罪人ゲイルロド

 雪が降っていた。


「かくしてまたしても罪は赦されない結果となったのです」

 吟遊詩人、シュヴェルトライテが歌を締め括った。剣の歌。それは罪を犯したものを断罪する刃の歌だった。殺しを隠蔽しようとしても無駄だった。事故に遭わせた相手が生き残っても駄目だった。どころか、事故に遭って傷がほとんど残らなかったとしても、そこに罪の爪痕は残っていた。

「では、どうすれば罪は赦される?」

 ゲイルロドは問いかけた。それは国を放逐されて以来、いや、幼い頃に誤って兄王アグナルを船上で突き落としてしまったとき以来、ずっと考え続けていたことだった。

「おれは、どうすれば――」


「ゴート族の殺人者、ゲイルロド! 王殺し、ゲイルロド!」


 ゲイルロドの言葉を掻き消したのは、宿の外から聞こえてきた怒号であった。

「あの親爺め」

 事態を察知したゲイルロドは舌打ちし、首を振った。

 ゲイルロドは――ノルドの一帯を治めるゴート族の王であったゲイルロド王は、かつて罪を問われて隻眼の神オーディンに己と同じように片目を抉られ、国を放逐された。神々はそれで満足したようだったが、ゴート族やブルグンド族の中には、本来国を受け継ぐべきであった兄王を殺し、国に混乱を引き起こしたゲイルロドのことを疎ましく思っている者も少なくなく、賞金さえかけられていた。

 知っていながら、ゲイルロドは宿に泊まった。この猛吹雪に外に出て行った時点で検討はついていたのだが、こうまで早く戻ってくるとは予想が外れた。

 否、それだけ長く話し込んでしまっていたのだろう。何時の間にやら夜が明け、朝日が差し込んでいた。明るくなれば、逃げ出すことすら叶うまい。それに、声は宿の入口から聞こえてはいるが、人の気配は宿の周囲をぐるりと囲っている。突入してこないのは暗い宿内での戦闘を警戒しているのだろうが、焦れてくれば火で燻し出そうとしてくるかもしれない。ゲイルロドの首に、それだけの価値を認める者もいる。


「旦那さま、いかがいたしましょうか?」

 女の声は、それにしても落ち着いていた。透き通るような美貌といい、出くわしたタイミングといい、やはり尋常の者ではないな、とゲイルロドはシュヴェルトライテを眺めた。乾いた衣服を纏って装飾を身につけ、編んだ髪に飾りを通せば、まるで――まるで主神オーディンの配下の戦乙女だ。

「すまんが、歌の続きはまた今度にしてくれ。いまはちょっと聞く暇が無さそうだ」

 また今度、とは来世になるかもしれないが。この女は百年、二百年経ってもそのままの美しい容姿でいそうだから、本当に来世があるのならば、続きを聞くことができるのかもしれない。

「そうではありません。わたくしが問いましたのは、いま、この現実のことに関してでございます」シュヴェルトライテは己の胸の豊かな二房の果実の上に手を置いた。「例えば、ですが、わたくしを人質ということにすれば、逃亡しやすくなるのではないでしょうか?」

「いや……逃げはしない」

「と、言いますと?」

「お話とは違い、この世は造り直しは効かない」

「さようでございます。過去は過去として、主神オーディンでさえも取り返しのつかぬことでございますが、未来というのは予見し得ぬものです。ですから、わたくしはお尋ねしたいのです。それで本当によろしいのですか、と。旦那さま、あなたは彼らに捕まれば、間違いなく処刑されるでしょう。それが本当に、真に贖罪になるとお考えですか?」

