第二章 鷹の巣立ち

第29話 雛鳥と雪

 小さな川が銀色に輝いていた。簡単に飛び越えられそうな狭い川幅を清らかな水が流れ、穏やかな風が草花を揺らしている。


 そんな温和な空間に騒音が一つ。

 ピーピーと雛鳥が喚いていた。


 紺色の小袖姿の少年の手の中で、ジタバタとその雛鳥は暴れている。

 まだ幼い少年は後ろに結んだ黒髪を揺らして、松の木のゴツゴツとした木肌に足をかける。

 そして、片腕を伸ばして枝を掴み更に上へ。

 猿のように軽快に松の木を昇ると、少年は優しく握った右手を上に伸ばす。


「もう落ちちゃだめだぞー」


 少年はそっと雛鳥を巣に置いた。騒音は収まり、温和な静寂が辺りを包む。かと思われたその時。


「鷹丸ー! 鷹丸ー!」


 少女の声が響く。

 少年は「ここだよー」とその声に応えると、松の枝葉の隙間から彼女の姿が現れた。

 綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭。真っ白な肌と黄緑色の着物のところどころが泥で汚れている。


ゆきちゃん。なにかあった?」


 少年は松の木から飛び降りる。少女の目の前で着地をすると、彼の視線が少しだけ上を向く。


雪姉ゆきねぇ! 私は鷹丸のお姉ちゃんなんだよ!? 敬意を持ってそう呼びなさい」


「えー、歳は変わらないじゃん」


「私の方が先に拾われたんだから、私がお姉ちゃんなの!良い!?」


 胸を張ってそう言う雪の高圧的な態度に、鷹丸は渋々頷くしかなかった。

 雪はそれを見て満足そうに笑う。そしてすぐに、少年の腕を掴む。


「旦那様が呼んでるよ。ほら、早く行こ!」




 そうして二人がたどり着いたのは、小山とも呼べるような丘の上に立つお屋敷であった。数件の蔵と大きな母屋の間にある中庭に、中年の男と二人の少年が木刀を振るっていた。


「旦那様! 鷹丸を連れてきました!」


 そう雪が言うと、中年の男の動きがピタリと止まる。


「お、早かったじゃないか。ありがとう雪」


 そう言って振り返る男の右目は潰れており、小柄な身体に似合わず筋骨は隆々。にもかかわらず、その表情は柔らかである。


「鷹丸。お前ももう五つになる。二人の息子と混じって、お前にも武芸を会得してもらうことにした」


「僕は下人ですよ? よろしいのですか?」


 鷹丸がそう言うと、旦那様は丘の下にある町を見下ろしては静かに語る。


「私の父の代でこの家は没落した。一度の敗戦で一城の主から辺境の田舎武士なってしまった。私はな、この家が再興を果たすのは息子達の代だと思っている。鷹丸よ。お前には二人の息子の最初の臣下になって欲しい。二人を支え続けて欲しい」


「旦那様……。僕は皆んなに感謝しています。孤児の僕を拾って育ててくれた旦那様と、良くしてくれた町の人達。それに雪ちゃん……雪姉にも! 強くなれば、皆んなにご恩を返せますか? 皆んなの役に立てますか?」


「もちろんだ。武士がその力を培うのは敵を殺すためではない。家族や民を守るため、幸せになってもらうためなのだ。私達武士が弱ければ、たちまち皆は不幸になってしまう。鷹丸よ。その想いが誠のものならば、共に励もう。皆の幸せのために!」


 こうして、鷹丸は日々鍛錬を積むこととなった。刀や弓、槍や組み手などの戦闘術に加え、乗馬や水泳などの武芸百般を身体に刻み込んでいく。

 そうして時は過ぎていき、鷹丸は十歳になった。その身体は依然として少年のままで、雪の方がまだ背は高い。


「私も男だったら良かったのに」


 夕食の時間に雪はふとそう呟いた。

 鷹丸と雪の家は、お屋敷の近くに建てられた小屋である。夕陽が差し込む狭い空間。囲炉裏の前で、あっけらかんとした表情のまま雪は箸を咥えていた。


「雪姉は男になりたいの?」


 鷹丸は首を傾げて言った。その純粋無垢な瞳を突く勢いで、雪は箸を彼に向ける。


「私もあんたみたいに武芸を習いたいの! 掃除やら洗濯やら料理やら、もううんざり!」


「えー、全部立派な仕事じゃん。雪姉のおかげで僕は美味しいご飯を食べれるし、綺麗な服を着れるし」


 そう言って鷹丸は汁物を啜った。そして、椀の中からゴロゴロとした里芋を箸を使って取り出すと、大きく口を開いて迎え入れる。


「それに旦那様言ってたよ。男は皆んなの幸せのために死の近くに立つんだって。んで、女は皆んなの幸せのために生の近くに立つんだって」


 鷹丸は口に物を入れたままモゴモゴと話をするが、雪はその言葉が不服そうに箸を自身の椀へと運ぶ。


「別に、武士になって戦に行きたいって意味じゃないから。家事も下人としての大切な仕事だし。でも姉である私が、弟のあんたに守られるってのが、どうしても気に食わないの」


「でも雪姉は足も遅いし、よく転ぶじゃん。もし男に生まれても僕の方がきっと強いよ」


 少年の頭に拳骨が落ちた。

 小さな痛みが過ぎ去ると、鷹丸の表情はみるみるうちに歪んでいく。


 怒りに震える雪の手が、彼の頬に触れた。

 その瞬間に鷹丸は思う。怒気に溢れた彼女の顔を一生忘れることはないだろうと。この鬼の形相よりも怖しいものはないだろうと。


 そんな、幼い思いはこの翌日に打ち砕かれる。


 本物の鬼の形相は、怒りではなく悪意に満ちていることを鷹丸は思い出した。

 彼が初めて見る鬼人の姿は、六本腕を生やしていた。鬼人はニタニタと笑っては封師を蹴散らし、人々に向かってその亡骸を放り投げている。


 七尺2メートルほどの長身に鶯色うぐいすいろの六本の腕。赤色に染まった掌が、恐怖にへたり込む雪の頭に影を作る。


「雪姉ーー!!」


 鷹丸は叫んだ。三丈10メートルの距離を必死に駆ける。


 しかし、その間に鬼人の悪意が雪に触れる。血塗られた手が彼女の頬を悪戯に撫でている。


 鷹丸は叫んだ。叫ぶことしかできなかった。

 涙で視界がぼやけ、既に前は見えていない。


 必死に彼は走る。息を切らし、もはや哀号の叫びも出てこない。そんな刹那。



 グシャリ



 小さな音が鷹丸の脳へと轟いた。

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