一、剣の歌

第1話 仲楯常賢、幼馴染に蹴られること

 蹴られた。

 左の尻を襲ったのは、痛みというほどには鋭くはなく、衝撃というほどには力強くはなく、刺激というのは心地良くもなければ、あるいはただ触れられただけ、ぶつかっただけといえなくもないが、衝突したのが足であれば、それは蹴られたと形容する以外にはなかった。

「邪魔」

 と背後から女の声があった。廊下は、半年ほど前に見学しに来た文化祭の日にはライトセーバーを持った騎士ふたりが殺陣を行っていた場所なのだから、人ひとりが歩いているところに邪魔もなかろうに。


 ここが県立長須高校の廊下であるからには、女の種類は普通は二種類しかありえない。教師か、でなければ学生だ。ただ廊下を歩いていた善良な学生であるところの常賢を背後から蹴りつけるなどという悪辣な行いを教師がするはずがないので、学生である。いや、学生の仕業にしても許されざる行為ではあるのだが。

 仲楯常賢なかだてじょうけんが振り返れば、為した行動と声からそれとわかるとおり、立っていたのは見知った女だった。両手で抱えているのは段ボール箱。小さな唇は隠れていて見えない。箱は完全に密封されているというわけではなく、僅かに開いた隙間からは平たい書籍がいっぱいに見えた。書籍が数十冊となれば、明らかに制服姿の少女の細腕には過積載だ。

 常賢が廊下の端に退いたが、女はしばらくこちらを睨みつけていた。


 待つことたっぷり九秒。


 その間、ダンボール箱の下に回された女の手が、その重みに耐えられず小刻みに震えていた。よくよく見れば肩も上下していて、息も荒いようである。

「手伝うか、小町?」

 その問いかけに僅かに口元が綻べば、期待するのは礼である。が、返答は、ダンボール箱を押し付けるという形で行われた。

(なるほど、重い)

 女の細腕、しかも運動部ではない小町恋歌こまちれんかには厳しかろうが、常賢なら運ぶのには苦労しない。

(とはいえ、渡す前に一声かけてくれば良いものを……)

 膝を使ってダンボール箱を担ぎ直しながら、常賢は溜息を吐いた。最初の蹴りは、手伝ってくれ、という信号を発したつもりなのだろう。そのために重い段ボール箱を抱えたままで走ってきたのだろう。それで蹴りつけたのだろう。邪魔などと、心にもないことを言ったのだろう――そんなことをしなくても、辛辣な言葉遣いをやめて、ただ持ってくれと、手伝てくれと、そんなふうに頼めば善いだろうに、いったいいつから彼女はこうなったのだろうな、などと考え始めると吐き出される息は止め処を知らなかった。


「で、これは何処へ運べばいいの?」

「教室」

「うちの?」

「そう」

 今度は返答があったものの、にべもなく、冷たい。

「これ、なに?」

「なんでそんなこと訊くの?」

 なぜと言われても、こちらから手伝うかと申し出たとはいえ、わけのわからぬ物を急に手渡されたのだから、その中身が気になるのは当然のことだ。箱の中に見えているのが裏表紙だけで、航行中の船を上空から撮影したらしき写真が小さく載っている以外には情報がない。いや、船の周囲は水ではなく、海氷が浮いているようだ。北の海だろうか。出版社も聞いたことがない名前だが、極海を航行している最中の写真なのかもしれない。なぁ、どう思う、などといった会話くらい楽しんでも良かろうと、そんなふうに思うのだが、相手のほうはそう思わないのだろう。

 いや、こちらの気持ちが伝わったわけではなかろうが、立ち止まった。少し考える間を置いてから教室への歩みを再開すると、女が口を開いた。

「先生が知り合いから貰った本。南極の話だって。職員室に届いて、明日学生に配るから、教室に持っていけと言われた」

 ようやくまともな返答が返ってきたものの、声音は優しくはない。


 こんなふうに厳しいやりとりか続くのか、でなければ海の底の沈黙ばかりしかないのであれば、ひとりで運ばせてくれれたほうがまだマシというものだが、女、小町恋歌は手ぶらになった身軽な身体のままで、まるで先導するように常賢の横を歩いた。一か月通った校内を迷うとでも思っているのだろうか。

 背骨のように南北に伸びる廊下を中心として、職員室や音楽室といった特別教室は西側に、一年から三年の教室は東側に、手足のように伸びる。一年生のうちによく歩いておけということなのか、南側の昇降口から一年生の教室が最も遠い。いつもならそうしたさしたる差異などは気にするほどのものではないのだが、重い沈黙が横たわっているのであれば、その僅かな差に足取りも重くなるというものだ。

 一年の教室棟にようやく到着し、誰もいない一組の教室の教卓の横にダンボールを置く。仕事は終わりだ。やれやれ。

 誰もいない教室で恋歌のほうを振り返る。運ぶべき荷物も無いのにここまでついてきた彼女が、荷が運び終えたことに満足して職員室にでも報告に戻ってくれればいいと思ったが、彼女はじぃと常賢を見ていた。

「小町は……なんで土曜の真っ昼間に学校にいるんだ?」

「常賢は部活なの?」

 勇気を出しての問いかけは、しかし問い返されるという形で破られた。いや、会話は続いているだけ、上出来か。「ああ」ああ、そうだよ、見りゃわかるだろ、と言わなくていいことまで言ってしまう。

「そう。じゃあ、頑張ってね」

 そう言うなり、小町恋歌は踵を返し、教室を出て行ってしまった。常賢は追いかけようとはしなかったし、すぐに部活に戻ろうともしなかった。自分の足では途中では廊下の途中で彼女を追い抜いてしまうのは明らかで、だからただ彼女の足音が聞こえなくなるのを待っていた。これ以上気まずい時間をすごしたくはない。


 たっぷり三十秒待ったところで、慌ただしげな足音が聞こえてきた。反射的に身体が強張りかけたが、恋歌にしては足音が五月蝿すぎ、重すぎ、何より明るすぎた。

「常賢、常賢、ちくしょう、いいなぁ、おまえは」

 教室に飛び込んでくるなり興奮顏で声を荒げてきたのは、常賢と同じようにジャージ姿の、しかし高校生というにはその身体の厳つさのせいで怪しく感じられる男、三神みかみであった。

「なにが」

「小町さんだよ。くそう、さっき仲良く手を繋いで荷物運んでいただろう」

「手を繋いだら荷物は運べない」

 と常賢は言い返したが、三神は耳を貸さずにひとり興奮を隠さない。「いいなぁ、くそう、おまえは小町さんと幼馴染だからって、あんなふうに親しそうにして」

「蹴られるぞ」

「馬っ鹿、おまえ、小町さん可愛いだろ。羨ましいわっ」

「親しそうにって、蹴られたんだけど」

「いいなぁ、いいなぁ、くそう、おまえより前に小町さんを見つけていたら、蹴ってもらって荷物運びを手伝ってあげるのに」

「あいつはあんまり知らんやつには手伝ってもらったりとかしないんじゃないの?」

「じゃあ蹴るだけでも」

「蹴るのもしないだろ」

 常賢の幼馴染、小町恋歌という女は、確かに顔立ちが整っている。だから他人とあまり話さなくても入学当初から、男子生徒には人気がある、らしい。それはべつだん悪いことではないが、きっと恋歌がどんな人間か知ったら、その人気もすぐに落ちるのではないかという気がする。

「おまえとじゃなくておれと幼馴染で、あと体重が三十キロは重くて、それでいて毎日蹴ってくれれば最高なんだけどなぁ」

 訂正、三神のような人間を除いては、人気は落ちるだろう。

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