第20話 水と月
名前のない女児がいた。
彼女は天涯孤独などではなく、唯一の家族として母親がいる。しかし、その母は彼女の名前を付けるどころか、彼女に向けて声を発したこともない。
食べ物も衣服も何もかも、母親から与えられたことはなかった。
故に、女児はある意味の
愛がないこと以前に、母は自身に関心がない。それと同じように世界もまた自身に関心がない。
しばらくしてやっと、これを彼女は理解した。
それでもなお、いくつもの町を転々とする母を追って女児は旅をしている。
近づくだけで無言の暴力が飛んでくるため、母と間隔を空けて女児は歩く。
年月とともにだんだんとその距離が伸びていき、今では彼女の足音すらも母親の耳には届かない。
このような状況でなぜ、その女児は母親に着いていくのか。
それは生きるためであった。
彼女の母はぞんざいな人間で、食べ物を買い漁ると食べきれなかった分は道端に捨てていく。
二日に一回はこのようにして食事にありつけるため、これまで女児は食い繋ぐことができていた。
生きる術も、つてもない女児は皮肉にも母親によって生かされていた。
*
とある日の夜。
名前のない女児は水面に映る満月を眺めていた。
相模国のとある町。そこに軒を連ねる長屋の裏をひっそりと流れる小川は用水路で、コオロギが優しい賑わいを夜にもたらしている。
女児はそんな小川の前でポツリと膝を抱え込んで座っていた。
体格から推察するに四から六歳。色褪せた赤色の着物は少し彼女の背丈には小さい。幾つもの小さな穴とシミが着物に不潔な模様を作っている。
女児はポリポリと右手で頭を掻く。
その雑に切られた坊主頭にハエが留まる。シラミが湧いたことで刈り込んだ髪。身体を清潔にするという事を知らない彼女はツンと鼻につく匂いを放っているのだが、その事を自身では気付けていない。
ポツンとひとり。
独りの彼女は夜になると必ず月を眺める。
夜空でその存在を主張する堅牢な姿を見上げるのではなく、彼女はゆらゆらと水面に漂う朧げな姿を見下ろすことを好んでいた。
その感情は蔑みではない。それはわかっているのだが、自身の感情の起因を紐解けるほど彼女は成熟していない。
女児は瞼を閉じる。
揺らめく月に「またね」と心の中で呟き、今日という一日を終わらせる。
意識は次第に暗闇に沈む。
眠りへ。
「あれー? 先客がいるじゃん!」
突然降りかかった男の声が、女児を眠りから引き上げた。
軽々しくも春風のように暖かい若い声。
咄嗟に女児は振り返ると、その目に映ったのは若い封師の立ち姿であった。
歳にして15かそこら。まだ少年の名残がある不完全な青年で、身に纏った法衣は少し大きい。
女児とは違いよく整えられた長めの坊主頭と、くっきりとした目鼻。爽やかな笑顔と右目の下の泣きぼくろが、月明かりによって不思議な魅力を生んでいる。
そんな若い封師は何の躊躇いもなしに彼女の横に腰を下ろした。
その行動に女児は目を丸くする。
彼女の目に映るその封師の横顔とその瞳は純然で、夜空の満月が写っていた。
「今日の月はいつもと違うんだって。中秋の名月? よくわからないけど綺麗だねー!」
そう言って封師は笑顔を女児に向ける。
「君は月が好き?」
そんな問いに彼女は少し間を置くと、か細い声と共にもう一つの月を指差して言った。
「こっちの方が……好き」
「水月かー。これもなかなかに乙だね」
そう言って若い封師は交互に二つの月を眺めては感嘆の声を上げている。
女児はそれをまじまじと眺めていた。
「楽しそう……」
ポツンと女児の小さな口から漏れ出た言葉に、若い封師は人差し指で右頬を掻く。
「はしゃぎ過ぎかな? 最近は修行修行でなかなか寺から出れなくてさ」
微笑む彼は自身の唇に右手の人差し指をそっと置く。
「こっそり抜け出してきたってわけ。今日会ったことは内緒にしてね」
女児が小さく頷くと、封師は「ありがとう」とまた微笑んだ。
月を見上げる封師と月を見下ろす女児。
片方の笑顔につられ、もう片方の頬も緩む。
少しの暖かい沈黙が秋の夜に生まれた。
心地よい静けさにコオロギすらも酔いしれている。
そんな中で放たれた若い封師の春風のような声が沈黙を包み込んだ。
「お腹空かない?」
そう言って彼は自身の懐を弄ると、
丁寧に紐をほどき包は開けられる。
そこには不恰好な麦飯のおにぎりが三つ並んでいた。
「団子があれば良かったんだけどね。うちの寺じゃこれが限界」
若い封師は三つの内の一つを手に取ると竹皮包を女児の前に差し出す。
彼女は恐る恐る手を伸ばすと指先でチョンとおにぎりに触れる。
女児はその感触に、たまらずアッと声を漏らした。
彼女にとって麦飯は硬く乾燥したもの。口の中でふやかして食べる物。
しかし、そこにあったものは柔らかい。
