第4話 仲楯常賢、事故に遭うこと——あるいは遭わせられること
疲弊を慮って、ということなのか、大会直後は丸一日部活が休みになった。朝練がないと、朝の余裕が随分と違う。いつも通りの時間に起き、いつも通りの時間に朝食を食べ、その後にやることが無かったので居間でテレビを見ていると、母親から遅刻するのではないかと心配された。今日は朝練は休みだと言ってやると、だったら昨日のうちにそう言ってくれればもっと寝られたのに、と嘆かれた。いつもより一時間ほど遅く登校しても風景は変わらないが、行き交う人は違う。同じく登校中の中高生あり、会社員と思しきスーツ姿の人物あり。いつか自分もあんなふうに疲れた顔で出勤することになるのだろうか、などと考える一方で、短い脚と小さな靴の小学生が列を成していれば、己が小学生だった頃をしぜんと思い出してしまう。
そうした道行く人の中に、ゆらゆらと長い髪が揺れていた。
踏切が警鐘を鳴らし始めたため、長い髪は立ち止まった。同じ高校へと通う道だ。追いつくだろう。でなくても、歩幅が違うのだ。各々が自由なペースで歩いていれば、すぐに追いつく。が、追いついたところで、ここのところ疎遠になっていた者とどう挨拶すべきか。幼い頃を思い出していたからといって、幼い頃のように行動できるわけではない。嫌いだというわけではないが、常賢は今の恋歌が――苦手だった。そしてその苦手意識ゆえ、小町恋歌と常賢の関係は幼馴染というにはあまりに希薄なものになってしまっていた。
覚悟を決めて横に並ぶ、が、恋歌のほうでこちらに気付いた様子は無い。踏切の前で電車が通り過ぎるのを待ちながら、ちらりと彼女の表情を観察すれば、予想通りに眠そうな顔である。友人、三神の評によれば「何を考えているのかわからずミステリアス」ということなのだが、少なくとも午前中に関してなら、眠いだけで何も考えていないということを常賢は知っている。猫がいざれているようなものだ。このまま通り過ぎてしまえば、彼女と会話せずに済むだろうか。
目の前を私鉄の列車が通り過ぎる。次の停車駅は、高校のすぐ近くの駅である。茜も乗っていただろうか。
遮断機が上がり、警鐘が静かになってから、「おはよう」と常賢は声をかけてみた。幸い、無視はされず、ゆっくりと顔が持ち上がる。頷き、おはよう、とか細い声が返ってきた。
幼馴染である。昔はよく遊んだし、小学校の行きも帰りも一緒だった。が、最近では言葉を交わすことさえ稀だ。先週の荷物運びを手伝ったときのように、何かの理由がなければ会話さえしない。さりとてこのまま通り過ぎてしまうのはあまりにも薄情だ。道中でまったく会話がないにしても、朝練がないがため珍しく同じ時間帯に登校するのだ。この機会に、多少なりともかつての交友を取り戻すべきではなかろうか。
そんなふうに考えていたところで、背後から引っ張られた。
制服の裾を引いていたのは横に並んで歩いていたはずの恋歌で、どうやら考えながら歩いているうちに先行してしまっていたらしい。声をかけるだけかけて歩き去ろうとしていたと思われてしまったかもしれない、と常賢は己の迂闊さを反省した。ともあれ制服を引っぱってきたということは一緒に歩きたいということで、彼女のほうから珍しく平和的に意思を示してくれるのであれば、たとえ話題がなくても隣を歩くのは苦痛ではない。
「相談があるんだ」
おまけにと、恋歌のほうから話を投げかけてきた。相談。幼馴染からの、数年ぶりの友人らしい会話の切り出しに、常賢は嬉しくなってしまった。
「相談って?」
と聞き直しながら、恋歌の様子を観察する。先ほどまでの眠そうな表情は随分と薄まっているが、視線は伏せ目がちだ。何やら言い淀んでいるので、どうやら相談内容は話し難いことのようだ。隣を歩きながら、彼女が話すのを待ってやる。
「先週末なんだけど、下駄箱にラブレターが入っていた」
「古風だ」
「いや、メールアドレスが書いてあって、返事はこっちに、という形だった」
「なるほど。ちょっと現代風だ」
「二の三の
「どういう人?」
話しながら歩いていると、恋歌が小走りになっていることに気付いたので、歩く速度を緩めてやる。恋歌はほっとしたような表情になった。
「そんなの、知らない。だって、会ったことがない。いや、会ったことはあるのかもしれないけど、名前を覚えているようなレベルじゃない」
つまり、相手のほうから恋歌を見ての一目惚れということか。恋歌にとっては、昔からよくあったパターンだろう。
