第11話 小町恋歌、失うことを恐れること

(治らない………)

 いや、治らないとは言っていない。ただ、常賢には左足の感覚が半ば戻っていないのだと、その原因が不明なのだと、そしてそのせいで走ったり、跳んだりといった、いままで当たり前のようにできていた運動ができなくなったということ。そして確実に治らないとはいえなくても……きっと治らないだろうということ。

「いや、治らないということはありません。原因は不明ですが……治る可能性はあります。だから、諦めないでください」

 医者はどうやら、恋歌のことを常賢の単なる友人ではなく、身内――あるいは恋人であると思って話をしたようだ。毎日病院に来ていたからだろう。恋歌にとって病院に来ていたのは常賢の見舞いではなく、弟を見舞うためであったのだが、不安そうな顔で毎日のように来院していれば、それは勘ぐるに堪えるものとなったのだろう。

 そう、病院に見舞いに来るのは常賢とは関係なしにこの五年間でほとんど毎日行ってきたことだった。


 来月のアルバイトのシフト希望調査表を月末までに出す予定だったのだが、昨日出す予定だったそれを、持ってきていながら提出するのを忘れてしまっていた。アルバイト先の喫茶店に顔を出してシフト希望だけ提出してから、恋歌はすぐさま病院へと向かったのだ。

 昨日はアルバイトの日で、終わる頃には見舞い時間をとうに過ぎてしまうから、病院には下校してからバイト先に行く途中の僅かな時間寄っただけだった。時間に余裕があれば毎日見舞いに行っているのは、もちろん常賢のところではなく、弟の病室だ。早く弟に会いたいと、そう思いながらエレベータで上階まで上がったときに、医者に出会った。常賢の担当医だ。彼は目敏く恋歌を見つけた。だがその時点で、恋歌は頭だけ下げていれば良かった。エレベータから一足で出て、足早に弟の待つ病室に逃げてしまえば良かった。


 そうしなかったのは、常賢の様子が不安だったからだ。彼が本当に事故当時の記憶を失っているのか。彼はいったいどういう状態なのか。だから質問したのは心に関してだったが、返答は身体のものだったのだ。

 恋歌は廊下の長椅子に倒れこむように腰掛けた。頭が痛くて重くて、足がふらついて重くて、何より腕が重かった。三角錐状の鉛色の錘をいくつもいくつもぶら下げているようだった。幾つも、幾つも。常賢を道路に突き飛ばした腕に。この腕が常賢を道路に倒れこませ、そうしてトラックに轢かれさせたのだ。

 事故から一ヶ月を経て、怪我は目に見えて良くなった。いまは松葉杖を突いてはいるけれど、それもすぐに取れるだろうと。そうなったら、何もかも元通りなのだと、そうやって信じていた。事故の直後、倒れこむ常賢の血塗れの姿を見ていたというのに。折れ曲がった足を見ていたというのに。何本も、何本も、まるで骨から生えているかのように突き出た治療用のボルトを見ていたというのに。信じ込もうとした。自分の罪が大したことはないのだと、いずれ風化するものなのだと。


 常賢は陸上部だ。陸上部だった、か。中学の頃は短距離をやっていたはずだが、高校になってから棒高跳びを始めた。理由は知らないが、跳んでいる姿はアルバイトまで図書館で時間を潰しているときに見たことがある。跳んでいた。当たり前だ。そういう競技だ。だが片足でも使えなければ、その競技で当たり前のことは、きっと困難になる。まともに、跳べまい。

「ご………」

 握り締めた手を額に当てて、恋歌が呟こうとしたのは謝罪の言葉だった。

 思い返してみれば、初めて口に出そうとした謝罪の言葉だ。だがその言葉は、面と向かって口にできないどころか、独り言ちることさえもできずに空に消えた。

 情けなかったのは、謝ろうという気持ちが初めて芽生えたことだった。いままで、ずっと罪を隠匿することばかり考えてきた。どうにかして、彼を消し去り、自分の仕出かしたことを無かったことにしたいと、そう思っていた。だから罪から逃れるのに夢中で、謝罪の言葉を口にしたりはしなかったのだ。

「常賢………」

 ごめんなさいと、そう言いたい。だが口にできない。この期に及んでもなお、何もかも無かったことにしたいと、自分の仕出かした罪を消し去りたいと、そんな想いは変わらなかった――それなのに、それなのに、謝罪の言葉さえ口にできない。償えない。己の不義を。罪を。


