剣の歌
山田恭
序
老人と乙女
ゲイルロド王は坐って、耳を傾けていました。彼の剣は半ばさやに収まって、ひざの上に置いてありました。客がオーディンだということを明かすのを聞くと、彼は釈放するためにとびあがりました。けれど、剣は王の手からすべり、つかの方を下にして地面に落ちたのです。とたんにゲイルロドがよろめいて剣の上に倒れたものですから、剣は彼をくし刺しにして、殺してしまいました。
(K・クロスリィ‐ホランド『北欧神話物語』(青土社)十二 グリームニルの歌、一二六頁より)
***
***
雪が降っていた。
女のように冷たい冬は、日ごとにその激しさを増し、今や狼の如き獰猛さで生者の肌を裂いていた。壁が雪の侵入を防いでいるとて、安宿ともなれば壁の薄さも骨に染み入る寒さも
ぱち、と火花が弾ける音とともに、眼前が急に明るくなる。
といっても、明かりの元は暖炉である。真っ暗闇に差し込まれたから太陽のように感じただけであり、落ち着いてくると世界樹の根付く地上すべてを燦々と照らしつくすほどではなく、無論のこと未来も照らせそうにはない。暖炉の傍らには火を入れた当人らしい人影があった。
「親爺か」
と男は眩しさに目を細めながら問いかけたが、暖炉の傍に立っていたのは宿屋の髭面の親爺とは似ても似つかぬ細腰の女だった。
「いえ、親爺さまはお出かけになられました」
「なに? この吹雪の夜に、いったい何処へ?」
「さて、仔細のほどは聞いてはおりませんが、お急ぎのようでした」
女の声はこんな安宿に似つかわしくないほど美しかった。声のみならず、その容貌も一度目の当たりにすれば網膜に焼き付くであろう際立つ美しさであれば、暖炉の薄明りだけでも、男が一度も出会ったことがない人物であるということは断言できた。
「あんたは……?」
「わたくしは先ほど宿に着いたばかりの吟遊詩人でございます」
目が慣れてくれば、揺れる赤い燈火だけでも仔細が見えるようになってくる。
真冬の最中にしては、やけに薄着だった。白い肩や脚が見えるばかりか、辛うじて肌を覆っている薄布はたわわに実ったものの形を隠そうともしていない。胸の流線を強調するかのようにぴったりと張り付いた長い髪は、火を受けて輝く銀髪だった。髪も服も濡れているからには、どうやら濡れた着物を乾かそうとしていたらしい。吟遊詩人を自称する女は若かった。かといって、幼いというわけでもない。妙齢の、しかもむしゃぶりつきたくなるような美しさの女だ。
女の切れ長の瞳が動く。男が女を観察していたと同時に、女もこちらを見ていた。女の視線は男の左目で止まった。
「ああ、おれは宿の客だ。寒さに耐えかねてな、葡萄酒と、それに何か温かいものでも貰おうと思ったんだが……」
「さようでございますか」
女の肢体をじろじろと見ていたがゆえに言い訳じみた言い方になってしまったが、女はそれ以上に男に対しては興味を示さず、暖炉のそばの椅子に座った。火の近くに干した衣服らしい布地の濡れ具合を確かめるように手で触れたあとは、露出した白い膝の上に手を置き、それで己以外のことにはもはや興味は無いという様子であった。
「あんた……吟遊詩人とか言ったか。宿の親爺に呼ばれでもしたのか?」
「漂泊の身ゆえ、雪を凌ぐための宿を求めただけのことです」
そうだろうな、と男は独り言ちる。この安宿が吟遊詩人を呼ぶほどに持成しが行き届いた店ではないのは、蜘蛛の餌場と化した窓の桟をなぞらずともわかりきっている。尋ねたのはただ無言で女を見つめるのが憚られただけで、実際に男は言葉を発すると同時に吟遊詩人を名乗る女から視線を逸らすことに成功していた。ついで、首を巡らせて炉火に明々と照らされる安宿の広間を見渡す。女に視線を向ければまた釘付けになりそうだったので、男は宿の奥へと足を踏み入れた。奥は髭面の店主が溜め込んでいる酒や干し肉の入った革袋や樽が置かれた厨房だった。足元ではこの時期のノルドでは貴重な野菜も壁の隙間から吹き込む冷気で冷やされている。
