罪断ち剣狼
ゲイルロドは女の脚に噛み付いた――細い足首だった。これから罪を犯すとは思えぬほどに。させてはいけないと思った。
街中で獣に唐突に噛まれたとなれば、驚きも恐怖も一入だろう。であれば、彼らの動きを止めるには十分だった。追いかけてきたトラック運転手がゲイルロドの身体を引き剥がすまでの間、時間を稼ぐことができた。身体であの大質量を一度は止めた以上、事故そのものは起きなくなった。だがそれだけでは不十分だ。いつか――いつかは罪を犯すのならば、いま、このときに、彼らに時間が必要なのだ。己の為そうとしていることを見つめ直す時間を。
「ごめん! きみ、大丈夫か!?」
飼い主というわけではないのに、トラック運転手は平身低頭で女に謝った。
ゲイルロドに噛み付かれた女のほうはといえば、むしろ恐縮した様子でトラック運転手をとりなしていた。
「や……大丈夫です。甘噛みっていうか、歯はぜんぜん刺さらなかったので」
涎でべっとりだけど、と女は噛まれた足の爪先で地面を叩く。
「それより、この子は……大丈夫ですか? 傷だらけだし、えっと、なんか足を引きずっているみたいですけど……」
「ああ、うん、いや、ぼくの犬ではないのだけれど……」
トラック運転手が言い辛そうにしていたのは、獣を轢いてしまったからだろう。他人事のように思っていたゲイルロドだったが、ひょいと抱えあげられてしまったので少し慌てた。足がぶらりと垂れ下がったとき、折れた足が痛みをあげ、痛みが走った。
「無関係じゃないから、とりあえず病院に連れていくよ」とゲイルロドを抱えたトラック運転手が言う。「犬のことは、本当にごめん。足、ほんとに大丈夫? 野生の犬みたいだから、その、病気とかあるかもしれないから……」
「いや、ほんとに大丈夫です。気にしないでください」
何かあったら連絡をくれ、と言ってトラック運転手は女にチラシを渡した。彼が勤める運送会社のチラシで、ボールペンで名前を書いて、それで別れた。トラックへと運ばれ、ゲイルロドは助手席へと載せられた。動物病院ってどこにあったかなぁ、と呟きながら運転手が周辺地理を検索している間に、ゲイルロドは立て耳をぴんと伸ばして開いている窓から聞き耳を立てた。喧嘩をしていた学生服の男と女は既に歩き始めていて、ずいぶん距離が離れてしまったが、それでも獣の耳は彼らの会話をなんとか盗み聞くことができた。
「おまえ、ほんとに大丈夫か? さっきの人も言ってたけど、病気とかあるかも……」とこれは心配そうな男の声だ。
「だから大丈夫だって。傷、ないもん。あの犬、おじいちゃんみたいだったから、歯が立たなかったんじゃない?」と失礼なことを言っているのは女のほうだ。
「いや、でも……」
「ほら、見てよこれ。べっとべとなだけでしょ? ああ、でも、靴下だけ弁償してもらえばよかったかな」
ふたりの会話はしばらく途切れた。ゲイルロドは、己の耳では聞き分けることができる範囲外に行ってしまったのではないかとやきもきしながら、ふたりの会話の先を待った。
「ごめん」
聞こえてきたのは謝罪の言葉だった。女の。ずっと、ずっとその歌を聴き続けた女の、一度として相手に向けたことがなかった謝罪の言葉だった。それが、未だ為されていない行為に向けて発せられた。
「何が」と謝罪の言葉を向けられた男のほうも、ゲイルロドと同様に驚いたようだった。
「いや……さっき叩こうとしたから………。だから、ごめん」
また沈黙が下りたが、今度はすぐに破られた。
「まぁ、そうだな。叩くのは、良くない。いつもそうだけど」と恨みがましい言い方で男が言った。
「うん、まぁ、気を付けるよ」
「で、さっきの話に戻るけど……、断りに行くの、一緒に行ってやるよ」
「いいの?」と女の声がぱっと明るくなった。「それはありがたいけど……、なんで? ていうか、どうして最初、断りに行くの手伝ってくれないなんて言ったの?」
「あー………」
男は言いよどんでいた。ばつの悪そうに唇を舐め、首元を擦り、正直に打ち明けるべきかどうか迷う若い男の姿が、離れていても見えるようだった。ゲイルロドはトラックの助手席で祈った。言葉では何も伝えられぬが、彼の心が揺らがぬようにと祈った。
「その、とても言い難いんだけど……陸上部の先輩のことが好きなんだ」
