二、剣と盾の歌
第6話 隻眼のゲイルロド
吹雪は未だ止まない。
「男が悪いな」
「と、申しますと?」
歌が止まったタイミングで男が声をかけると、吟遊詩人のシュヴェルトライテも曲を奏でる手を止め、聞き返してきた。
「口論になり、突き飛ばされ、それで折悪く、馬車に轢かれたと、つまりはそういうことだろう? 馬車が通るようなところを通っているのが悪いし、避けられないのも悪い。でなくとも、鞄で殴られた程度でよろけるのが間違いだ。そういえば、先の歌の口振りだと、その男や女は随分と若そうだったな。何歳くらいなのだ?」
「十五、六といったところですね」
「と、すれば一人前の男だな。やはり自業自得というものだろう」
「では男同士ならばどうでしょうか? 男が男を突き飛ばし、意図せずして大きな怪我を負わせてしまったとすれば………」
吟遊詩人の問いかけに、男は皺だらけの手で己が左眼を瞼の上から撫でた。いや、左眼があった場所を、だ。傷が刻まれた左眼は、もはや用を為さない。眼球すら失った眼窩は、軽く押すだけでべこりと凹んだ。
「にしても、変わった世界だな。その世界では馬車がそこら中を走っているのか?」
と結局、シュヴェルトライテの問いは無視して逆に問いかけた。
「それは……、世界の認識の差異というものがあるかと思います。先の歌で申し上げました車というのは、この世界の車――馬で引く馬車や、あるいはオリエントの
「そんな乗り物があったとすれば、戦は随分と楽そうだな。馬より巨大な生き物が引いているのか? 象か?」
「というより、乗り物自身が動くのです」
「まるで魔法だ」
「そのように映っても詮無いところでございましょう」
「やはり、けったいな世界の話だな。馬より速い魔法の乗り物がそこら中を走っているだとか、学び舎があり、多くの人間がそこで長時間過ごすだとか」呟きながら、男は火箸薪を火にくべた。弱くなっていた炎が再度燃え上がった。「ま、歌の続きに関しては、だいたい予想できそうなものだな」
「と、いいますと?」
「男を事故で殺し、罪を犯した女が、その罪を償わされるという次第だろう」
「なるほど………」
頷くなり、吟遊詩人の女は黙った。
ぱちぱちと、くべられた薪だけが音を立てていた。しんしんと、降り積もる雪が熱を奪っていた。どくどくと、心の臓が己の胸の内で脈打つのが聞こえて――男は空の角杯でテーブルを叩いた。沈黙を破る。「どうした? 歌の先を言い当てられて、途方に暮れているのか?」
言葉にしてから理解する。己は沈黙を厭うているのだということを。男は己の左瞼をまた撫で、シュヴェルトライテの表情を窺った。
「いいえ」と女は首を振った。「ただ、少し考えておりましたゆえ」
「考えていた?」
「はい。果たして、旦那さまのおっしゃる罪の償いというのは、いかなることなのか、と」
また、沈黙の帳が下りた。
帳を破ったのは、やはり男のほうからだった。「何が言いたい?」
「たとえば仮に、わたくしの物語で登場した男が――車に轢かれた男が死んだとしましょう。だとして、たとえばどのようにして罪を償うことができるでしょうか?
遺族に賠償金を払えば善いのでしょうか?
痛みを受ければ善いのでしょうか?
苦しめば善いのでしょうか?
同じように死ねば善いのでしょうか?
