第10話 浮雲と風
床の間には掛け軸が飾られている。その白黒の絵の中では、富士山に巨人がもたれかかり、大きな口を開けて眠りについている。
そんな不思議な掛け軸を前に二人の男が、鷹丸に頭を下げていた。
「何とお礼を申し上げれば良いか……!」
ここの家主である町長と老練の封師であった。
太陽は既に高い位置にある。障子から漏れ出る陽光が三人の影を作っている。
小鬼の大群の襲来により、山間の町は多くの死人が出ていた。まだその詳細な数はわからないが、確かな爪痕がこの町に残っている。
被害が拡大した原因を二人は鷹丸にこう話した。
この町の急激な発展に封師の数が追いついていなかった。
鬼が出た場合の約束事も町民達へ充分に共有できていなかった。
二人の責任者は自分達の落ち度を認め、旅人達の勇気に感謝の言葉を捧げる。
町長はその貢献に対して金銭を与えたいと申し出るのだが、鷹丸は首を縦には振らない。
「どうかお礼をさせてほしい」
その町長の懇願に鷹丸は少し間を置いた。
「でしたら、封師様に一つお願いが……」
鷹丸はまっすぐに封師の目を見ていた。
*
宿に戻れたのはそれから少ししての事だった。
「鷹丸様! お帰りなさい!」
お夏は既に働いていた。忙しそうに様々な料理を運んでいる。
その姿を見て、もう昼時なのだと鷹丸は気がついた。
草履を脱ぎ、廊下を渡る。部屋に戻る途中に見える調理場では、女将が手際よく作業をしている。美味しそうな香りが風に乗って流れてくるのを感じ、少しだけ心の疲れが和らいだ。
「おかえり!」
女将は鷹丸に気がつくと豪快に笑って見せた。
「昨晩の事があったのに、精が出ますね。でも、休んだ方が良いと思いますよ」
鷹丸の言葉に女将は首を横に振った。
「晴姫ちゃんに気づかされた! 私らも強くならないといけないってね!」
全ての小鬼が封じられた時、町民達がまず感じたのは安堵だった。あの恐怖から自分が生還できたことへの安心と、目前の死からの解放がそうさせた。
だが、一人だけ泣いている者がいた。家族でもなければ恋人でもない。ましてや友人ですらない者を守れず失意の中にいる。死なせてしまった事に絶望している。
そんな心優しくも傷ついた彼女は、強くなりたいと語ったのだ。
町民達は心打たれていた。
「町のみんなで誓ったんだ。私達がこの町を守るんだってね。だから、懸命に働くし、煌術も習う!! もう失うのは懲り懲りだ……」
昨日、この調理場には一人の寡黙な板前が立っていた。女将の夫だ。
だが、その姿は見当たらない。きっと、そういうことなのだろう。
女将の表情がその悲しみを語っている。
「さあ、部屋に戻った戻った!」
女将はこぼれ落ちる涙を拭くと、笑って厨房から鷹丸を追い出すのだった。
鷹丸は部屋へと戻った。
襖の奥が騒がしい。お夏と晴姫が楽しそうに話している。
その襖を開けて中に入ると、その目に最初に飛び込んできたのは卓上に並ぶ数々の料理であった。
肉や魚、色とりどりの野菜や果物が豪勢な品となって並んでいる。
「鷹丸様! 早く座ってください!」
立ち尽くす鷹丸の気配に気がついた晴姫は、待ちきれないとばかりに強く言った。
「晴姫様、もう少しだけ待ってください! とびきりのご馳走がもうすぐ来ますんで!」
お夏が言うと、鷹丸の後ろから丁度よく女将が現れた。
その手には湯気が立ち昇る羽釜。それを厚手の布で覆い、手で運べるようにしている。
それをドカッと卓上に置いた。
「この香り……。まさか白米ですか!?」
晴姫は大きく声を上げた。
その釜の中には真っ白なお米が艶々と輝いている。
「匂いでわかるのかい!?」
「当然です!!」
白米など高級品だ。この数々の料理も宿屋が出せるような代物ではない。これはどういうわけかと鷹丸は目を丸くする。それを察した女将は大きく笑った。
「町の皆んなからのお礼だから、遠慮せずに食べておくれ!」
そうして、お夏と女将は一礼をすると部屋を後にしようとする。
だが、晴姫の一言で二人の足は止まった。
「鷹丸様……。これだけの量を私達では食べきれませんね。どうしましょう?」
鷹丸はその意味を察する。
「折角のご馳走が捨てられるのは勿体無い……。そうだ! そこのお二人、良ければ完食するのを手伝ってはくれませんか?」
鷹丸の三文芝居に晴姫はくすりと笑う。
お夏は女将の顔を覗き込み、その様子を伺っていた。
「お夏! お客様をお助けするのも立派な仕事! 全力でお手伝いするよ!」
「はい!!」