「旦那さまは、この宿にはどういったご縁で?」
と女の声が向けられたからには、当たり障りのないやり取りだけでは済まさぬつもりらしい。厨房から女を観察したが、特段こちらに興味があるようには見えず、暖炉に手を翳して暖を取っていた。しかし間がもたなさそうだったから質問をした、というわけではないだろう。
というのも、美しいのだ。白い肌に流れる銀色の髪はさながら美の神フレイヤを感じさせるほどなのだ。その日焼けしていない肌に触れ、透き通るような髪を梳きたいと、歌を紡ぐその口から声を鳴かせたいと思わせるほどなのだ。見ているだけで二〇も三〇も若返りそうなのだ。でありながら、極寒の海に似た近づきがたさも感じさせるのだ。雪花だ。そんな女だ。吟遊詩人らしく、俗世間を離れた所作を感じさせ、であるからには、そんな変わった女が当たり障りのない会話で場繋ぎをしよう、などと考えるとは思えなかった。考えるに、吟遊詩人らしく語るべき物語を探しており、見知らぬ人間に会えば生い立ちや目的を尋ねるのが常なのだろう。
「いや、旅の途中だ」と男は答えてやる。ある意味では嘘ではない。
「さようでございますか。旅の目的地をお尋ねしても?」
「まだわからん。目的は決まってはいるが、目的地までは」
「さようで。当て所ない旅の途中、行きずりの宿で出会うとなれば、これも何かの縁というものございますね」
と明るい口調で女は口元を綻ばせたが、男は老木のような身体を硬くして視線を女から退けた。視線の先には料理台があり、その上には肉を解体するための鉈が突き立っていた。
「あんたは――」
「シュヴェルトライテと申します」
それ以上質問をされる前に、と男は逆に問いを投げかけることにしたのだが、女が名乗ったがために機先を制される形になった。名乗ったからには、その名で呼べということなのだろうが、その要求は無視することにした。「ああ、うん、あんたは、何が目的で、女ひとりこんな僻地くんだりまで来たんだ?」
「ええ、隻眼の王の伝説を収集しておりまして」と吟遊詩人の女――シュヴェルトライテは答えた。
隻眼の王。
この地域で隻眼の王といえば、誰もがまずオーディンの名を挙げるだろう。主神オーディン。〈死の神〉。〈全能者〉。〈戦いの父〉。〈眠りを齎す者〉。魔法のルーン文字を得るためにトネリコの木の枝に己の片目を捧げ、九昼夜もの間吊られていたという化け物。魔槍グングニルによって戦争を引き起こす争いの誘発者。知恵と精神の鴉を肩に載せた、〈恐るべき者〉。――この神の名を連想しない者はいない。
男は宿の厨房を探り、エール酒の入った革袋を見つけ出した。代金代わりに銀貨を置き、ついでに角杯をふたつ取り、広間まで戻る。吟遊詩人のシュヴェルトライテの体面に座ると、卓上に立てた角杯に革袋のエール酒を注いだ。「身体が冷えているのなら、エール酒でもどうだ」
「わたくしは盗みはいたしません」
「酒代は向こうに置いてきた。あんたのぶんも。おれの奢りだ。どうだ?」
吟遊詩人の女は手を暖炉に向けたままでしばらく逡巡していたが、やがて干していた布から幾分乾いたものを一枚羽織ると、テーブルの側へと向き直り、角杯を掴んだ。「では、ご相伴にあずかりましょう」
杯と杯を合わせてから、男はエール酒で喉を潤おした。女の様子を観察していると、両の手で角杯を掴み、随分と上品に口元まで持っていく。嚥下するたびに女の喉元が何度も上下した。唇の端から赤銅色の液体が伝い落ちる。
「吟遊詩人なれば詩神クヴァシルにあやかり、蜜酒で喉を潤したいものですが」とシュヴェルトライテは厚かましいことを言って、小さく笑んだ。「エール酒も悪くはないものですね」