「うん?」
「いや、だから、先輩だよ。陸上部の……棒高やってる先輩。知らない?」
「えっと……よくポニテにしてる、ちっちゃい女の先輩?」
「そう、うん、その先輩が、同じクラスなんだよ。おまえにラブレター送って来た先輩と。だから、ほら……、あるだろ、そういうの――」
「なに、その先輩に、わたしと仲が良いって誤解されるのが厭ってこと?」
「誤解っていうか……おい、笑うなよ」
「笑ってないけど………」くすくすと、言葉に反して鈴の音のような笑い声が聞こえてきた。彼女が笑うのを聞くのは初めてだ。女が口元を隠して笑うのが想像できた。「そういうこと考えるんだな、と思って。それがちょっとおかしかっただけ」
「結局、笑ってるじゃないか」
男の言い様は拗ねるようではあったが、気分を害したという様子ではなかった。笑われるのは予想の内だったということだろう。
「相手にされてるの?」
「知らんよ」
「協力してあげるよ。なんか、ほら、よくあるでしょ? 友だちになって、好みとか聞いたりして」
「おまえ、友だち作るのとか苦手だろうに」
「でも、協力はするよ。だからさ、交換条件でお願い。わたしにも協力してよ。断りに行くの」
「ひとりじゃ怖いのか?」
「……怖いよ」
女はこれまでにないほど素直だった。彼女の身の上や考え方に関しては、シュヴェルトライテを通して僅かに知るだけだ。何を考えているかはわからず、だが彼女が己の心に正直になっているということだけはゲイルロドにもわかった。
「じゃあ行ってやるよ」
と男が言った。彼は女と疎遠でありながらも、最も近い存在であった。だからゲイルロドよりもずっと彼女のことを理解していることだろう。
ゲイルロドは耳を伏せた。もう聞く必要はないと思った。ゲイルロドは目を瞑り、ふたりの歩いてゆく背中を思い浮かべた。これで良い。ここは、これで良いのだ。この先、何があるかはわからない。だが、ひとまずはこれで良い。
人が罪を犯す前にそれを止められるのは、咎を背負ったものだけじゃないか?
なぁ、アグナル。おまえを殺していなければ、ずっとそのことを悔いていなければ、きっとおれはあのふたりを助けられなかったと思うんだ。こんなにもあのふたりを助けようとは思わなかったはずなんだ。なぁ、アグナル。おれは結局、贖罪はできなかった。どんなにか罪を贖おうとしても、罪を消すことはできなかった。でも、だからこそこれが、おれのできることなんだ。おれの罪であり、おれが――おれが、おれだけができることなんだ。
「おい、生きてるか。病院についたぞ。もうちょっとだからな」
満足して長い眠りにつこうとしていたゲイルロドを起こしたのはトラックの運転手だった。いつの間にか動物病院に到着していたらしい。ゲイルロドは顔を顰め、首を振った。せっかく良いところだったのだ。もう少しで安寧を享受できるはずだったのに、運転手の男はそれを理解してくれない。ただの野犬としてしかみなしていないであろうゲイルロドを診療台へと運び、治療を受けさせた。頭の上では医者と男の間で怪我の具合やゲイルロドの身体の状態などについてさんざん話がされていたが、聞くつもりはなかった。もういいんだ、休ませてくれ。
しばらくは動物病院の中で放置されていたが、夜になるとまたトラック運転手が現れてゲイルロドを医者の手から引き取った。また助手席に載せられて、どこに行くかと思えば彼の自宅であった。彼の妻と、幼い子とに迎え入れられて、食事と寝床まで用意された。アパートなのに獣を入れて良いのかと疑問ではあったが、いちおう賃貸主の許可は取っているらしい。それに、彼らは二人目の子どもが生まれるのに合わせ、新たに新居に移るつもりらしく、そこならペットの一匹や二匹なら飼えるそうだ。運転手の妻は「子どもたちの遊び相手にきっと良い」などと勝手なことを言っていた。実際、幼子は紅葉のような小さな手をゲイルロドの鼻先に押し付けてくるのだから、たまらない。ゲイルロドは首をゆっくりと振り、それから幼子の顔を舐めてやった。もう少しだけ生きてみよう。まだやれることがあるかもしれないから。
<了>
剣の歌 山田恭 @burikino
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