第8話 小町恋歌、弟を見舞うこと
初夏であれば、散り行く桜の花弁も、落ちれば樹を丸裸にさせる枯れ草色の葉も見えない。青々と茂るばかりの木々からは生命の力を感じる。窓から見えるこの視界には、死はない。生命力だけが溢れている。いつもはありがたいはずのこの風景の中で、必死に死に至るものを探そうとしてしまう。死を。死を誘発するものを。死ねと、そう思うがままに。
「れんちゃん、れんちゃん」
自分のものよりも高い、変声期前の声が鼓膜を叩く。小町恋歌は窓の外のからベッドから半身を起こす少年へと視線を向けた。
「こうちゃん、どうしたの?」
「どうしたのって、ぼうっとしてるから、どうしたのかなって思ったの」
弟、
幸喜は幼い頃に交通事故で臓器を損傷したため、病院から離れられず、学校に行けない身体だ。それなのに人懐こく、優しく、賢く――そして可愛らしい自慢の弟だ。
いつもはそんな弟を前にすれば、学校での出来事やアルバイト中での話を有ること無いこと混ぜこぜにして――いや、最近はほとんど作り話になっているのだが、とにかく話をしてやるのが常だったのだが、今日ばかりは話題を考えようとしても何も思いつかず、ただ心配されることしかできなかった。いや、昨日も、だ。
考えるのは、常賢のことばかりだ。
事故が起きたのが昨日の朝。事故の当事者である運転手が救急に通報すれば、十分とかからずに救急車が駆けつけてきて、常賢の身体を運んだ。その後に消防からの連絡を受けたのか、あるいは他の通報者がいたのか、サイレンを鳴らしながら遅れてやってきたパトカーによって最寄の交番まで連れて行かれたのは、単に身近で人の目を集めない場所がほかになかったからだろう。あるいは目の前で友人が事故に遭う瞬間を見てしまった恋歌のことを気遣ったのか。
「はい、すいません。本当にお待たせしました。では確認していただきたいんですけれど、これを読んでもらえますか?」
交番の窓際の黒いソファにひとりぽつねんと座って待っていた恋歌に声をかけてきたのは、事件現場からこの交番に至るまでの間、事故当時の話を聞いて来た刑事だった。事情聴取というやつだろう。刑事は坊主頭に作業着姿と、テレビドラマや小説で見る姿とはまったくかけ離れた様相ではあったが、事故当時の状況を何度も何度も聞いてきたのはお話のままだった。
『私、小町恋歌は朝の登校の途中で車のブレーキ音を聞き、何か事故があったのではないかと思い、ブレーキ音がしたほうへ急いで駆けていきました。すると道に止まっているトラックと、その近くで倒れている人の姿が見えました』
恋歌はソファに座ったままで刑事が差し出してきた紙を受け取った。それまで十五分ほどかけて長テーブルに向かい、他の刑事たちと相談しながら書き続けていたもので、いったいなんだろうと思ったら、事故のあらましを丁寧な文体で書いたものだった。といっても、刑事が見た客観的情報の塊というわけではなく、恋歌から見た事件を代筆したという形になるのだろうか。
『事故があったのだろうと思い、近寄ってみると、倒れていた人は上着が頭にかかっていて顔は見えませんでしたが、血を出ていて意識が無いようでした。トラックの運転手の方が救急車を呼んでいる間、倒れている人の怪我の具合を確認するために上着を除けてみて、彼が友人の仲楯常賢くんであることに気付きました。ですが血がたくさん出ていたため、怖くてそれ以上の手当てはできませんでした』
この調書の中では、恋歌は事故の目撃者となっている。正確には、目撃したわけではなく、車のブレーキ音を耳にして駆けつけた事故当時者を除いた最初の発見者だが。
だから、これは恋歌にとっての賭けだった。常賢と一緒に登校している間、時刻が半端だったこともあって周囲に人はおらず、事故が起きたのは見通しの悪いカーブの先で、だから事故の運転手も事故当時、常賢のそばに恋歌がいたことも気づかなかったかもしれないと思っていた。
その予想は当たっているに違いないのだ。でなければ、事故から三時間以上経ってもなお、こんな悠長に恋歌の話を聞いているはずがないのだ。事故を引き起こした容疑者として、もっと厳しく取調べを受けさせられているはずなのだ。常賢が事故に遭った場所は、見通しの悪いカーブの先であり、だから何も知らない者が見れば登校中の常賢が車が来ていないタイミングを見計らって車道を渡ろうとして、やって来たトラックに轢かれたと思うのが自然だろう――自然のはずだ。そうじゃないか?
