれたのか。それが謎なんだ。入学して一ヶ月とはいえ、この道は歩き慣れた道で、だったらときたま車が危険な運転をしていくということは理解していたはずだろう。そうだとしても事故は起きる。だが、それは車道に出る理由があればの話だ。油断して、まさか自分の身には災害は降りかからないだろうと考えて、僅かな時間を惜しんで道路を渡る。そのときに事故は起こるだろう。だがきみには車道を渡る理由はない。理由がないのに車道に出るかい? まさか車道に車が通っていることを知らないわけじゃあないだろう? なのに、なんだってこんな事故が起きたのだろう?」

「覚えていません」

「おれは思うんだよ。きみは誰かに突き飛ばされたんじゃないか、って。そう考えれば、辻褄が合うんじゃないか? じゃあ誰がそんなことをしでかしたんだろうか? 少し調べてみたんだ。きみの通う長須高校は、虐めの報告はないし、匿名での暴力行為の密告もほとんどない。進学校だからかな。いや、それは一概にはいえないか。ま、とにかく、危ない話は聞かない。そもそも当時、きみはまだ入学して一ヶ月だったわけだしね、人に恨まれるというのもあまり無いだろう。いるとすれば、中学やそれ以前からの同級生くらいだ」

 恋歌は呼吸をした。不随のはずの反応さえ、自覚しなくてはいけなくなっていた。両手の置き場所がどこなのかがわからない。立つときの足の開き幅がどうすれば不自然に見えないのか。視線の向きはどうすればいいのか。


 晴海の顔は見たくなかった。恋歌は常賢に視線を向けてしまった。彼も、恋歌を見ていた。

「同級生の話で上がっていたのは、きみは恨まれているということはなかったけれど、小学生からの幼馴染で同級生の女の子と、ときたま諍いを起こしているということだった。鞄を投げられたり、後ろから蹴られたりということもあったって聞いてる。こういう話を聞くと、おれは思うんだよ。具体的に何があったのかはわからないけれど、その子に突き飛ばされて、きみは車道に飛び出したんじゃないかって。それで、きみは彼女を庇っているんじゃないかと思うんだが、どうかな?」

 恋歌は――恋歌は冷たくなっていた身体が急に熱くなるのを感じた。


(庇っている?)

 それは、まったく考えてこなかったような推論だった。なぜならば、常賢は恋歌のせいで怪我をしたのだ。走れなくなったのだ。部活を続けられなくなって、酷い……酷い怪我をしたのだ。それなのに、それなのに――。


 恋歌は常賢を見た。常賢は恋歌を見た。そうして、晴海に向き直った。立ち塞がった。意味がわからない。理解ができない。常賢が嘘を吐いているかもとは、事故を恋歌が引き起こしたことを知りながら黙っているかもしれないとは思ってはいた。だが、それは恋歌を恨んでいるからに違いないのだ。大怪我をして、腹立だしくて、単に罪を他人に裁かれるだけでは足りなくて、だから自分で復讐するために、恋歌の罪を黙っていたに違いないのだ。そう思っていたのだ。恋歌は。だが、だが、常賢のこの反応を見れば――。

「わかりません」

 なぜだ。なぜなのだ。なんでこいつは、恋歌を守ろうとするのだ。

 聞く者によっては、これほど疑わしい言い方もないだろうという彼の返答だった。が、晴海にしてみれば、返答がなんであろうとも、常賢からはもはや情報を引き出すつもりはないのだろう。この場に訪れたときの様子で、己の想像が事実であると悟っているのであろう。ならば彼がこれから行うのは、常賢への説得だった。


「友だちを犯罪者にしたくないという考え方は、わかるよ。それでも、罪は罪だと思わないかな? きみは――」

「おれは、何も覚えていません。事故当時の状況だったら、これで十分でしょう。ほかに何かあるなら、学校に訊いてください」

石和明いさわあきらという人物を覚えているかな?」

 唐突に晴海は話題を変えた。

(いさわ……あきら?)

 中学に上がってからは疎遠になっていたとはいえ、幼馴染であり、小中高と同じ学校に通っていた恋歌は、常賢の交友関係はある程度把握している。だがその恋歌にしても、聞き覚えのある名前ではなかった。

 だが常賢が知っている人物であるということはわかった。彼の表情は、その名が出された途端に固まっていたから。

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