第2話 仲楯常賢、走りながら幼馴染について語り合うこと

 仲楯常賢と小町恋歌の関係は以前からこうだったわけではない。というより、小町恋歌という女も、幼い頃はこうではなかった。幼稚園からの幼馴染であった常賢は、恋歌とよく遊んだ記憶がある。長い髪を揺らして駆け回る、活発な少女だった。が、それは小学生までだ。徐々に疎遠になった。常賢と恋歌の間柄が、というよりは、恋歌の周辺の人間への態度が変わってしまったのかもしれない。高校に入ってからも、それは変わっていない。いや、それ以前の彼女を知る者が常賢のみになったため、人と交わらない性質はより顕著になった。

「小町さんって、綺麗だし物静かだから、なんとなく話しかけづらいんだよね」

 同級生のそんな評を聞いたことがある。

 物静かというよりも内向的だ、と幼い頃の彼女を知り、いまは蹴られたりど突かれたりすることが多々ある常賢は思う。他人には可能な限り接触しないようにしているから、結果的に孤高に見えるのだろう。実際は孤高ではなく孤独だ。


「常賢よぉ」

 息を荒くしながら、隣から声がかかる。婉曲的に言うと太っている女性が好きな三神である。昭和の戦後期を書いた小説を読むと、美しい女性の表現として「よく太った」だとかいう表現があるが、あれは戦後の食糧難の時代だったので「太った」の定義が違ったのか、それとも東洋と西洋で美的感覚が違うように単純に肉が乗っている女性が好ましかったのか、どちらなのだろうか。もし後者だとすれば、三神は古き価値観を愛する男だということができるのかもしれない。

「おい、常賢よぉ」

「もうちょっと集中して走れよ」

「おまえさぁ、小町さんと付き合ってんの?」

 ランニング中にも関わらず、三神はめげずに言葉を紡ぐ。さすが長距離走者なだけ走るのは慣れているな、とでも感心すれば善いのだろうか。常賢はというと、同じ陸上でも長距離を走るのは専門ではなく、短距離が専門で、しかも高校に入ってからは棒高跳びをするようになった。

「それは何回か訊かれたことがあるけど、なんでそう思う?」

 土曜の午後である。長須高校のグラウンドの中央ではサッカー部が部内でゲーム形式の練習試合をしているらしい。ランニングはその外周を大回りで走っているので、単調な走り込みの最中でも、足元にある発電用のランニングマシーンで大型テレビを動かしてサッカーの試合を観戦しているというような想像をしてみると、なかなかに愉快だ。

「だってそりゃ、小町さんが仲が良いのっておまえだけだろ? 小町さん、ほかの男とはほとんど話さないじゃん」

「女子とも話してない」

「そうだろそうだろ? だからよぉ、おまえだけなんかあるのかなって」

「中学が同じってだけ」

「それにしては仲が良過ぎるじゃないか」

 サイドから打ち上げたボールを、プレイヤーのひとりが捉えた。バク宙の要領で背面方向に回転し、頂上でボールを蹴った。オーバーヘッドキックだ。危ないし、当たった球はそもそも検討違いの方向に飛んで行った。笛が鳴る。反則らしい。いや、警告か。密集したゴールエリア、スパイクを履いた足でバク宙のするのだから、危険なことは間違いない。

「常賢よぉ。さっき部活の始まる前に校舎の中で小町さんと会ってたのはなんだったんだよ?」

「昨日教室に辞書忘れてたから、忘れないうちに取りに行ってただけ。小町とはたまたま会って手伝わされただけ」

「だけ、だけ、ってな……。小町さんって入学して一ヶ月しか経ってないってのに、もう何人にも告白されてるって本当?」

「本当か知らんけど、中学でもそんなかんじではあった」

「おれもその砕け散った星々のひとつになるのかな?」

「当たって砕ければなると思う」

「小町さん、ゴリラ好きかなぁ……ゴリラ好きなら、わりといけると思わないか?」

 三神は自称ゴリラである。ゴリラというほど顔が類人猿に近いというわけではないが、十代半ばには見えないほど筋骨隆々としていることからのキャラ付けなのだろう。ときたま昼食にバナナを携えてくることさえあり、キャラ付けに余念が無い。どちらかというと自虐的な方向性なのではなかろうかと思うが、本人が嬉々としてやっているふうがあるので、入学後、同クラス同部活の友人になってからというもの、特に追求はしていない。

「ゴリラは特に好きでは無いと思う」

「じゃあ何が好きなんだ」

「猫とかは好きだった」

「そうか……じゃあ明日から猫になろうかにゃあ」

「仲楯くん、三神くん、ずっと一緒にランニングしてたいほど仲良いの?」


 好きで走っているわけでは無いのだが、投げかけられた女の声に常賢は反抗はしなかった。突如として付与された三神の語尾に対する適当なコメントが思いつかず、友情を破棄すべきかどうかの選択に迫られていたところだったからだが、でなくても彼女の声を無視する理由は常賢にはない。

