鬼のいぬまに
しまうま
第一章 旅は道連れ
第1話 黄金と黒
茅葺き屋根に低い壁、質素な家屋からヨボヨボと一人の老爺が現れる。黒い
綺麗に着飾った老人は腰をさすりながらすこし歩くと、隣接する牛小屋の前で立ち止まった。
「すまないね。二週間も家畜の世話を任せてしまって……」
老爺が声をかけたのは若い青年で、一頭の牛に水を与えている。
真っ黒な小袖の着物を着た彼は、そんな老爺の声に目を丸くして振り返る。後ろに束ねた黒髪が揺れた。
「もう腰は大丈夫なのですか!?」
「ああ、すっかり良くなった。旅人の君がわざわざ助けてくれなければ、この牛は痩せ細って私は生活が出来なくなってしまう所だった。本当にありがとう!」
老爺は腰をゆっくりと曲げて深々と頭を下げる。
「頭を上げてください。私はただ餌やりをしただけです。それよりも今日、この牛を地主に売りに行くのでしょう? お爺さんが手掛けた最後の牛を送るのに私も御一緒して良いですか?」
「ああ、勿論だとも。気遣いをありがとう」
老爺は去年に妻を亡くしている。この牛を売り、そのお金で慎ましく隠居しようと考えていた。
老爺の最後の仕事が無事に終えられるようにと、青年は最後まで寄り添おうと決めていたのだ。
青年は近くに置いてあったボロい紺色の風呂敷包みと鉄槍を軽々と担ぎ、手綱で牛を引く老爺の後ろをついて行く。
田畑、林を抜けると町が見える。その町に地主の家があるのだ。
町は多くの人で賑わっている。活気ある商人の声と住人の笑い声。お
「今日は縁日だったんですね!」
青年は思わず声を上げた。
「ああ! 毎年、この時期に行われる豊穣を願う祭り。そのお供えとして、神様に町一番の牛をお召しになっていただくんだ」
「もしかしてこの牛が?」
青年の問いに老爺は拳で胸を叩く。
「そうだとも。ここ二十年、わしの牛が選ばれ続けとるのだよ! 君はわしの牛飼い人生の締め括りを繋いでくれたんだ」
二人が町の中を進んでいくと町人達が次々と声をかけてくる。それは立派な牛を育て上げた感謝の言葉、これまで働き続けてきた労いの言葉であった。
老爺は、地主の家までの道のりを凱旋のようにして進んで行く。いつの間にか曲がっていた背筋は伸びて、堂々と大通りを歩んでいく。
着々とその館の姿が大きくなっていく。
だが
突然、大人しかった牛が鳴き喚き、手綱を振り解くように暴れ出したのだ。老爺は必死に牛をなだめるが落ち着く気配はない。
「一体どうした!?」
老爺がその全身を使って手綱を引っ張りだすと、青年も急いで助けに入る。そんな時、二人が通ってきた町の後方から男の叫び声が響いた。それはお囃子の音を遮る恐怖の音色。
その悲鳴はプツッと途切れ、綺麗な弧を描き何かが二人の方へと飛んでくる。青年の足元にその何かが転がった。
「な……!?」
それは男の生首であった。断面には引きちぎられたような痕がある。町人達に恐怖の音色が伝播していく。
そして、存在を誇示するかのように大きな足音がずんずんとこちらに近づいてきていた。
誰しもが息を呑み、冷や汗を垂らし周囲を見回している。地鳴りにも似た振動と音に膝が震えている者もいる。
ふと、足音が消えた。
少しの静寂をかち割るようにドカンと民家が大破する。
木製の長屋を破壊し現れたのは
それは歪んだ笑みを浮かべたバケモノである。さらにその後ろから、同様の姿をしたもう一体が遅れて姿を表した。
「お、お、鬼だぁあああ!!!」
誰かが叫ぶ。
「
「祭事の準備で地主の家だ!」
「誰でも良い! 早く呼んでこい!!」
一人の男が走り出した。地主の家までまだ距離がある。封師はすぐにはやってこない。にもかかわらず、それ以外の男達は息を飲み、その場を動こうとはしなかった。
「何してんだよォ!! 早く逃げろ!!」
青年が町人達に叫ぶが誰も反応を示さない。
別の町人がどこに備えていたのか、刀・
「正気か!? 死ぬぞォ!!」
青年がそう叫ぶが誰も聞く耳を持たない。何かを振り切ったように雄叫びを上げた一人の男が、鬼に立ち向かった。鬼の一体を手に持つ刀で斬りつける。だがその瞬間、甲高い金属音と共に男の手からするりと刀が地に落ちた。まるで鉄塊に打ちつけたかのように硬い身体。その一撃だけで男の手は痺れてしまっていた。