「未来はわからぬと言ったばかりだ。処刑されるとも決まったわけでもあるまい」

「それは揚げ足というものです。もし捕まった場合に旦那さまの処遇がどうなるかなどというのは、子どもでもわかります」

 と言ってこの逼迫した状況の中でぷぅと膨れてみせるのだから、この女は得体が知れない。


「出て来い、ゲイルロド!」

 再度外にから怒声があがった。

「で、あんたはいつから気付いていたのだ。おれがゴート族のゲイルロドだということを」

 外の声を無視してゲイルロドが問うと、シュヴェルトライテはたおやかに首を傾げてみせた。「蕾が花を咲かせるのはいつでしょう? 花弁が離れ始めたときからでしょうか? それとも花弁が開き切るまでは咲いたわけではないのでしょうか? 花を花と認識するのに明確な境界などなく、ひとつの大きな幅を超えていつの間にか達成されているものです」

 はぐらかした物言いは、答えたくない、ということか。

 ま、只者ではないのは確かだろう。でなければあんなふうに、ゲイルロドが名乗る前からゴート族の王の話なんてしないはずだ。

「あんたが内通者で、おれを捕まえに来たのかもしれないと思った。そうだったら、嫌だな、と。だが、いまは……戦乙女かもしれないと思っている」

 ゲイルロドがそう言うと、シュヴェルトライテは大きな瞳をぱちくりとさせた。美しい女だったが、唖然とした驚きの表情になると、硬い花弁の間から可愛らしさが覗いた。

 日の差し込むようになっていた宿の中、吟遊詩人の頭から爪先までを改めて観察し直した。かつてゴート族の王であり、饗宴を尽くしたゲイルロドであったが、シュヴェルトライテはこれまで見たどんな女よりも美しかった。あまりに場違いなので、本当にオーディンの戦乙女なのではないかとさえ感じられてしまう。

 戦乙女。いずれ訪れる強大な戦争に向けて、死した英雄の魂を集める美女。罪人であるゲイルロドにとっては、最も遠い神族だ。なのにゲイルロドはそう思ってしまった。


(贖罪、か)

そう尋ねた吟遊詩人、シュヴェルトライテに背を向けながら、ゲイルロドは宿の入口に向けて歩いた。分厚い木造りの戸に手をかけて僅かに光が漏れた瞬間、叩くような勢いで雪原が開かれた。目の前に立つ影が動いた。死の影が腕を伸ばし、ゲイルロドの側頭部を叩いてから頭を地へと押し付けた。雪原へと倒れたゲイルロドは雪を舐めた。

 最初からこのように首を差し出すことが、ゲイルロドの為すべき贖罪だったのだろうか。


ゲイルロドは――ゲイルロドはシュヴェルトライテが歌い、ゲイルロドが願った物語を思い出していた。

 最初、女は男を事故に遭わせた。故意ではなかった。ああ、事故だった。だがそれにしても、罪は罪だった。罪を発覚されることを恐れた女は、罪を隠匿しようとした――だが無駄だった。罪は白日の下に晒され。不幸な結末を迎えた。

 ならば罪を隠匿しなければどうだったかといえば、男が庇ってくれた。だが結局は、事故というものは男と女の枠の中に収まることではなかった。家族がいて、友人がいて、加害者がいた。いずれも無視できず、男は結局は女の罪を認めた。

 では罪を受けるような怪我がなければどうかといえば、それでも罪は罪だった。罪はどんなにかしても、罪だった。

 では贖罪をすることを願うべきだったのだろうか?

 そもそも被害者たちは、女の贖罪を望んだだろうか?

 害を受けた者たちからすれば、事故の元凶になった存在というのは、考えたくもない、おぞましい、腹立だしい、不快な存在なのだろう。

そんな存在がいくら贖罪を試みても、無駄だ。けして許せるものではない。

 確かに、ああ、確かにゲイルロドは贖罪をしようとした。田畑を拓き、石垣を作り、貧しい土地に鍬を入れていった。

 だが、だがそんなことが果たして贖罪になるのだろうか?

 足を奪われ、走ることができなくなった男が満足するのだろうか?

 夫を奪われ、子の将来を閉ざされた妻が満足するのだろうか?

 未来を理不尽に奪われた者が喜ぶのだろうか?

 船から突き落とされた子どもが笑えるのだろうか?

 心臓を抉られて、それで許せるのだろうか?