はてさて、いったい何が償いになるのかと、旦那さまはどのような意図で償いと仰ったのかと、それを考えておりました」
「おまえは――おまえは、どう思う?」何か応じねばと必死に頭を回転させた結果、逆に問いかけたという手を選ぶ。「その、つまりは罪とそれを償うことについでだ。どう思うか、ということだ。その問いかけに対してだ」
「そうですね、それは難しい問いかけだと思います。人は生きていれば罪とは無関係ではありません。わたくしも……」
と吟遊詩人の視線が伏せられる。瞼が下がり、長い睫毛が頰に影を落とす。
「何か………何か、過去にあったのか?」
そう口にしてから、男は後悔した。目の前のこの美しい女が過去に大罪を犯したとなると、それが何なのかというのは訊かずにはいられなかったのだが、誰だって問われたくない罪があるというのは、自分自身がいちばんよく知っているはずなのに。
「いや、語らずとも――」
いい、と言い切る前にシュヴェルトライテは語り始めた。「あれは、夏の盛りの頃でした。わたくしが川縁を散策している際に、齢十に満たないであろう年齢の少年が半裸で遊んでいる姿を見かけました。幸いなことに周囲に保護者の姿もなく――」
「幸い?」
「己が不審な人物ではないということを言葉を尽くして説明する必要がない、という意味です。少年は頰が赤く、やや髪が長い、それはそれは可愛らしい容姿をしておりました。となれば、近づかずにはいられなかったのです。話を聞いてみれば、ザリガニを釣って遊んでいたということでした」
「ザリガニ」
「海老に似た淡水の甲殻類です」
「海老」
「はい、海老のお友だちです。さて、見れば少年の傍には川から石で囲っているところにザリガニが一匹おり、どうやら飼うために捕まえていたようでした。一匹では飽き足らず、烏賊の切り身を結んだ糸を括り付けた棒を手に浅瀬の中へと入っていく少年の肢体を眺めていたわたくしは、夏の陽気にあてられてふらついてしまいました。すると、足元からぐしゃりという音が」吟遊詩人の女は大袈裟な調子で首を振った。「ええ、いかに羽のような体重といえど、ザリガニと人間では大きさが違います」
これは深刻な話ではあり得ぬな、と判断したときにはもはや吟遊詩人とザリガニの話は終盤に差し掛かっているようだった。「それで、どうしたと?」と話を終わらせるために半ば投げやりに問う。
「逃げました」ええ、逃げましたとも、と吟遊詩人は言いながら嘆息した。「というより、他にしようがありません。そもそもからして、果たしてあのザリガニがどういう状態になってしまったのかは、見るに耐えません。ええ、この状態でいったい何ができましょう? 死んだならまだしも、生半可に生きていたらと思うと怖くて、怖くて………」
頰に両の手を当てていやいやと首を振る動作もわざとらしかった。
「さて、そろそろ吹雪も弱まってきたな」と席を立つために窓へ視線を向けてみると、己も己でわざとらしいものだな、と男は感じた。
「さようでございますか。しかし、まだ夜更けでございましょう。それともこれから何処かへお出かけですか?」
「いや、そういうわけではないが……身体も暖まったので、そろそろ寝ようかと」
「歌がお気に召しませんでしたか?」
「まぁ、それもあるな。先にも言ったように、おおよその話の先が見えた。となると、先が見えた話の聞く気は失せるというものだが、何より、やり切れぬ話だという気がしてくる。辛気臭くてかなわん。歌は終わりにしてくれ」
「ご冗談を」
「何がだ」
「まだ歌は途中でございます。それを、終わりにしてくれ、などというのは、詩人泣かせというほかないではないですか。旦那さま、ねぇ、どうかそのようなことを仰らないでください。ねぇ、意地悪を仰らないでください。吹雪の夜に退屈ではありませんか? 冬の夜長にこそ歌ではありませんか?」
「退屈だが、好みの歌ではないな。客の好みに応えるのも詩人の度量というものだろう。歌をどうにかしてくれ。でなければ、違う歌にしてくれ。オーディンの歌でも、渋らずにやってくれ」
「旦那さまは、隻眼の主神のオーディンの歌をご所望だったのですか?」
「先に言っただろうに。それを歌が未完成だから、と渋ったのはおまえだ」
吟遊詩人のシュヴェルトライテはぱちくりと瞳を瞬かせ、しばらく首を傾げていたが、やがて、あ、と声をあげてから両の手を打ち付けた。「なるほど、理解いたしました。旦那さまが仰っておられるのは、隻眼の王の話のことですね。旦那さまは隻眼の王の話というのを、オーディンのことだと思ったわけですね。隻眼とあの〈全能者〉を結び付けたわけですね。隻眼の王といえば、すなわちオーディン以外にいないと解釈したわけですね。いいえ、違います。それは違います。わたくしが申し上げた隻眼の王というのは、ゲイルロドのことです――兄のアグナルを殺して玉座に着いた、ゴート族のゲイルロド王のことです。フラウズング王の息子である彼は兄を殺したうえ、乞食に化けて城へとやってきた主神オーディンをぞんざいに扱ったたため、彼は罰せられたゲイルロド王のことです。かの神と同じように、その片目を貫かれたゲイルロド王のことなのです」
語る女の声音は、表情は、吐息は、まるで果物を口に含んだかのように甘く、視線は春の夢を見るように遠かった。
