第9話 小町恋歌、幼馴染の少年に相対すること
友人が少ないのは幸いだった。なにせ気分が沈んで落ち込んでいても、誰にも遠慮することはないのだ、堂々とひとりでいられる。
クラスの中でも、何も変わらない。朝、登校して、授業を受けて、休み時間には本を読んで、昼休みには自分で作ってきた弁当を食べたあとは、図書室で本を読んで、午後の授業を受けて、放課後になったらアルバイトの時間までは、やはりまた本を読んで過ごして、それで終わりだ。時折、声をかけられることもあって、それはたとえば、参考書を忘れた隣の机の人間だとか、授業で提出予定のプリントがまだ集まりきっていないために声をかけている担当者だとか、でなければ恋歌のことを好いていると一方的に告げてくる男か――たまに女かで、彼ら彼女らは友人ではなかった。
弟に病院で話をしてやる学校生活とは、少し違う。いや、少し、どころではない。まったく違った。
「小町さん」
本の中の文字をただただ追っていた恋歌は、声に対して一瞬震えたあとで振り向いた。
(み……)
声をかけてきた男は常賢より背の高い男だった。常賢より髪が短くて、常見より声が低く、常賢より逞しい。
(み………み、なんとか)
名前が出てこなくて、恋歌はすぐには受け答えができなかった。常賢と同じ陸上部で、部活動のときに一緒に校庭を走っているのを見かける。でなくても、同じクラスの男子だ。名前くらい、聞いたことがあるのだが、しかし思い出せない。普段交流が無いのだから、当然だ。
「常賢が来たって。えっと、小町さん、ずっと心配してるみたいだったから」
じゃあ、と去っていってから、彼の名前を思い出した。三神だ。
思い出した頃には、既に三神の姿は教室の外へと向かっていた。「ありがとう」と呟いてみたが、声が届くはずがなかった。いや、声が届かないことを確信してから言ったのだ。謝ったり、礼を言うのは、苦手だ。
そもそもからして、ありがたくはない。常賢のことは心配していて、しかし彼の身体を気遣っていたわけではないのだから、登校してくる姿を無事に見ても、嬉しいとは思わない。むしろ、苦しい。いや、怖い。
廊下のほうが賑やかになったのは、常賢がやって来たからだろう。恋歌は視線を窓の外から一瞬、一瞬だけ教室の入口を見てしまった。常賢がいた。友人たちと、久しぶりの会話をしていた。松葉杖をついていたが少なくともギプスだとか包帯だとか、大仰なものはズボンの上からは見えなかった。何より、友人と会話を交わす彼の顔は笑顔だった。
(一ヶ月、か………)
事故が起きてから、恋歌にとっては長いようで短い時間だったが、常賢にとってのその期間は間違いなく長かっただろう。トラックに轢かれて、あれだけぶっ飛んで、ガラス瓶みたいに割れて、頭から血を流して、ビニール袋みたいにぐしゃぐしゃになって――なのに一ヶ月で退院して学校に行けるようになるというのは、若さゆえの治癒の早さというのもあろうが、よりわかりやすい理由としては、存外に怪我がそれだけ軽かったのだろう。詳細については知らないが、少なくとも見た目よりは怪我は軽かった、と聞いている。
だが怪我の軽い重いと、恋歌が彼にしたことの間に相関は無い。いや、あったとしても、恋歌のしたことは、罪は罪だ。本来ならば、こんなふうに安穏と学校には通えていないのだ。人を道路に押し出して、事故を引き起こした。殺人未遂か。いや、過失致死未遂かもしれない。なんにしても、罪に問われるだろう。でなくても、非難されるには十分だ。
今のところ、そうはなっていない。事故以来、恋歌の生活は何も変わっていない。気分がそれ以前より重くなっただけだ。
そうならなかったのは――。
「おい、小町さんに挨拶しとけよ。随分心配してたみたいだぞ」
三神の声が聞こえた。声に誘導されて、教室に入ってきた常賢の視線が、窓際の隅の恋歌を射抜いた。頷いた。それだけだった。
恋歌と常賢が小学校から同じ学び舎で、いわゆる幼馴染であるということは、おそらくは常賢の友人周りには知られている。だがその関係性はあくまで高校の中で常賢が最もよく恋歌と会話をするという結果以上のものは無く、その頻度の高さにしても一日一度でも会話があれば良いほうだ。だから、それ以上に周囲からの言葉も無く、常賢も接触しては来なかった。また静かな空間に戻った恋歌は文庫本に視線を落としたが、文字列を追うことすらできないほどに心が動揺していた。
(常賢は本当に―――)
左手を文庫本から離し、右手首を掻いた。汗で濡れていた。恋歌の中の恐怖が凝縮されて流れ出たものだったのだが、湧いても湧いても恐怖は引かなかった。
常賢は本当に、忘れているのだろうか?
