第18話 ここ

 ミシミシと何かが軋むような音がする。


 それは鬼の気配のする方向から鳴り響く。その音とともにやってくる良からぬ予感が、晴姫の身体を震わせた。


「晴姫様ッ!!!」


 鷹丸の叫び声が彼女の心に届く。

 その想いが晴姫を何度も突き動かしてきた。


「まずいッ!! 晴……!?」


 急いで振り返る豊月はその言葉をつまらせた。その瞳に映る光景が、ゆっくりと彼女の意識へと運ばれていく。

 染み込むように、ゆっくりと流れる時間の中で彼女が見たものは、こちらに駆け寄ってくる晴姫であった。盲目とは思えないその足取りと、何かに耐えるように震える柔らかな手。


 その手を伸ばし、晴姫はこちらに飛び込んできた。



 勢いそのままに彼女の肩を抱きしめ、二人は大きく転がり回る。


 そんな刹那に聞こえる重たい破裂音。

 微細な振動。


 豊月は晴姫に覆い被さると、パラパラとにわか雨のように振る土片から彼女を庇う。


「また助けられた。いつも、私より判断が早いな」


 土に汚れた晴姫の頬を、豊月は拭うように撫でた。


「無意識に身体が動いてくれるんです」


 晴姫は微笑む。

 すぐに、土の雨は止んだ。



 豊月は晴姫の手を取って立ち上がると、長い髪を靡かせ振り返る。


 先ほどまで二人が立っていた場所は、大きく抉れていた。

 生い茂った草は剥げ、固くなった地面が露出する。

 何かが衝突したのは間違いないのだが、豊月の瞳にその答えとなる物体が映らない。


「晴姫。また、を感じたら今の要領で避けるんだ。気のせいでも良い。感じたらすぐに動け」


 晴姫の煌は万能の盾ではない。

 人が彼女の柔肌に触れられるように、彼女が物に触れられるように、鬼以外は煌をすり抜ける。

 故に、天狗が起こした風が彼女の髪を攫う。その風によって発生した砂塵が彼女を襲う。鬼の影響を受けていたとしても、物体は煌では防げない。


 豊月は、あの砲撃が煌で防げない攻撃であることを晴姫に示唆した。


「分かりました……!!」


 晴姫の面持ちは険しくなる。そんな姿を見て豊月は、彼女の華奢な肩に手を置くと笑いかける。


「気負うと身体が固まるぞ。すぐにあの鬼を封じるから安心しろ」


 そうして、豊月は晴姫の額を突っつくと、窪地の縁に沿って走り出した。


「鷹丸!! こっちは大丈夫だ!! 」


 その言葉が青年に届くと、彼は何も言わず、鉄槍に黄金を纏わせては大ミミズへと近づいていく。


 大口の注意を引くという役割を全うするために、その根元に躍り出る。

 彼は黄金の槍を幾度となく大ミミズへと突き刺すが、鬼は微動だにしていない。


 そんな状態を不審に思い、鷹丸は視線を上空に移した。そこにある大口は、まるで彼をいない者のように扱い、走り続ける豊月を追って、その向きを変え続けていた。


 彼女が叫ぶ。


「鷹丸!! もう十分だ!! 晴姫の側にいてくれ!!」


「……分かりました!!」


 鷹丸はその唇を噛むと、大ミミズに背を向けて走り出した。

 青年の煌はあまりにも微弱で、攻撃としての圧力は皆無。それにより、鬼の意識に留まることすらできていない。


 豊月が彼に送った戦力外通告は、晴姫の護衛という己を正当化できる気遣いで覆われていた。


 鷹丸は改めて気付かされた。この場に鬼と対等に渡り合えるのは、豊月しかいないのだ。鬼に攻撃を加えられない青年と、鬼の間接的な攻撃を防げない盲目の少女。

 自身の不甲斐なさにその拳を握りしめると、青年は斜面を駆け上がる。そして、ふと振り返る。


 大口はずっと、豊月を睨んでいた。



「強がるなよ。あと数発ってところだろ?」


 走りながら豊月は鉄砲に煌を溜めていた。静止している時よりもゆっくりとだが、着実に黄金の鞠は出来上がっていく。

 鷹丸への追撃はない。餓鬼が出る心配はない。そのことが彼女にとっては幸いだった。


 豊月は思う。

 あの鬼はしっかりと現状を理解している。

 自身の命運は、私との一騎打ちで決まるのだと。

 そして、私は一度でもあの攻撃が直撃すれば死ぬ。だが、あの鬼は一撃の砲煌では封じることができない。


「これが封師の不利なところだな」



 彼女の視線の先に映る大口は、既に大きく振り動いていた。

 グルングルンと大きく回るようにその長い胴を地面と水平に振っている。