そうか、と頷きなが、男はまた己の左眼を撫でた。ゲイルロド王が貫かれたのは左の目をであることも、この吟遊詩人は知ることができたのだろうか、などと考えながら。
確かに吟遊詩人のシュヴェルトライテは隻眼の王の話を蒐集しているとは言ったが、それがオーディンであるとは言わなかった。だが普通、隻眼の王といえばオーディンであり、ゲイルロドではない。なぜなら、ゲイルロドが王であったときは隻眼ではなく、王の身分を剥奪されたときに隻眼となったからだ。主神オーディンの罰を受けて。だから己の勘違いもおかしくはないな、と男は独り言ちた。
「ええ、ご存知の通りゲイルロド王はオーディンに罰せられ、そのまま死んだと言われています。ええ、ですが実際は違うのです。ええ、彼は恐るべき主神と同じ隻眼になりながらも、生きながらえていたのです。片目を失い、玉座を追われたあとのゲイルロド王の行方を辿るのには苦労しました。数十年も経てば、人の噂など風化してしまうものですしね。ですが覚えている者は覚えているものであり、物は物として残っているものです――それらは強く強くわたくしの心を打ちました。ええ、もう少し、あと少しだけ話の種が得られれば、きっと良い物語が奏でられるでしょう」
「あんたはゲイルロドの何を知ったんだ?」
「ゲイルロドは高慢な人物でした」にっこりと微笑んで、吟遊詩人は語り始めた。歌うような語り口ではあったが、演奏はなかった。「ええ、それは多くの人々が知っている通りです。それは子どものときからそうでした。人に酷く当たり、怠惰で、とても心が貧しかったのです。ええ、ですがふたつ年上の兄のアグナルは違いました。彼は聡明であり、心優しかったのです。ゲイルロドが八歳のとき、十歳の兄のアグナルとともに、彼は舟で釣りに出かけたのですが、嵐に巻き込まれて遭難してしまいました。沖合まで流された舟は方向を見失い、砕かれ、最後には何処とも知れぬ岸辺に流れ着きました。そこでゲイルロドとアグナルは、貧しい百姓夫婦に拾われました。実際は、彼らはただの百姓ではなく、ゴート族の王子を助けるために現れた主神オーディンと、その妻フリッグだったのですが」
男は笑いを噛み殺した。オーディンとフリッグの百姓の演技は見ものだった。今になって思い返してみると、オーディンはまったくもって百姓にしか見えなかったが、フリッグには高貴な者の仕草が残っていた。もともとオーディンという神は何かに化けることを好んでいたので、百姓に化けたのも一度や二度ではないのだろう。妻のフリッグは、それに嫌々付き合わされたというわけだ。
「兄のアグナルはフリッグに、弟のゲイルロドはオーディンに、冬が明けるまでの間、育てられました。そして春の訪れとともに彼らは子どもたちに魔法をかけた手製の小舟を与え、ゴート族の土地へと送り返したそうです。ですが、アグナルは魔法の舟をもってしても、生まれた土地に無事には戻りませんでした。というのも、ゲイルロドが彼を海に突き落としたからです。こうしてただひとり北の国へと戻ったゲイルロドは、ゴート族の王となったのです。ですが兄を蹴落として王となったゲイルロドの横暴さは歳とともに増していき、最後には彼を一度は助けたオーディンの手により、片目を貫かれたというわけです」
まったく、よくもまぁ調べてあるものだ。ゲイルロドの話を蒐集するためにこの地を訪れたと言っただけはある。拍手をしてやりたいくらいだ。吟遊詩人の語ったゲイルロドの歴史はよくできていた。ああ、まるで見てきたように語ってくれた。彼女は世界で三番目にゲイルロドのことを知っている人物かもしれない。
「ゲイルロドの話なら、要らんな」と男は言った。
「先に申し上げましたように、この歌はまだ完成していないのです――ですから旦那さまからもしどんなにか乞われようとも、わたくしは未完成の歌を謡うつもりはありません。ですが、こうしてはどうでしょう?」とシュヴェルトライテは小首を傾げれば、長い銀髪が首筋を伝った。「旦那さまは先ほどの歌を、辛気臭くてかなわない、先が見えている、と申しました。それでは、先が解らず、辛気臭くならないように話の筋を変えてみるというのは?」
「あんた、そんなことができるのか? いや、あんた、未完成の歌は駄目だと言っていなかったか?」
「未完成の歌を謡うのと、筋を変えて謡うのでは違います。歌を謡うのが吟遊詩人でありますれば、その歌の筋を多少にでも変えるくらいのことは、できないはずがありません」
「ふむん、だが……」
男は己の顎を掻きながら、言い訳を探した。が、容易に見つかるものではない。
「まぁ、じゃあ、そうだな」と結局、男は折れた。「辛気臭い話は勘弁してくれよ」
「どのようになるかはわかりませんが、辛気臭くならぬようにと、死がないように、怨みがないように、そのようにさせて、さて、では続けさせていただきましょう。なぁに、すぐに終わりますれば、宙ぶらりんで終わられるよりも、旦那さまにとっても都合がよろしいでしょう?」
「ああ……まぁ、そうかな」
男は曖昧に頷いた。女の相手をするのが面倒だった。男は――ゲイルロドはまた己の左瞼を撫でた。
それでは、と吟遊詩人はゲイルロドの気持ちを理解しているのか理解していないのか、弦楽器を持ち直した。「それでは続けさせていただきます。剣と盾の歌を」
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