「先輩、ウォームアップはもういいですかにゃあ」

「うん、もうすぐ大会が近いから、長距離の人はそろそろ調子整えていく方向で頑張ってね。仲楯くんも、今日はちょっとチャレンジしていこうか。準備手伝って」

 陸上部の二年生、つまり常賢らにとっては先輩にあたるあかねがジャージの上着のポケットに両の手を突っ込んだまま、首だけ動かして武道場脇の用具倉庫まで常賢を誘導する。誘われるままに、三神と別れて彼女とともに用具倉庫を開けた。


「さっきの三神くん、なんか謎の語尾付けてなかった?」

 マットを運び、ポールを立てている間、そんなふうに茜が話題を振ってくる。

「どういう語尾ですか?」

「にゃあってかんじの?」

 茜が首を傾げると、後ろで結わえた髪が小さく揺れた。可愛らしかった。間抜けな語尾をつけようとした三神に心の中で感謝しながら、常賢は可能な限り言葉を尽くして、彼が「にゃあ」という語尾をつけるに至った事態を説明しなければならなかった。

「三神くんって凄いよね。なんか昔、心に傷を負うようなことがあった結果、喜怒哀楽のうちの喜と楽以外を失ったとか、そういう過去があるのかなって思う」

 言葉を紡ぎながら、茜はジャージのファスナーに指をかけた。細く白い指が胸元から股まで下ろせば、丈の短い体操着を纏った肢体が現れる。ジャージを計測用のボードが置かれたパイプ椅子にかければ、それで準備完了ということらしい。両の手で握るのは、茜の上背でなくとも日常生活に使うにはあまりにも長過ぎる棒。茜の身の丈の二倍よりも長いその差し渡し、およそ四メートル。

 走りながら勢いをつけ、その勢いをそのままに棒を地面に突き刺す。茜の小さな身体が宙を舞う。棒がしなり、その反発は茜の身体を射出する。弓なりに反らされたその身体は、マットの上に設置された高さ二・四メートルのところに横たわる棒に勢いよく衝突、落下した。

「今日は調子が悪いな」

 マットの上に落ちた茜はむくりと起き上がり、己に言い聞かせるように呟く。


 交代。同じく二・四メートルの高さに設置されなおされたバーを、常賢は難なく飛び越えた。

「ううむ、やっぱ男の子は跳ぶなぁ。体格が違うものなぁ」

 ぶつぶつ言いながら、バーの高さを修正する茜の姿を見下ろす。常賢が使った棒は茜よりも少し長いもので、もちろん長いほうが高い位置の棒は超えやすい。が、身の丈や体重が棒の長さに負けてしまうと上手く跳べないどころか、バーを越えようとしたはずなのに戻ってきてしまうことさえありえる。もちろん大きすぎ、重すぎても良くはないが、茜の場合は体格は同性のそれと比較しても明らかに小さい。だから競技の点では常賢よりも不利で、彼女にもその自覚があるらしい。日焼け止めをしっかり塗っているのか、露出しているにしては白い二の腕も、太腿も、ふっくらと肉がついていて、可愛らしいと思うのだが、実際にそんな発言をするだけの度胸は常賢にはなかった。

 競技練習の時間は、常賢にとって至福の時間だ。

 陸上部の部員は八名とただでさえ少なく、棒高跳びのような走技と比べてマイナーな競技となると、二年生の茜と一年生の常賢しか部員がいない。もっとも、八分の二なので割合としては少なくないといえるかもしれないが、兎に角、二人きりだ。武道館傍の空いたスペースにマットとバーを置いただけのこの場所は、武道館から聞こえてくる剣道部じゃ柔道部の声がいちいち五月蝿くはあるが、グラウンドの短距離走を練習しているグループや他の部活からは適度に離れている。だから、そう、ふたりきりなのだ。


「そういえば」バーの位置を調整しながら、茜が声をかけてくる。「仲楯くんは――さっきの話に戻るけど、あの美少女と仲が良いんだってね。小町さんだっけか。綺麗だから、二年でもわりと名前知ってるよ。彼女なの?」

「いや、幼馴染みですけど」

「幼馴染み!」と茜は強調する。「良いねぇ。ということはご近所だ」

「まぁ、わりとそうですね」

「憧れるなぁ、そういうシチュエーション。登下校も一緒だ」

「それは小学校低学年くらいまでですね」

「なんで?」

「中学からは部活に入ったので」

「小学校の高学年とかは? 恥ずかしがって一緒に帰らなくなるとか?」

「帰る前に校庭でサッカーとかやってると、自然に一緒に帰らなくなるんですよね」

「男の子ってお昼休みもサッカーばっかりやってるよね。何なの、アレ? あんなに小さい身体なのに校庭の端から端まで走り回って――」

 深呼吸から、駆けてきた茜の身体が跳ねる。頂点でここまで身体を運んでくれた棒とお別れし、身体は仰け反りながらバーを越え、そのままマットの上に落ちた。

「どっからああいう元気が出てくるんだろうね?」

 むっくりと起き上がり、茜は言葉を続けた。常賢のほうが同じ言葉を問いたくなったが、言わなかった。言えなかった。常賢は茜のこの明るい笑顔が好きで、だから彼女のことが好きだった。

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