第19話 黒の世界

 生暖かい空気が滞留している。

 ジメジメとして生臭い。

 どんよりとその身に纏わりつくような大気が、青年を包んで離さない。


 鷹丸は鬼の口腔内で佇んでいた。

 上下左右はぬめりのある肉壁でできている。そこに強く鉄槍を突き立ててみるが、カーンと甲高い音が鳴るのみで、その音は響かない。


「大口からはそう離れていないはず。ただ、それが前か後ろか……」


 自身の手すら見えないほどの暗黒がこの空間を支配していた。

 鷹丸は大口に飲み込まれた衝撃で転がり回った。口腔内の無数の歯に身がこすれ、それによってできた小さな傷達は、微弱な痛みでそれぞれの居場所を示している。

  

 鷹丸は取るに足らないその信号を思考の隅に置くと、足元にあった視線を上げて前に向けた。


 青年は直視する。


 自分自身が目を開けているのか、閉じているのか、それがどうでも良いとすら思えるほどの暗闇。

 夜よりも深く、影よりも濃い、色という色を全て呑み込んだと感じるほどの黒。

 それが眼前に広がっている。


「晴姫様は、いつもこんな景色を見ているのだろうか……?」


 ポツリと心の内から言葉が漏れた。


 寂しさすら感じないこの景色。

 己の存在すらも次第に黒に呑み込まれそうで、己の心すらも黒に支配されそうな世界。


 この世界に出口はある。

 だが、彼女の黒の世界にはそれがない。


 永遠に続く、終着のない闇。

 逃げ場のない迷宮。

 誰も彼女の世界には入れない。

 誰も彼女と同じ世界を歩めない。


 そんな、定められた孤独を想像するだけで立ち止まり、うずくまりたい気持ちになる。

 頭を抱え、その身を震わせ、目を背けたい。


 ああ、こうやって精神すらも黒に侵されていくのだろう。



 そんな思考の最中に、とある光景が鷹丸の頭をよぎる。


「これほど恐ろしい世界で生きる晴姫様に、私はあんな顔をさせたのか……?」


 私の袖を掴み、胸を叩き、小さな額をこの身に預けた。その合間に見せる表情は一言では言い表せない。触れれば崩れてしまいそうなあの顔は、彼女の弱さだったのではと今では思う。


 あの時、餓鬼は私にとっての黒なのだと晴姫様は訴えていた。だから、呑まれてはいけないと、光は必ずあるのだとあんなにも必死にこの身を制止していた。


 胸に残る彼女の温もりにそっと、手を置いてみる。


「この身体には餓鬼が潜んでいる……」


 数々の命を喰らい尽くした悪鬼がここにいる。

 己の過ちでコイツは現れ、己の驕りでコイツは人々を蹂躙する。



 私に鬼を倒せる力が眠っている?

 私の煌はまだ囚われている?


「ふざけるな……!」


 床がゆっくりと傾き始める。

 次第に立っていられなくなり、その傾斜によって穴の奥へと滑り始める。

 だが、青年はまだ自身の世界を彷徨っていた。



 ふざけるな!

 眠っていたんじゃない。

 囚われていたんじゃない。


 お前は怯えていたんだ。


 黒の中で立ち止まり、うずくまり、頭を抱え、その身を震わせて、目を背けていた。

 

 黒は怖い。

 お前を理解できる。 


 だけど、私は立ち上がりたい。

 立ち向かいたい。

 逃げたくない。


 晴姫様のように!!!



 出てこいよ……!!

 彼女が信じてくれてるんだ……!!

 彼女が待っているんだ……!!

 いいから応えろ!!!




 暗闇が逃げるように青年から離れていく。

 鷹丸の目は眩み、一瞬だけ世界は白に変わる。

 しかし、すぐに世界は元に戻ってしまうのだ。真っ暗な闇が迫ってくる。

 にもかかわらず、黒が青年に纏わりつくことはない。

 まばゆい光が鷹丸を守っていた。


 鷹丸の左手から溢れる煌が握った鉄槍に伝わっていく。

 黄金は烈火の如く猛々しい揺らめきによって、一本の槍を変化させていく。

 一振りで岩をも穿つ鋭さと、一振りで周囲を傷つけてしまいそうな荒々しさ。

 戦乱の世の豪傑が振う業物のような気配を帯びて、鉄槍は黄金の大槍となった。


 鷹丸はその大槍を強く握りしめると、垂直にまで傾いた床が伸びる先を睨む。


 青年は黄金とともに落ちていく。

 深く深く潜っていく。


 見えない底の存在を感じ、青年は大きく槍を突き立てた。




 気がつけば青年は、深い穴の底で空を見上げていた。


 上空に伸びる黒からの出口。

 澄み切った青色は鷹丸が歩むべき世界だ。


 ふと青年はその青空から目を逸らす。

 彼の足元に転がる黒い石を手拭い越しに拾うと、そのまま包んで懐へ入れる。


 鷹丸の心に安堵はない。

 この鬼を弱らせたのは豊月で、青年はトドメを刺しただけに過ぎないのだ。

 その事実を彼は曲げない。驕らない。


 青年は穴をよじ登る。

 だんだんと世界は明るくなり、青空が少しずつ近づいてくる。

 出口にやっと辿り着き、彼の世界に足をつける。


「鷹丸様!!」


 そこには晴姫が立っていた。

 細い腕にいくつもの擦り傷。その着物には砂埃が付いている。

 その様子と荒い息遣いが、彼女がどれだけ慌てていたのかを物語っていた。


 鷹丸は晴姫の頭に右手を置いた。

 彼女の髪についた砂埃を優しく払い落とす。


「晴姫様のおかげで煌を引き出せました。ありがとうございます」


 彼女の顔はパッと明るくなると、その柔らかな頬を緩ませる。


「お役に立てて嬉しいです! 」




 鷹丸は彼女の笑顔に影を落とす。


 青年は依然として自分自身を信じない。自己嫌悪は変わらない。


 それこそが自身が死に追いやった者達を背負うということだ。無数の骸を生み出したことへの責任だ。

 そう青年は心に刻んでいる。



 もう晴姫様には気づかせない。悟らせない。

 彼女が笑っていられなくなってしまう。私にのしかかる骸達を一緒に背負うと言いかねない。


 晴姫様の世界に、この黒はいらない。

 彼女の心に、この汚れはいらない。


 鷹丸はそう決意し、晴姫を連れて窪地を離れた。




 鷹丸と晴姫は、豊月と女の子を連れて急いで町へ。




 天狗の言った封じる鬼はあと一体。

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