「で、どうしたの?」
「どうしたのって言っても、わたしは携帯電話もパソコンも持っていない」
子どもでも知っている当たり前の常識のように恋歌は言うが、常賢が知っているのは小学生の頃の恋歌であり、中学生以降のことはあまり知らない。だが、よくよく考えればこれまで恋歌が携帯電話を扱っているのを見たことがない。自身のパソコンがなくても図書館などの公共施設のパソコンから無料のメールアドレスを取得するという方法もあるが、恋歌の場合はそうした方法も知らないのかもしれない。これまではたいてい直接会って告白されてきたわけで、返答の方法には苦労しなかったのだろう。
「だから、何もしていないで月曜になってしまった。参っている」
「付き合うの?」
「そんなわけ、ない。見ず知らずの相手の急に手紙を送りつけてくるような人とは付き合えないし、それに……今はそういうことをする気にはならない」
そうだろうな、と常賢は心の中で頷いた。恋歌の答えはわかりきっていた。
「あ、そう。じゃあ、まぁ、直接返事するんでもいいんじゃないの? 相手が携帯持ってるって前提で手紙なんて書いてきたのが悪いんだし」
「うん。それは……そうする。それで、なんだけど――」恋歌は立ち止まり、こちらを向いた。「一緒についてきてほしい」
「え、やだ」
反射的にそう答えてしまってから、恋歌が怒ったり失望したりというよりは悲しそうな表情になったので、常賢は後悔した。
「なんで? べつに、彼氏のふりをしろとか、そういうことを言ってるわけじゃあないんだぞ」
「なんでって言われても………」
常賢は言葉に詰まった。というのも、考えていたのは茜のことだったからだ。
恋歌にラブレターを送ってきたという男は二年生で、しかも三組ということは茜と同じクラスだ。彼のところへ出向くと、茜も教室にいるという状況は十分に考えられる。恋歌は、彼氏のふりをするわけではない、とは言っているものの、外側から見てそう見えるかどうかはまた別問題で、事実友人や部活仲間からはそのような噂が立っていることは耳にしている。
そうした理由からの拒絶であったのだが、その仔細については話すのは恥ずかしいと感じてしまう。恋愛話を語り合うほど、常賢と小町の関係はもはや仲睦まじいものではないのだ。
「じゃあ……いい」
小町は歩みを再開する。常賢に並ぶために早足でいたときよりも、もっと早く。長い髪で隠れてしまって、その表情はもはや見えない。
「ほかに誰か、頼むやつはいないの?」
と追いかけながら常賢は問いかけたが、愚問だった。小町にろくろく友人がいないことは知っている。それに関しては小町にひとえに責任があるが、常賢も一定の理解がある。気遣いの足らない発言だった。
「待て。わかったよ、一緒に行くよ」
思えば馬鹿馬鹿しい危惧だった。茜に誤解されるのが怖いなら、直接好意を伝えればよいだけのことなのだ。それができないにも関わらず、誤解を怖がっていて何もできていないだけだ。恋歌に手紙を送りつけた男のほうがよほど上等だ。自分のくだらない危惧は、幼馴染の願いを断る理由にはならない。疎遠になったとはいえ、友なのだ。小町の願いは理解できる。高校に入ってからはほとんど人と関わらないせいか軋轢は減ったが、昔は容姿が良いだけ妬まれることがあった。余計な事件に巻き込まれることもあった。悲しい思いをすることがあった。でなくても、女なのだ。
「いい」
振り返った小町の上背は女性としては平均的で、小柄な茜などと比べれば高いだろうが、常賢からすれば見下ろすほどに小さかった。白い脚は短く、ぎゅうと鞄を握り締める掌は小さく、肩は薄く、何もかもが弱々しい。泣いているのではないかと予想していたが、瞳は濡れてはおらず、ただただ失望に塗れていたのが逆に常賢の胸を打った。
「行くって」
「いらない」
叩かれた。
「意地張るなよ」
「いいって」
蹴られた。
「小町、一緒に行くから……」
「五月蝿い、馬鹿ぁっ!」
鞄が目の前に広がり、顔が叩かれたのがわかった。車道に倒れこみ、そのあとで耳を劈くような音がして、己が車に轢かれたのだとわかった。身体が宙に浮いてから、コンクリートの舗装面に叩きつけられた。歯が折れ、口の中で血の味が広がった。
不思議と痛みは無かった。
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