 鬼もまた、動き回る豊月を撃ち抜かねばならない。窪地の外縁を走る敵をより狙いやすいように、その攻撃方法を変えていた。


「なるほど、投石機ではなく投石器か」


 豊月はそう呟くと立ち止まった。

 銃身をその頬に当て、振り回る大口を見据えている。


 そして次の瞬間。


 彼女は横に大きく飛び退いた。

 間髪入れずに、聞こえてくるのは衝撃音。

 豊月の瞳が捉えたのは、地面に浅い穴ができる瞬間であった。


 土飛沫がパラパラと降り落ちる。


 攻撃方法の変更によって、威力が先ほどまでより低下する。

 それを予測していた豊月は、勝ち誇ったように呟いた。


「見えた。飛ばしているのは土だ」


 鬼は、鷹丸の背を追撃する度に地面を抉っていた。その際に飲み込んだ土を砲弾として利用している。

 そう豊月は推理した。

 着弾後、砲弾は吹き飛んだ地面に紛れて消えてしまい、残るのは傷跡だけ。


「晴姫には感謝だな。詰まるところ、初撃の奇襲が失敗した時点で奴は手詰まりか」


 鬼の先ほどの砲撃は、その長い胴体を振り回したことで生じる遠心力を利用するもの。それを対象に当てようとするには適切な位置で発射しなければならない。

 つまり、攻撃の起こる場所が決まっているのだ。


 豊月はその瞬間にのみ、左右に回避すれば良い。

 彼女の持つ大気と一体になるほどの集中力と、遠距離の眼球を撃ち抜くほどの視力がそれを可能にさせる。


 大口が彼女のいる方角に差し掛かる度に砲弾は放たれる。

 その度に大地は抉れ、浅い穴が出来上がる。

 彼女は数度、確かめるように避けると大きく息を吐いた。


 豊月が構えた鉄砲。

 黄金の鞠は刃に変形し、真っ直ぐに放たれる。弱点を覆った大ミミズのトグロに深く深く突き刺さる。

 だが、長い胴体はまだ回り続けている。

 豊月の前を通過する頃には砲弾は放たれている。


 しかし、彼女には一向に当たらない。

 黄金の鞠を作り上げる豊月の横で土飛沫が宙を舞う。


 二十を超える土飛沫が上がる頃には、大ミミズの身体には数本の黄金の刃が突き刺さっていた。


 既に、長い胴体は静止している。

 ぐったりと窪地の底で項垂れている。


 あと一撃。

 それで終わる。


 豊月は最後の煌玉を作り始めていた。

 みるみるうちに完成する黄金の鞠。

 それを刃に変えるだけ。


 その瞬間。


 大ミミズがビクンと小さな脈動を起こした。


 そして聞こえてくる、晴姫の叫び声。


「豊月様!! 早く砲煌を!!!」



 グルンと大口が振り回った。

 先ほどまでとは違い、下から上へと放り投げるようなその動作。

 砲撃は豊月から大きく外れ、青空に舞う。

 高く、高く打ち上がったその砲弾、それを見上げた豊月はその目を丸くした。すぐに鉄砲を放り投げると走り出す。


 最後の煌玉は、灰のようにハラハラと崩れて消えた。




 豊月は唇を噛む。あの鬼はを持っていた。


 いや違う。それがある事に注意を向けていなかったのだ。


 絶対に彼女が避けることのできない砲弾が宙を舞う。

 クルクルと回りながら落ちている。


 青空と見まがう水色の着物。細い手足。

 おかっぱの髪型は、風で崩れている


 それは窪地の中央にあった餌。

 鬼は飲み込んだ女の子を必中の砲弾としたのだ。


 豊月はその着弾点に走る。

 鷹丸達のいる地点とは真逆。彼女にのみ救うことのできる命。



「鷹丸ー!!! あとは頼んだぞ」


 豊月は両手を伸ばし、飛び込んだ。

 女の子の重さがその細腕にのしかかる。

 落下の衝撃は全て彼女の骨に、大地がその圧力を逃さない。


 彼女の腕が鈍い音を立てた。



 舞い上がった砂埃を見て、鷹丸は目を伏せる。その鉄槍を握り締め、空いた右手で自身の胸に手を置いた。


「晴姫様。豊月さんを連れて町へ戻ってください。彼女と女の子をすぐに医者に診せないといけない」


「鷹丸様は!? 鷹丸様はどうされるのですか!?」


 鷹丸はゆっくりとその目を開く。晴姫は錫杖しゃくじょうを抱き抱えていた。


「全員でここを去れば、あの鬼は我々を喰らおうと死に物狂いで追ってきます。晴姫様の煌ならトドメをさせるでしょう。ですが、その間にあの二人を守りきれる保証がありません。ですから、私があの鬼をなんとかします」