「あんた、ついでといってはなんだが、なんぞ飯でも作ってくれないか? こうも寒いと、腹が減ってかなわんのだ」
「わたくしは吟遊詩人でございます」
「で?」
「歌を謡うのが仕事でございます」
これは嫁には向かんな、いや、こういうことを言うといまは都では五月蠅いんだっけか、などと思いながら男は鼻息を吐いた。
「だろうな。では歌でも謡ってくれるのか? 先ほど、隻眼の王の歌を収集していると言っていただろう? それを歌ってくれるのか?」
回りくどい要求の仕方になってしまったが、この要求が男がシュヴェルトライテの対面に座った理由だった。主神オーディンの歌。彼が、あの恐るべき神が今、どのようにしているのか。それを教えてくれる歌があるならば、それを聞いてみたいという、そんな些細な理由だ。
しかし女はゆっくりと首を振った。
「申し訳ございません。隻眼の王については確かにその足跡を追ってはおりますが、未だ歌としては不十分でございます」
「不完全でもかまわん。歌ってはくれないか?」
「未完成のお見苦しいものをお聞かせするわけにはまいりません」
とシュヴェルトライテの気持ちは固かった。冷たい美貌を誇る女なだけ、姿勢を正して要求を跳ね除けられれば、どんなにか駄々を捏ねてもこちらの意を汲んでくれそうな気がしない。男は諦め、溜息を吐いた。
「では腹が膨れる歌でも歌ってくれや。代金はそのエール酒の奢りぶんだ」
と言ってやると、吟遊詩人は「それは意地悪な要望というものです。歌は心に響くものであり、肉体を満たすためのものではありません」と反論した。いやいやと首を振る様子が雪のような風貌とまったく合っておらず、それが却って女の姿を可愛らしく見せていた。
「随分と不自由なものだな。歌というのは」
「そうでしょうか? かほどに自由なものではないとわたくしは思っておりますが」
「どう自由なんだ?」
「それは……聞いてみなければわからないものです」
「そうしてあんたは歌を売り込むのか?」
女はにっこりと笑った。「歌はいかがでしょう、歌はいかがでしょう。吹雪の夜に、冬の長夜に、狼の暗夜に歌はいかがでしょう?」
「エール酒以上には払えんぞ」
「結構でございます。ご要望などはございますか?」
「隻眼の王の歌が無理なら、それ以上のものはない。勝手にやってくれ」
「では」と吟遊詩人はぞんざいな扱いにもめげずに向き直った。「剣の歌を」
吟遊詩人は足元から長細い筒を取り出した。剣ほどの大きさの――。女の宣言した歌の名のせいで、はて詩吟ではなく剣舞であったか、いや、もしや詩人に偽装した暗殺者か、などと身構えかけた男であったが、筒の中から取り出されたのは見たことも無い、しかし一見してそれとわかる形状の楽器であった。
一言でいえば、太皷に棒をつけたような形状だ。女の手の平程度の大きさの太皷の上には二本の弦が張られ、それが太皷から突き出した棒に沿って端まで伸びている。棒の天辺には左右に二本短い棒が突き出しており、どうやらそれが糸巻のようにして弦の張り具合を変えるらしい。
詩人はまた、弓を取り出した。といっても、男が見慣れたロングボウではない。都の音楽家が使うような、細い棒に馬の尾を束にして張ったものである。一度張られた弓を外し、太皷棒の二本の弦の間に尾を通してから張れば、それで楽器は演奏可能な状態になったようだった。どうやら弓で二本の弦を擦り、そうして音を奏でる道具らしい。
「それでは始めましょう。先ほども申し上げましたが、題は剣の歌。異世界の、とある男と女の話でございます――」
男女の歌か。なれば恋物語にでもなるのだろうか。ならばせめて艶のある話になってくれよ、と男はエール酒をあおる。
外では雪が降り続いていた。
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