第10話 仲楯常賢、想い人に背を向けること
「お、仲楯くんだ」
高い声は下方から聞こえてきて、声の調子は明るく色づいていて、だから常賢はすぐに視線を下げることができた。
「退院してから、今日が登校初日だよね? 入院してると暇だなって思うけど、久しぶりに学校に出てくると面倒臭ぇなぁ、とか思わない? 夏休みの終わりみたいな」
喋ろうと思っていたことを先回りされてしまって、常賢はただ頷いた。茜は変わらない。いや、少し髪が伸びたか。入院中に見舞いに来てはくれたが、病室で見るのと昼間の陽の灯の下で見るのとではだいぶん違うように感じる。結んだ髪が犬の尾のように揺れている。
「もう帰る……わけじゃないよね?」
昼休みが始まったばかりの時間帯であるが、常賢は靴を履き替えて、松葉杖をついて校舎の外を歩いていた。しかし茜も同じようにスニーカー履きならば、目的は同じだろう。
「仲楯くん、ご飯買いに行くの?」
「入院してる間にパン屋が完成したと聞いたので」
と、ようやく常賢は発言することに成功した。声は上擦っていなかったし、変に早口にもなっていなかった、と少なくとも自分では思う。
ドラマだとか小説だと、よく学食というものが登場していて、A定食だのB定食だので悩んだりするものだが、県立長須高校には学食というものがない。あれは金がある私立高校特有なのかもしれない。中学時代、他の学校の見学などに特に行かなかった常賢は、これが普通なのかどうかは知らない。
少なくとも県立高校の長須高校では、過半数の生徒は弁当を持参するか、登校時に買ってくる。残りは、昼時に購買に出展される業者のところで買うのか、でなければ高校の裏門から道路をひとつ跨いだところにあるドラッグストアでカップラーメンでも調達してくるのが普通だ。いや、カップラーメンは匂いのきついものだと周囲の人間に嫌がられるので、あまり普通ではないか。もう少し足を伸ばして、老店主と若い男が働いている餃子屋に行く者もいる。ライスも(高校生には頼めないが)ビールもメニューにはない、純粋な餃子屋だ。それだけだ。
しかし今年度、つまり常賢が入学してからだが、高校の正門の向かいにパン屋が新たにできることになった。県内に幾つか店舗を持つ、小規模なチェーン店らしい、と入院前に聞いていた。あと数日で開店するだろう、とも。
昼休みとはいえ、始業から終業までの間で校外に出るのは禁止されているのだが、その校則を遵守している生徒などというのは殆どいないし、教師も特に咎めたりはしない。いや、登校中に学生が――つまりは常賢だが――轢かれるという事件があったため、一時期は過敏にもなっていたかもしれないが、少なくとも現在は外へ出る足にそこまで注意の目を光らせているというわけではないようだ。
ともかくとして、常賢は新装開店のパン屋に興味があった。パンが狂おしいほど好きだ、というわけではなく、単に新しい店舗に興味があったというだけである。開店直前になって轢かれてしまったので、行ってみたいという気持ちだけが残っていた。
「友だちと食べる予定だったりする?」
茜の問いかけに、常賢は考えるより先に首を振った。振ってから気付いたが、これは嘘だ。いや、まぁ、教室で待たせている友人らにはメールを打っておけばよかろう。
昼休みは始まったばかりなので、校庭には常賢らと同様に外出して昼餉を調達する者や戻る者がいるばかりで、校庭のトラックやサッカーコートとして使われるグラウンドで駆けている姿は殆ど見えなかった。陽光を避けもせずにサッカーゴールに背を預け、弁当を広げている学生がふたり見えるくらいだ。あとは誰も、走っていないし、跳んでもいない。風が葉を揺らす以外には動きの無い風景は、なぜだか心が落ち着いた。
「足、さ」
と茜が尋ねてきたので、常賢はびくりと震えた。松葉杖の常賢の速度に合わせている彼女はこちらを見ておらず、僅かに視線を下げて舗装されたアスファルトの道を見ていた。
「いつくらいに完治するの?」
「いや………」
『和敬信愛』という校訓が彫られた石碑を過ぎれば、既に開きっぱなしの校門が見える。
質問は、いや、だの、はい、だので解答する形式ではなく、だから一ヶ月前なら、「いやじゃないでしょ」と茜が茶化してきてもおかしくはなかったと思う。そうしてこなかったのは、こちらの異常を感じとってくれたからかもしれない。
茜と一緒にいれば、いずれこの質問が投げかけられるだろうということはわかっていた。彼女にとって、常賢は部活の中の同じ競技を行う唯一の後輩だったのだから。
だが、それがわかっていても、常賢は茜の隣を歩きたいと思ってここまで来てしまった。そして可能な限り引き延ばそうとした。
「数日馴らせば、松葉杖は要らなくなって普通に歩けるようになると思います。でも、部活には戻れないかもしれません」
常賢の返答がパン屋に着き、そして買い物をして戻ってくるだけの時間がかかっただけ、茜の応答が戻ってくるまでにも時間がかかる。常賢は明太子チーズパンとカレーパンが入っているパン屋の袋を揺らした。茜の視線は一度だけ下を、常賢の足を見て、すぐに戻した。
「それは――」
「左足があんまり感覚が無くって……足の怪我はそうでもないんですけど、身体打ったときに神経が変になったらしいです。あんまり、力が入らないんですよ。歩くのは大丈夫でも、走ったり、跳んだりとかは無理で……。具体的には何が原因なのかは医者もわからないということでした」
「じゃあ、原因はわからないけど治ることもあるかもしれないってこと?」
茜の問いかけに、常賢は答えることができなかった。
わからないのは足の神経が上手く働いていない理由だ。だがそうなった原因はわかる。トラックに轢かれたからだ。地面に叩きつけられ、身体を強く打ったからだ。
花瓶が床に落ちる。落ちたときに、粉々になったらそれで終わりだ。だが何処か一部が欠けただけかもしれないし、見た目には何処も壊れていないように見えるかもしれない。しかし実際には、水が零れるかもしれない。花が千切れるかもしれない。目に見えない、細かな罅割れが入ったかもしれない。何処かしらがおかしくなるものだ。
そして、一度壊れたものはそう簡単には元には戻らない。
いつか、治るかもしれないという希望を持つことはできる。実際、治るかもしれない。いつか。だがその希望だけを胸に抱いて、茜の姿を追うだけの日々は辛すぎる。
「部活は止めます」
初夏の陽光のせいだろう。汗が茜の首筋に流れて襟元へと落ちていく。汗で蒸れた薄いブラウスは僅かに透けて、下着の色が浮いている。茜は止めなかった。頷いた。後ろで馬の尾のように纏めた髪が揺れた。
彼女は言った。
「治ったときに……戻ってきてくれると嬉しいな」
ふたりで黙ってパン屋からの帰り道を歩きながら、常賢は考えた。好きですと、この場で言ったならどうなるだろうか、と。
おそらくは曖昧に笑って「こういう状況で言われても困るよ」だとか、そんなふうに答えるのだろう。彼女は正直な人だ。裏表のない彼女が、小柄なのに良く動く彼女が、瑣末なことで笑う彼女が、正直な彼女が好きだった。
「すいません。昼飯は、友人と食います。じゃあ……また」
校訓の書かれた石碑にまで来たところで、常賢は茜と別れた。戻る道は同じはずだったが、茜は追って来なかった。和敬信愛。
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