彼が目を覚ますまでの一週間は、目覚めるかどうかということを恐れていた。だが彼が目を覚ましてからの三週間は、別のことを恐れるようになった。常賢の衝撃的な発言のせいで。
「忘れた」
事故当時の状況を質問されたとき、常賢は言ったのだという。事故が起きたときのことは、忘れてしまったのだ、と。何も覚えていないのだ、と。だから、なぜ自分が道路に飛び出したのかはわからない、と。診断をした医師曰く、脳には異常は無いはずだが、事故のショックで記憶が断片的に欠損してしまったのかもしれない、ということだった。
ここまでは人づてに聞いた話だ――常賢の母親から。彼女は泣いていたが、息子の生還を心の底から喜んでいた。彼が道路に飛び出して、結果的に事故に遭ったことに関しては悲哀と怒りを感じていたようだったが、それ以上に彼の覚醒を喜んでいて、だから恋歌はそれ以上傍には居られなかった。
検査後、退院日を知ってからの三週間の間、恋歌は気が気では無かった。常賢は、目覚めてしまった。恋歌が殺す前に。それは良かった。だが、今度はいつ彼が記憶を取り戻すか、ということを恐れなければならなくなってしまったのだ。いつ目を覚ますか、からいつ記憶を取り戻すか、になっただけだ。
記憶を取り戻す前に殺す。
その選択肢は依然として存在していた。が、以前よりも消極的ではあった。理由は簡単で、寝たままの人間よりも起きて活動するようになった人間のほうが殺しにくいからだが、それ以上に、記憶が戻らないかもしれないという期待もあった。いや、希望だろうか。
常賢自身、忘れてしまったと言っているが、そもそも記憶をしていない可能性もあるのだ。恋歌からすれば突き飛ばしたことは明らかだったが、彼からすれば、急に押されて轢かれたのだから、事故以前の因果関係が把握できていない可能性もある。それならば、冷静に状況を振り返らない限りは、事故当時のことなど証言できないだろう。警察というのは病院に入るためにはいろいろと手続きがいるらしく、事故当時の話を聞くのも一苦労だったようだが、聴取の話を聞くたびに恋歌は祈った。そしてまるで祈りが天に通じたかのように、何事も起きなかった。
予鈴が鳴り響く。常賢へと視線を向ければ、彼は会話を切り上げて己の席へと歩いていくところだった。松葉杖をついているのは一ヶ月近く寝ていたので虚弱になっているからだろうか、それとも見た目は大丈夫そうでも、中の骨は完全に治癒していないのか。病室での治療具合からみると後者だろうが、尋ねてみる気にはならない。常賢と会話をすることが怖かった。単に、恋歌と会話をすることで記憶を思い出すかもしれない、という理由からだけではない。恋歌にはひとつの疑念があったのだ。
それは、常賢は嘘を吐いているのかもしれない、ということだった。事故当時の記憶について、だ。
そう思うことに根拠はなく、どころか彼に事故の記憶があるなら恋歌を糾弾することを躊躇する理由などないはずなのだ。ただ、常賢の表情はときおり色を無くす。暗く淀んだ瞳は、何を考えているのかわからない。彼が思い巡らせているのは、高校一年生という青春の一期間を事故によって失われたことに対する無念だけだろうか。それだけで、ああも鉄のような表情になれるのだろうか。冷たく、硬くなれるのだろうか。侵されがたくなるものだろうか。
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