彼女の手よりも大きいふっくらとしたおにぎりを両手で優しく慎重に掴むと女児はまじまじと見つめてから口へ運ぶ。
大きな口でかぶりつくと米粒がほろほろと口内で崩れ、その食感を隅々まで届けてくれる。
「おいひぃ……」
「ほんと!? 良かった!」
女児は小さな口で頬張り、噛んで飲み込む。
彼女がおにぎりを噛み締めるたびに、その瞳がだんだんと潤んでいく。次第にそれは大粒の涙となって、ポロポロと赤い着物に落ちていく。
「あれ? なんで……?」
女児にはその涙の理由がわからなかった。
壊れたように涙だけが、その瞳から溢れてくる。
そこに悲しさはない。苦痛もない。なのになぜか止まらない。
「心が何かに気づいて欲しがっているんだよ」
その様子を見た封師が優しく言った。
「何か……?」
「なんだろうね? その答えを僕は持ってない。それは自分自身じゃないとわからないことだから」
女児は視線を落とす。
「答えを見つけてあげて」
封師の言葉に女児はコクンと頷いた。
女児は考える。考える。
ふと気がつけば、彼女のその視線の先には水月があった。
ゆらゆらと水中に漂う黄色。その愛する姿を見て女児は初めて自身の心と出会った気がした。
深く深くそれを見つめていると何かが伝わってくる。その何かに女児は身を委ねる。
いつのまにか彼女は頭ではなく、心で思っていた。言語化ができるほど女児は成熟していない。故に声には発せない。故に心で思うのだ。
見えるけど存在しない。触れない。
この偽物の月が私は好きなんだ。それはきっと、この月に私自身を重ねている。
誰の目にも私は映っているはずなのに、私の周りには誰もいない。誰も近づかない。
私が近づけば誰もが離れていく。母すらも冷たい視線を突き刺して、大きな壁を作ってしまう。
誰とも関われない私は偽物の人間なのだろう。
だから、いつも仲間外れなんだ。
この世界に存在しているようでしていない。
世界からも外れているんだ。
じゃあなんで私は、この月が好きでいられるんだろう。
冷たい水に捕まった、この空っぽの何を愛しているんだろう。
ああ、そっか。
私が生きていくにはこの生き方しかないんだ。
偽物としての生き方が私をここまで来させてくれた。たぶんこれからも、変わらずに生きていける。
なら、愛着も湧くよ。好きになっちゃうよ。
女児はいつのまにか、しゃくり上げるように泣いていた。
涙だけではない、表情が、体が自身の感情に従っている。
「嫌だぁ……本物になりたいよぉ……」
嗚咽混じりに女児は泣きじゃくる。
泣いて泣いて、涙は枯れて、汚れた肌に涙の跡がくっきりと残っていた。
泣き疲れた彼女は水月から目を逸らしていた。
「ねぇ」
封師の声が彼女に染みるように届く。
秋夜の肌寒い風が水面を揺らす。
「君も封師にならない?」
風が水の牢獄を削り、囚われた月は水面から少し顔を出す。
「封師になるにはね、これまでの人生を捨てて生まれ変わらないといけないんだ」
「生まれ変わる……?」
「そう。戒名っていう新しい名前を名乗ってさ、これまでの自分を捨てるんだ。修行をして大勢の人を守る。みんなから尊敬されて感謝される人になれる」
その言葉に女児の中で何かが拓けた。やっと息が吸えたような、清々しい秋の空気が肺を満たす。
いつのまにか彼女は立ち上がっていた。
*
相模国のとある町。そこに軒を連ねる長屋の裏をひっそりと流れる小川は用水路で、ひしめき合うように生えた草花が夜風を受けて鳴いている。
そんな小川を前に豊月はポツリと座っていた。
添木のついた右腕は首から吊るした布で固定され、左頬に貼られた湿布といくつもの擦り傷が月明かりに照らされている。
彼女は少し咳き込んでは、虚な目で水月を眺めていた。
「助けられなかった……間に合わなかった……」
窪地にいた女の子は息を引き取った。
豊月が目覚めると鷹丸は視線を落としてそう言った。
町についた時にはもう手遅れで、すでに呼吸はしていなかったと彼は告げた。
「
夜風が豊月の髪を揺らす。
「そうですね……私が弱いからです。私が未熟だから、あの子は死んでしまった……。偽物は生まれ変わっても偽物なのですね」
水月が揺らめいている。ゆらゆらと水の牢獄の中で溺れている。
「
豊月は大きく息を吐いた。
そして、ゆっくりと傷む身体に力を入れて立ち上がる。
「そうですね。あの二人を絶対に失いません。兄さんが出会うはずだった、天賦の才を持つ晴姫。本物でありながら偽物になりかけている、鬼をその身に宿した鷹丸。あの幸運と不幸との出会いがきっと
そっと豊月は水月に背を向ける。
踏み出した小さな一歩。
彼女の背中を押す夜風は少し肌寒い。
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