 のろのろと立ち上がる。常賢が本当に記憶を失っているのなら、己の状態をどう考えているのだろう。事故に対するやるせない想いを、何処へと向けているのだろう。そう考えれば考えるだけ怖かったが、ひとまず足だけは動くようになっていた。とにかく病院に来た本来の目的を果たさなければと、弟の病室へと向かった。

「こうちゃん――」

 遅くなってごめんねと、いつもの病室を開けるとともにそんなふうに弟に声をかけようとした恋歌は、息が止まりかけた。幸喜の病室は五階の個室で、窓からは病院建物の前庭や駐車場が見下ろせる一人部屋だ。南向きで初夏の陽は高く、十七時近かったが部屋の中はレースのカーテン越しにもまだ明るかった。陽光が照らしていたのは旧式の携帯電話をそのまま大きくして立てたような形の透析機械で、そこから伸びるチューブがベッドの上の幸喜の腕に刺さっているはずだ。


 そして入口の恋歌から幸喜を隠すように……ベッドの傍らに置いた丸椅子に常賢が座っていた。


 なぜ、どうして。そう問いたかったが、言葉は喉のところまで来て詰まってしまった。

 固まってしまった恋歌に対し、常賢は――常賢は恋歌を一瞥してから目を逸らした。見てはいけない汚いものを見るかのように。

(常賢は――)

 確信する。常賢は、覚えている。事故当時の記憶を。恋歌が常賢を突き飛ばしたということを。そうだ、記憶喪失になんてなるわけがない。覚えているのだ。

(じゃあ、なぜ………)

 なぜ恋歌が彼を突き飛ばしたことを黙っているのか。その理由。その理由がわからない。だがもし想像することができる範囲内で挙げるならば、それは……足りないから、ではないか。恋歌だけでは、彼の足の代償にならないからでは。

「こうちゃ――」


「おねえちゃん、おかえり」

 高い声とともに上体を傾けて、幸喜が常賢の身体の横から顔を覗かせた。無事だ。殴られてもいないし、透析チューブを腕から引き抜かれてもいない。機械も正常に動いている。

 恋歌は安堵の息を吐いてから、「……ただいま」と手を挙げた。病室に見舞いに来たときに、おかえり、ただいま、というやりとりはここ五年の慣習だ。幸喜にとっては、恋歌が住んでいる祖母の家よりも、この病室にいる時間のほうが長いのだから、自宅のように感じるのは当然だろう。

 そしてその自宅に、異物が存在している。少しでも気持ちが明るくなるようにと採光を重視して作られているという病室なのに、部屋の中が土塊から湧き出てくる汚水のように暗く淀んでいるように感じる。なのに、幸喜はといえばいつもの……いや、いつもより明るい笑顔を見せていた。

「常賢、あの――」

 常賢にこの場にいる理由を問い質そうとした恋歌だったが、彼が壁に立てかけていた松葉杖を取って立ち上がったので言葉が止まってしまった。

「こうちゃん。おれはそろそろ検査なんで行くよ」

 と常賢が言うと、「せっかくおねえちゃんも帰ってきたのに」と幸喜は唇を尖らせた。

「ごめんね。また来るから……。じゃあ」

 常賢は病室を去っていった。最後の、じゃあ、のときにこちらを一瞥したが、恋歌は一歩避けるだけで何も答えられなかった。閉じられたドア越しに聞こえる常賢の去っていく足音は、力強い右足の踏み込みと硬質の松葉杖と、力の入っていない軽い左足との三つで不規則に感じられた。


「こうちゃん……常賢は?」

 足音が聞こえなくなってから、ようやく恋歌は弟に尋ねることができた。

「ちょっと前から……、リハビリとか検査のときとかお見舞いに来てくれるの。お見舞いっていうか、おにいちゃんも病院に用事があるからだけど」

「どうして……常賢が?」

「ずっとお見舞いに行けなくてごめんね、って言ってた」

 あどけない表情で幸喜が答えたのは、常賢が訪れた理由ではなく、常賢がこれまで見舞いに来なかったことに対する理由だった。恋歌が常賢と友人だった頃――つまり小学生の頃は、恋歌たちが六年生でも幸喜はまだ小学一年生だった。常賢のことは認識していただろうし、顔は忘れていたかもしれないが、姉に男の子の友人がいたということは覚えているのだろう。

「どうしていままで教えてくれなかったの?」

「恥ずかしいから、ばれるまではおねえちゃんには秘密にしておいてねって言われたの」

 恋歌は目の前が真っ暗になるのを感じた。立ち眩みとともに足から力が抜け、床に尻餅をつきそうになったが、ちょうど椅子があったので腰掛けてしまった。常賢が置いていった椅子だった。

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