大きな問題はひとつある。それは、常賢が意識を取り戻したらこの虚偽は通用しないということだ。
『なぜ仲楯くんが事故に遭ったのかはわかりませんが、友人として、彼の無事と一刻も早い快復を祈っています。小町恋歌』
そのためには、常賢が死ななければいけない。恋歌は調書を刑事に返して、どこにも問題はないことを伝えた。
意識を取り戻さないだけでもいい。いや、意識を取り戻さずに昏睡状態を続けていても、いつかは目覚めるかもしれない。そうなったら、事故当時のことを語り出すだろう。恋歌に突き飛ばされたのだと。事故ではなく、犯人がいる事件なのだと。常賢が偽りの言葉を吐く理由は無いのだから、彼が真実を告げればそれは信じられるに決まっている。
だから、だ。だから、常賢は死ななくてはならない。死んで欲しい。生き返らないで欲しい。これがどんなにか卑劣な考え方だとしても、恋歌は――恋歌は唯一ともいえる友人の死を願った。
事故から一日と半ばが経っていた。手術は既に終わったらしいが、その後の経過がどうなのかは鼓膜に響いても頭には伝わらず、だからどうなっているのかはわからない。病院に駆けつけてきた常賢の親が泣いていて、その涙は安堵のものというよりは、絶望と悲痛に苛まれた結果に見えたので、あまり芳しくない状態なのかもしれない。事故直後、通報した救急の隊員に促され、彼の怪我の状態を確認したのを覚えている。血がたくさん出ていた。たくさん。確認できたのはそれだけだ。それ以上は、見ていられなかった。ただ、恐ろしかった。ただ、意識が無かった。呼びかけても、何も言わなかった。だから、たぶん、駄目だ。良かった。
「おねえちゃん、お腹痛いの?」
言葉が途切れた姉に対し、幸喜はまた心配そうに問いかけてきた。その優しさに、彼の骨ばった手の甲を撫でて返してやる。「ううん、違うの……。さっきから、ごめんね。おねえちゃんの友だちのことを考えてたの」
「うん……昨日話してくれた、事故に遭ったっていうひとのことだよね。心配だよね。早く良くなるといいね」
幸喜は優しい。違う。いや、幸喜が優しいのは本当で、しかし彼が優しいからそんな反応を返すわけではない。これが当たり前の反応なのだ。友人が事故にあったのだ。それ以外のどんな反応があるだろう?
(お願い………)
誰も彼もが常賢の無事を祈るだろう。彼が意識を取り戻し、無事に二本の足で立つようになることを祈るだろう。
恋歌だけが違う。
(お願い……常賢、死んでいて………)
死んでくれと、そう祈るのだ。
「ばいばい、また明日ね」
いつもより少しだけ早く見舞いを切り上げて、病室の戸口で幸喜に手を振ってやると、幸喜も振り返してきた。事故にあって入院を余儀なくされて以来、弟の笑顔は減るよりもむしろ増えた。まるで辛い思いを笑顔で打ち払おうとしているようだと思う。幸喜は十に満たない年齢でさまざまなものを失った。これ以上、何も失わせたくないし、彼自身もそう思っているに違いないのだ。
病院の廊下を渡り、照明の暗い階段でひとつ下の階に下りる。目的の部屋はすぐに見付かった。ノックをしたが、返事が無かったのでそのまま部屋に入った。心臓の鼓動と同期しているのであろう、定期的な電子音がベッドに固定された小さなモニタの波形とともに寝ている人物の生を主張していた。彼は瞼を閉じたままであったが、病室の電灯は点いたままだった。
事故当時の悲惨な状態から想像していたよりも、ずっと健康そうに見えた。少なくとも目に見える外傷治療痕は頭に巻かれた包帯と足の固定器具、それに左手の指に包帯が巻かれているくらいで、頭の皮が丸ごと剥げていたり、腕や脚が欠損していたり、赤黒い血と黄色い膿が噴出していたりということはなかった。
左足の固定器具は、縫った痕跡のある足から突き出るように生えているボルトと繋がっているので、さながらパーツを分離する前のプラモデルだ。呼吸が浅く、身動きしないので、生きていないように、作り物のよう。生きていないのなら、殺せるように感じられる。いや、生きていないなら、殺す必要すらない。ただ、少し……少し手を加えるだけ。
だが、いったいどうすれば善いのだろう。
たとえば呼吸器を外せば、死ぬだろうか。いや、肺や心臓まで傷付いていればもっと厳重な治療の形跡や大掛かりな機械設備があるはずだから、生命維持が困難な状態ではないはずだ。身体から伸びるチューブをひとつふたつ引っこ抜いたり、機械のコンセントを止めたくらいでは、死には至らない。もっと、根本的に破壊しなければ駄目だ。心臓を止めなければ。いや、ここは病院だ。生半可な破壊ではすぐに蘇生されてしまう。頭を、脳を潰さなくては安心できない。
恋歌は拳を握った。
この拳を叩きつけたところで、人間の身体をどれだけ破壊することができるだろうか。女の細腕だ。常ならば全力で人を殴ったところで、痛いと悲鳴をあげさせるのがせいぜいだ。しかし殴るときは自分の手が傷まぬようにと気を遣っているところがあるそうなので、そのあたりを気にせずに指が折れる気で殴れば、恋歌の手が砕ける代わりに、皮膚を裂き、肉を割って、骨を変形させることくらいならできるかもしれない。だがそれが限界だろう。何度も何度も叩きつけなければならないし、そうしたら時間がかかる。患者の容態が急変したことを察知した看護師が駆けつけてくるかもしれない。医療器具に異常が生じても、たぶん仕事熱心な看護師ならば、きちんと見回りに来るだろう。手で駄目なら、道具を使ってはどうだろうか。たとえば身近にあるのは見舞い人が座るために容易されている背凭れの無いパイプ椅子だ。重量は恋歌でも片手でなんとか持ち上げられる程度だが、腰掛けられるだけの脚の長さがある。脚の一本を持って腰掛部を叩きつければ、先端の速度は相応になるから、一撃で頭を潰せるかもしれない。そうしたら飛び散った血や脳漿が白いシーツや壁を汚すだろう。椅子の座部は濃い青なので、血が黒ずんでしまえばこちらは目立たないかもしれない。
いや、駄目だ。結局は意味が無い妄想なのだ。自分の気を落ち着けるためだけの現実逃避だ。ここでどうにかして常賢を殺したとて、それが誰にも気取られない方法でなければ、この場にいる恋歌が犯人であることは明白なのだ。それでは意味が無い。何も、できない。
「お願い、常賢……このまま寝ていて………」
だから恋歌はそう呟いた。同時に常賢が瞼を開いた。
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