鬼の体には傷一つ付いていない。
強張ったその男の顔を、鬼は不気味な笑みを浮かべ眺めていた。
真っ赤で大きな右手が、男の顔に影を作る。そんな影とともに鬼はその者の首を包み込むと、容赦なく片手でへし折った。
軽々と男の身体を鬼は持ち上げ、口元へ運ぶ。力無く空中に垂れる手足からは、既に彼は空っぽであることを示していた。
鬼は男の肉を咀嚼している。すぐにゴクリと喉が鳴る。そして、手に持つ食べかけの亡骸をゴミのように背後へと放り投げた。
青年に驚きはなかった。
こうなると分かっていたから、逃げろと言ったのだ。封師以外に鬼に対抗できる者はいない。町人達がこのまま対峙しても、鬼に一切の影響を与えない。それを青年は知っている。
目の前の老爺だけでも逃さなくては。その一心で彼の袖を青年は掴むが、この場を老爺は動こうとしなかった。
その間、数人の町人が鬼に襲いかかるが結果は全て同じである。だが、そうだとしても誰一人として逃げようとはしなかった。
「何をしているんだ……!? あんなの命を捨てるようなものじゃないか!!」
青年がそう声を荒げると老爺がとうとう口を開いた。
「ここで逃げたら、足の遅い女・子供が喰われてしまう。旅人さんにはわからないだろうがね、町を守るには盾になる人間って奴が必要なのさ。それが男衆の役目。数秒でも奴らの気を引けるのなら本望よ……」
ここにいる町人は、喰われる為に鬼と対峙している。
「旅人さん……。本当にありがとう。貴方一人で逃げなさい。これ以上、わしに若者の死を見せないでくれ」
ひとり、またひとりと人間が肉塊に変わっていく。
そのひとつひとつの断末魔が、青年の心を鞭のように傷つけていた。
逃げたい。逃げなければ。悲劇はもう見たくない。だが、この人達はどうなる!?
そんな葛藤の最中、老爺の姿が青年の目に映る。
震えた手で鍬を拾い上げる彼の目は死を受け入れていた。
年老いたあの肉体が血にまみれる光景が青年の頭に浮かぶ。
葛藤はそんな悲劇に覆い隠された。
「……。私が、私が時間を稼ぎます!」
青年は鉄槍を構えた。
「旅人さん。気持ちは嬉しいが、それこそ命を捨てる行為だ! 君がそこまでする義理はない!」
老爺の言葉に青年は応えなかった。青年が左手に力を込めると黄金の光がたちまち溢れ出し、握った鉄槍へと流れていく。
「アンタ、
誰かがそう叫んだ。
「初歩の
青年は、恐怖を押し殺した神妙な顔で鬼を見ている。だがその恐怖は、町民達とは異質なもののように老爺は感じた。
青年は雄叫びを一つあげると鬼の一体に襲いかかる。
地にできた血溜りを踏んで跳躍し、鬼の顔に目掛け槍を突く。
それを呆れたように見ていた鬼だったが、黄金が迫ると目を見開き、咄嗟に顔を逸らしたのだ。
青年の槍の速度と鬼の反応速度の僅かな差異。そのせいで完全には避けきれなかった鬼の頬には擦り傷がついている。
いや、それは傷ではない。
槍の黄金が鬼に付着していたのだ。さらに青年は鬼の腹を足場とし、もう一撃顔を目掛けるが、鬼の岩のように大きな両手が青年の体を押し潰そうと左右から迫る。
逃げ場のない空中に彼は取り残された。
鬼は人とは比べ物にならないほどの筋力を持っている。捕まれば自力で逃げ出すことはまず不可能。一握りで人などは肉塊に変わる。
青年は槍を回し、背後に槍と体とで十字を描くように構えた。それは丁度、鬼の手が迫り来る位置。鬼は自身の力によって槍を挟み、刃のあった右手に浅く突き刺さった。
鬼は痛みからか悲鳴を上げた。それはまるで獣の咆哮。右手の傷跡には黄金の光が残っている。
町人達の歓声が上がった。
「いや、ここからが本番だ……!」
鬼の目が血走っている。これまでは弄ぶように非力な人間を殺していたが、傷を負った事で完全な戦闘状態に入ったのだ。
鬼がもう一度咆哮する。敵意を剥き出しにしたその怒号によって、黄金の傷跡はかき消されてしまう。
「やはり、俺の煌術じゃ……」
鬼は青年を叩き潰すべく、両の拳を地面に叩きつけた。大地が揺れたような気さえする、それほどの怪力。
大振りなため、即座に躱すことができるのだが、青年の視界はその風圧による砂煙によって覆われてしまう。
まずい!!