 晴姫は「でも……」と言葉を濁す。

 そんな様子に鷹丸は、笑い飛ばすように言葉を発した。


「心配しないでください! 私は不死身ですから。頃合いを見て自害します。天狗との取引を達成できなくなりますが、餓鬼があの鬼を喰らってくれます。それで私達の勝利です!」


 鷹丸は窪地へと向き直る。

 息絶え絶えの大ミミズは、ニンマリとその大口を歪ませ豊月の方角に首を向けていた。

 奴に動く気配はない。それだけ、あの鬼も弱っている。なんとしても窪地に入った人間を喰らおうと、躍起になってくれるはず。


 そう思い鷹丸はその一歩を踏み出すと、晴姫は彼の着物の袖を掴んで引っ張った。


「そんなのダメです……。なら、私があの鬼を倒します」


「無茶です。既にあの窪地は凹凸おうとつだらけで足元が不自由です。ここで貴方まで負傷してしまえば、女の子の命を救えません。全員で町に戻るのに時間がかかり過ぎてしまう。わかってください」


 晴姫はキュッと袖を掴む力を強める。

 何かを探すように俯く姿に、鷹丸はさらに諭すように語る。


「もう頼れるのは餓鬼しかいないのです……。餓鬼なら……」


「どうしてですか……?」


 鷹丸の言葉を引き裂くように、晴姫は言った。袖を掴む手を離すと、声を震わせて、鷹丸の胸に小さな拳をぶつける。


「どうして……どうして鷹丸様は自分自身よりも餓鬼を信じているのですか……!? どうして、餓鬼に最も苦しめられている貴方様がその力に頼ろうとするのですか……!?」


 晴姫はその拳で小さく、鷹丸の胸を叩く。


「あの鬼を封じるだけの力を鷹丸様は持っています。それは餓鬼などでは決してない……! 自分自身を信じてください!!」


「信じれるわけがないでしょうッ!?」


 鷹丸は張り倒すような言葉を彼女にぶつけると、自身の目元を右手で覆う。


「私は、晴姫様が思うほど立派な人間ではありません……。貴方ほど強くはない。貴方ほど崇高ではない。貴方ほど……! 清くはない……!」


「そんなこと……」


「晴姫様……。気づいておいでですか? 私は一度も……貴方を守れたことがない……」


 青年の右手の隙間からツーっと涙が流れ、その水滴がポツリと晴姫の拳に落ちる。


 その感触に晴姫はハッとさせられた。

 二人が出会った日、鷹丸は突如現れた牛鬼に殴り飛ばされた。

 鬼灯城では白飾様の前で自害し、餓鬼に運命を委ねた。

 最乗寺では天狗に頭を潰され、仲間を危険に晒した。


「私は、何もしていないんです……。晴姫様の危機に、何もできない……。こんな自分を信じる事なんて……」


 鷹丸の絞り出すような窮屈な声を聞いて、晴姫はその額をそっと、彼の逞しい胸板に当てる。


 晴姫は、鷹丸の持つ苦しみの全てを理解していない事に気づかされた。


 彼が死に瀕する事がなければ、餓鬼は出てこない。


 自分が傷を負わなければ。

 自分が戦わなければ。

 自分があそこに行かなければ。


 あの人達は死ななかった。


 餓鬼によって起こる不幸は全て、鷹丸の行動によるもの。

 それによる後悔。絶望。

 それによる自己嫌悪。


 それを鷹丸は、晴姫に


「鷹丸様……! 私にはわかります。貴方の胸の中ここにはまだ、煌が囚われています。お願いです。餓鬼になんて頼らないでください……。お願いです……」


 鷹丸は晴姫を振り払うと、真っ直ぐに窪地へと歩いていく。

 斜面を下り、大ミミズへと歩み寄る。


 青年は目を瞑る。そこに映るのは暗闇で、どこか冷たい。


 青年は目を開ける。そこに映るのは暗闇で、大地を抉りながら迫るその姿は禍々しい。




 大ミミズが鷹丸を飲み込んだ。

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