料理を囲む四人の姿は常に笑顔で、他愛のない話にも心踊る。
そんな楽しい食事が終わる頃には、鷹丸と晴姫は満腹感とその疲労により眠りについていた。
二人の知らぬ間に日は沈み、夜に変わった。
山間の町に傷は確かに残っている。町民達の心に痛みを残している。
だが、前に進むことを決意した彼らはそれでも眠るのだ。
山間の町に不安を連れて訪れた静かな夜は、平穏を残して去っていく。
そして、朝日が昇った。
軽やかな晴れ模様。穏やかな風が小さな雲を運んでいる。
二人の旅人がこの町を離れるという報せは、瞬く間に駆け巡った。
若い封師が口を滑らせた事が原因なのだが、大勢の者たちが続々と二人を見送るために集まってきている。
「鷹丸様。お約束の品です」
老練の封師が鷹丸に手渡したのは、まだ新しい
今回の褒美として、鷹丸が封師に頼んだ品である。
「晴姫様の物です。お持ちになってください」
鷹丸は微笑み、そっと晴姫の手を握ると錫杖に触れさせる。煌術を習うことを決意した彼女への贈り物。
晴姫からは驚きの声が漏れた。
いざ持ってみると、小柄な彼女に丁度良い長さ。動かすたびにシャンッと音が鳴るため、盲目だろうと上下がわかる。
「一緒に煌術を極めましょう」
「はい! よろしくお願いします!」
この町に来るまで鷹丸は、執拗に晴姫を故郷へ帰らせようとしていた。そんな彼がただ心配をするのではなく、晴姫の想いや覚悟を尊重している。
彼女にとって、これが堪らなく嬉しかった。
町民達の感謝の声を背に、鷹丸と晴姫は手を繋いで歩き始めた。
錫杖の音が新たに加わり、より二人の歩みは力強くなっている。
そんな中、叫ばれたお夏の言葉に二人は振り返った。
「お二人のために、毎日あの神社で祈ります! ですから、またこの町に来てください! 私も強くなりますから!!」
自身の両親を想い泣いていた幼子が、その表情に決意を宿していた。
「はい! 絶対に!」
「絶対に!」
晴姫と鷹丸はそう叫ぶと、笑って手を振った。
前を向き、歩く。次第に山間の町は遠くなっていく。
「この餓鬼を封じたら、またあの町を訪れましょう。きっと素晴らしい町になっているはずです」
「はい!」
二人は手を繋ぎ、街道を歩いていく。
錫杖の音に晴姫は微笑み、鷹丸は青空を眺めていた。
*
建立から六十年が過ぎ、その経過した時間が重みとなって堂々と山中に佇んでいる。いくつもの門といくつもの堂。石造の階段や灯籠に至るまで、その全てが自然と調和して美しい。
そんな境内に一際大きな本堂がある。そこに続く十数段の石階段を前に、身なりの良い者達が
それは相模国の役人である。
その一人がゆっくりと顔を上げる。その者の白い
「今月分の人間でございます。お納めください……」
少しうわずり、震えた声が本堂に向かう。
役人達の背後には二十人ほどの者達が、手縄に目隠しをされ怯えていた。
「うむ。確かに……。立場を良くわかっているようで安心したぞ」
本堂から返ってきたのは
その荒々しく重々しい声が平伏す者達にはより威圧的に聞こえてしまう。
「もちろんでございます……!! それとカミカゼ様。我らが殿より書状を預かっているのですが……」
「そうであるか。ではそれを、石階段の最上にでも置いておけ」
言われた通りにその役人は慎重に階段を昇っていく。その段を昇るたびに、ありもしない圧を感じてしまっている。
その役人は情けなくも、これ以上は昇らなくて良いように最大限全身を伸ばし、書状をその最上に置いた。
様子を伺うために視界はふと本堂に。障子の向こうの人影がこちらを睨んでいた。
「よろしい」
その言葉に安堵し、役人は石階段を降りる。そのために踵を返した瞬間、先ほどよりもゆっくりと、それでいてさらに低い言葉がその背中に吹き荒ぶ。
「カミカゼ……。その呼び名は好かんなぁ……。このこと、相模に広く知らしめよ」
役人は石段の上にも関わらず、咄嗟に平伏していた。
「ははあ!」と役人達は大きく声を発する。
「では、私共はなんとお呼びすれば……」
役人の震えた言葉に少しの静寂が生まれた。
時が止まったかのように無風となり、自身の鼓動だけが聞こえてくる。
冷や汗がポツポツと石段に染みを作っていた。
時間にして数秒。だが役人にとっては数時間とも思える静寂が終わりを迎える。
「そうだな……。天狗……。天狗と名乗ろう」
ここは
天狗が治めるこの山は美しく、木々がせせらいでいる。
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