咄嗟に後方へと青年は飛ぶと、超高速で動く赤色の物体がその眼前を通り過ぎたのだ。
それは鬼の繰り出した大きく薙ぐような平手打ち。一陣の突風が砂煙を吹き飛ばした。
鬼は徐々にその勢いに任せ、攻撃を加速させている。
それを必死に青年は避けている。
気づけば彼は、鬼の背後をとっていた。
だが、青年の槍は地面を向いている。
鬼が大きく隙を作ったにもかかわらず、青年は攻撃を加えることができなかった。そのことに町人達は顔を見合わせる。
何度も何度も、攻撃の機会が青年に訪れる。だがその度に青年の足は止まり、槍を引く。
「どうしたんだい旅人さん!? アンタ、何をそんなに
老爺が叫ぶ。
青年は明らかに逃げていた。怯えるように防御に徹しているその姿は次第に町人達を不安にさせる。
「気をつけろ!! 横だ!!!」
誰かの叫び声が青年の耳に届く。彼は咄嗟に視線を送ると眼前に真っ赤な粗肌が迫ってきている。
それはもう一体の鬼が青年を蹴りつける瞬間だった。
「な……!」
青年は体を翻し後方に回避する。鬼の長い爪が彼の頬を軽く抉り、血飛沫が宙を舞っている。
二体目の鬼はこれまで、青年には目もくれず死んだ町人を喰っているだけだった。しかし、ここに来て突然襲いかかってきたのだ。腹が満たされたからか、あるいはもう一体を見兼ねてかは分からない。だが、その気まぐれで青年との均衡は完全に崩壊した。
咄嗟の回避によって彼はその体勢を大きく崩している。両の膝を地面につけてしまっている。鬼にとってそれは絶好の好機。青年は疲労もあってか、すぐに立て直すことが出来ず、いとも容易く鬼に捕らえられてしまった。
鬼は不敵に笑い、ゆっくりと両手に力を加えていく。青年の骨は軋み、歪み、ゆっくりと折れていく。
その悲痛の叫びを聞いて鬼はガハガハと笑い声を上げた。その大口から垂れる涎。青年の体からは血が垂れている。
「
そんな敗色を穿ったのは男の勇ましい号令であった。
青年には目もくれず、再び死肉を漁り始めたもう一体の鬼を複数の黄金の光が貫いたのだ。それは矢ほどの大きな針状の光。
町人達の視線の先は左右の長屋の屋根の上。そこに二人ずつ笠を被った僧侶が鉄砲を構え立っていたのだ。
そして、町人達の背後からシャンッシャンッと
「
「遅くなって済まない……」
老いた封師は無惨に転がる亡骸と町人達に向けて、唸る様に言った。
ドドドと大きな足音が響く。
光の矢を受けて、血走った目を大きく見開いた鬼が老いた封師に向かいその拳を振りかざす。すると、彼はその錫杖を地に突き立てた。シャンッと鳴ったかと思えば、その地に現れたのは半透明な黄金の障壁。それが道幅と同じ大きさに生じ、鬼の攻撃を防いだのだ。
「砲煌!!」
老いた封師が叫ぶ。屋根の上の封師達が鉄砲から黄金の光を発射する。静かな攻撃。風を切る音が町人達の耳に届く頃には、光が鬼を貫いていた。
そこからは簡単であった。鬼は障壁を壊せず、体を次々に貫かれていく。鬼の体の大部分を光が覆うと鬼は苦しみ出し、縮み、最終的には小さな黒い石へと姿を変えてしまった。
「まずは一体。封印完了」
老いた封師はもう一体の赤鬼を睨む。
鬼は怯えた表情を初めて見せた。力が抜けたその両手から青年は、まるで人形のようにするりと落ちる。
「旅人さん!?」
老爺が叫ぶ。
青年の体は既に潰れていた。意識はなく。血を吹き出し、関節はあらぬ方向へ曲がっている。
死んだ。誰の目にも明らかに死んでいた。
だが、その時
青年の体に異変が起きたのだ。
全身の毛穴から伸びるように黒い何かが溢れ出てくる。
それは漆黒の炎であった。
青年の全身を覆うように燃え上がっては、ゆらゆらと揺れている。まるで水墨画の筆遣いのように濃淡のある繊細な炎が新たな体を作っている。