 首を落とされて、それで満足できるのだろうか?

 ああ、そうだ。どうしようもない。もう、仕出かしてしまったことは。

 すべての記憶が消え、起きてしまったことさえ誰にも、自身にさえも知られることがなくなってしまえば、それはある種許されたことになるかもしれない。が、それは現実にはありえない。


 ゲイルロドは己が視界に広がる光景を見下ろした。雪原の宿で捕縛されたゲイルロドは、何時間もかけて市中へと運ばれた。何度か殴られた。昼になった頃に処刑台へと引き上げられた。傍らには斧を携えた処刑人がいた。

 民衆はゴート族とブルグンド族だ。ゲイルロドによって支配されていた民たちだ。きっとゲイルロドのことを恨んでいるだろう。殺さなければ満足できないほどに、恨んでいるのだろう。だが恨みが晴れても、罪は贖われない。それはやはり、贖罪ではない。

「兄王殺しのゲイルロド、最後に何か言いたいことはあるか?」

 処刑人の問いかけに、ゲイルロドは考えた。言いたいことはあるか。言いたいこと。いったい、誰に?


 まず思い浮かんだのは、宿で一夜の歌を聞いた吟遊詩人、銀髪のシュヴェルトライテのことだった。だが彼女には語られることがあまりに多すぎて、彼女の存在があまりに謎過ぎて、彼女に何を言って善いものなのかはわからない。


 次に思い浮かんだのは、宿を訪れる前に過ぎてきた開拓地の子どものことだった。ゲイルロドが開拓したその場所は、村と呼べる程度に形が成されていた。人々はゲイルロドのことをかつてのゴート族の王であり、恨むべき対象だと知っており、城へ引き渡すことこそなかったが、常に遠巻きでありゲイルロドに接触してくることはほとんどなかった。過去を知らない子どもだけは違った。だが彼らに言うべきことなど思いつかない。


 さらに思い返したのは、これまで幾つも作り上げてきた開拓村のことだった。ゲイルロドがゴート族の王だと知ったときの反応は、人によって違った。最後の開拓地のようにできる限り触れぬようにしてくる者もいれば、大罪人であることを知りながら親密な関係を築こうとする者もいた。共通して言えたのは、みな優しかった。各々が取る距離は違えど、ゲイルロドを人間らしく扱った。彼らに対し、賢しらに何かを言うことなどできない。


 王であったことを思い出せば、謝らねばいけないことはいくらでもあった。謝ったところで何も解決しない、とは思うし、それは事実そうだろう。だが謝罪をするのとしないのでは大違いで――ゲイルロドは謝罪を口にしないことを選択した。口を噤んだまま死ぬのが、ゲイルロドが唯一できることだと思った。


 ゲイルロドの目を抉った隻眼の主神、オーディンのことは……思い出したくはなかった。


 関連して思い出したのは、アグナルのことだ。ゲイルロドが殺した、まだ幼かった兄。じゃれあって、ふざけあって、そして、殺した。殺した!

 おれは後悔した。そうだ、後悔したんだ! 自分はなぜこんなにも悪徳だったのだろう、正しくはいられなかったのだろうと。おれは悪だった。生きているべきではんかあった。生まれるべきではなかった。こんな罪を犯すべきではなかった。

 罪は、罪だ。何をしようとそれは変えられない。死んでも。死んでもだ。おれが死んでも、罪は残る。それと同じように、彼女の罪は残る。贖罪などというのはまやかしだ。ありえない。罪は消えない。何をしても。

 罪が消えないのと同じように、おれが為したことは消えない。そして――。

「アグナルよ」

 もしおまえが死ななければ、おれはこんなにも咎について考えることはなかっただろう。


 処刑人の斧がゲイルロドの首を落とした。頭を失くした首からはとめどなく血が溢れ出した。頭は桶に落ちた。桶の中で、しかしゲイルロドは考えるのをやめなかった。最後に――いや、いまもまだ考え続けていたのは、シュヴェルトライテの歌の登場人物である、小町恋歌のことだった。

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