黒炎に包まれたソレが立ち上がると、老いた封師はその禍々しさに目を見開き、錫杖を強く握る。
「鬼か……!?」
全身が漆黒に燃える鬼。そんな炎の隙間から覗く鋭い爪と牙。身体の大きさは青年であった時と変わらない。
頭から背中に伸びる一本の縄のような炎が風に揺れている。
突然、漆黒の鬼が持つ真っ赤な目が光った。そして、咆哮が轟く。
先ほどの赤鬼とは格の違う、聞く者に死を連想させる。そんな
気がつけば、赤鬼の腹わたは切り裂かれていた。その横には漆黒の鬼が立っている。奴が舐めるその禍々しい左手からは、ドス黒い血が滴っている。
赤鬼がその場に崩れ落ちると、大きな砂埃が宙に舞った。
赤鬼はピクリとも動かない。漆黒の鬼はその真っ赤な腹に跨ると、その血肉を貪り始めた。千切り、咀嚼し、飲み込む。両手で肉を口に運んでは
目の前の光景に町人達はざわついていた。青年が鬼へと変わり、人を喰うはずの鬼が鬼を喰っている。
「封師様!? あの怪物はなんなんですか!?」
「鬼を喰う鬼など聞いたことも……」
老いた封師は言葉を詰まらせた。
漆黒の鬼はまるで飢えているかのように、肉を貪り喰っている。
ふと、老いた封師の脳裏に何かが過った。あの異様な姿を聞いた事がある。いつ。どこで。考える。そしてすぐに、思い出した。
それは若かりし時、尊敬する師が語った伝説。
「餓鬼か!! お前は!!」
漆黒の鬼はその顔を上げると、辺りを見回し始めた。その姿に町人達は小さく声を上げる。その視線の向く方向から小さな悲鳴が上がる。
明らかに漆黒の鬼は何かを探している。
すると、その視線が老爺の前でピタリと止まる。
鬼の顔が老爺の目にはっきりと映る。
右目から口にかけての一部分だけが元の青年の顔に戻っていた。
「逃げ…… て……」
青年は涙を流していた。
「旅人さん……。アンタ……!」
「砲煌!!」
青年の部分に黄金の光がつき刺さる。だが、すぐにその光は黒い炎に呑まれ消えてしまう。
もはや青年の姿はそこにない。
漆黒の鬼はまた一つ咆哮をすると老いた封師に近づいていく。
「
老いた封師は力強く、錫杖で地を叩いた。すると、先ほどよりも分厚い黄金の障壁が漆黒の鬼を阻む。
漆黒の鬼は障壁を破壊するべく、燃える拳を黄金に叩きつけた。その衝撃が音となって町中に轟いている。
封師は絶句した。赤鬼が傷一つ付けられなかった障壁にヒビが入っている。そしてもう一発、もう一発と拳が叩きつけられる度にそのヒビが大きくなっていく。
屋根の上の封師達は砲煌を打ち続けていた。だが、漆黒の鬼が倒れる気配は無く。光は漆黒の炎に呑まれていく。
「煌壁ィ!!!」
老いた封師がもう一度錫杖を地面に叩きつけようとする。
だが、間に合わなかった。
黄金の障壁は粉々に割れ霧散する。鬼は息を荒くし、老いた封師に牙を向けた。
青年が意識を取り戻すと、既に陽は傾き、空を赤く染めていた。そして、地面を見ると大地も同様に赤く染まっている。食い散らかされ、誰ともわからない無数の死体が散乱する光景を見て青年は立ち上がることができなかった。
青年は泣き叫んだ。これが彼の恐れていた事。青年はその身に鬼を宿していた。彼が死に近づくと奴が現れる。その間に意識はなく、目が覚めれば傷は跡形もなく癒えている。だが、辺りは必ず血で染まっているのだ。
「俺が誰かに近づいたから……」
青年は槍を背負う。この町は封師を失った。次に鬼が来れば町は終わる。彼が与えた傷は犠牲者の数よりもずっと大きかった。
「この鬼を封じてくれる人を探さなければ……」
これが青年の旅する理由。
彼は涙を拭い歩き始めた。振り返る事などできない。大量の骸を背に、夕日に向かい真っ直ぐに歩くのだった。
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