18. 破邪の霊薬

正忠まさただは、猫間ねこま家の御曹司おんぞうしを生かすという目的のために、あえて千江松ちえまつを殺してしまいました。(現代の読者としては、どうにもコレは… という気がしないでもないですが、お話の上では省けないシーンなのです、すみません)


葎戸むぐらとにとっても、これは耐えがたいシーンです。理屈でだけはわかっても、これは自分の心臓に刃を突き立てられるのと同じ苦しみです。「あっ」と叫んで、固く目を閉じ、下を向いてしまいました。一瞬だけ見てしまった、わが子の鮮血が雪の上にボタボタと垂れる光景が目に焼き付けられました。



次の瞬間、縁側の方向から「おぬしたちの忠義の心、しかと見た」と声がしました。


障子が開かれると、明るい照明のもと、金の太刀を腰に挿した、威風凜然たる武士が真ん中に座っていました。横から、「秩父ちちぶの重忠しげただの対面である」と説明があり、正忠まさただたちはここに現れた人物が誰かを知りました。葎戸むぐらとは、これを見てもショックからすぐには回復できず、立ち上がれません。正忠まさただは、主人の方に向きを変えて控えます。表情には冷静さが戻っており、刀の血をしずかに拭っています。


重忠の左右には、家来の榛澤はんさわ、妻の嫩子ふたばこ、そして嫩子ふたばこの子である重稚しげわかと、それを抱く乳母うば(前任のほうね。病気だったのが治ったのです)がそれぞれ並んで座っています。


重忠しげただ「おぬしらが、正忠まさただ葎戸むぐらとだったのだな。名はかねてから聞き及んでおった。おぬしらの主、猫間ねこま光実みつさねからな」


正忠まさただたちは、ここで猫間の名が出ることに驚きました。


重忠しげただ千江松ちえまつの件は、あの場ではやむを得ないことだったとはいえ、憐れむべし、惜しむべし。おぬしらの行為は、この上なく尊い忠義の心から出たこと、それは分かっていても、なお、つらいのう。しかし、千江松ちえまつのこの犠牲は、我らが宿敵を破るための決定的な力をもたらしてくれるものなのだ。それを説明させてくれ」


正忠・葎戸むぐらと「…」


重忠しげただ「わたしは京に滞在しながら、わがあるじを狙う宿敵、清水しみずの冠者かじゃ義高よしたかの操るネズミの妖術を破るための方法を調べておった。義高よしたかは、おぬしらのあるじ猫間ねこま光実みつさねが復讐を誓ったカタキでもある。光実みつさねは、義高よしたかを打倒するために、私に協力を求めてきた者だ。それ以来、私の庇護ひごのもとにある。今、彼は、鎌倉にいるぞ」


重忠しげただ「さて、ある高名な学者からわたしは、ネズミの妖術を破るその秘術を教えてもらうことができたのだが、それに必要な材料は、あまりにレアすぎて、すべて揃うはずがない、とあきらめるに足るものだった」


重忠しげただ「すなわち、黄金の猫の像、そして七歳以下の子どもの痘瘡もがさから剥がれ落ちたカサブタ、そして… 同じく七歳以下の子どもの、心臓から直接絞り出した血液。前者ふたつはともかく、最後のアイテムは、人倫の道から外れずしては、入手はほとんど不可能」


重忠しげただ「現に、黄金の猫の像は光実みつさねが取り戻したし、カサブタは、偶然わが子が最近痘瘡 もがさにかかったため、手に入れることができた。しかし、いくらなんでも、子どもの心臓から絞った血だけは… そう思っておったのが、今回、運命的に、おぬしたちの忠義の印として、それを得ることができたのだ。どうか、協力してくれないか」


榛澤はんざわが、小さな銀の壺を持って下に降りてきました。「カサブタはここに入っております。これに、どうか、そのお子様の血を…」


正忠まさただは笑みをうかべ「よろこんで」と答えると、壺を受け取ってそのフタをあけ、そして、わが子の傷口から流れるものを注ぎ入れました。


正忠まさただ「敵の妖術をくじく助けとできるのなら、千江松ちえまつ忠義ちゅうぎは、この私よりはるかに勝るもの。よろこべ葎戸むぐらと、この子は立派に役に立って死ぬのだぞ」


葎戸むぐらとは、夫の心を知り、自分も決して涙を流すまいとこらえながら、ようやく「はい」とのみ口にしました。わが子を殺して忠臣と褒められるとは、これも人の運命というものなのでしょうか。


重忠しげただはこの壺を受け取ると、頭上に何度も押し頂いてからこれを家来に預けました。「これが、猫間ねこま家を再興さいこうするいしずえとなるであろう。千江松ちえまつの非命の死は、のちに、大きな実りをもたらすであろう」


重忠しげただ「この功をもって、葎戸むぐらとよ、お主を乳母うばの仕事から免じ、自由の身とする。これからは、鈴稚すずわかの乳母となって、夫婦ともども、より忠孝を尽くすがよい」


葎戸むぐらとは恐る恐る、「それは嬉しゅうございますが… すでに10両の前金を頂いております。これを返すあてもございませんのに、私は勝手に仕事をやめることはできないと存じます」


重忠しげただは、説明のために嫩子ふたばこに合図をしました。ここまで、嫩子ふたばこは正忠夫婦の運命の過酷さに大泣きに泣いていたのですが、ようやく涙を拭くと、「お金の心配はよいのですよ」と話し始めました。


嫩子ふたばこ「あなたがたのさっきの話では、お母様が、川でお子様の服ごとお金を流してしまったのですってね。これは先日、私が清涼寺せいりょうじのお参りに行ったときに、堀川のほとりで見つけたものですが… あなたがたがなくしたのは、これではないですか」


葎戸むぐらと「あっ! 確かに…」


嫩子ふたばこ「で、確かに、腰のヒモに守り袋が結びつけられており、中にはちょうど10両入っていました。ほら、あなたにはもう負債はありませんよ。何の気兼ねもいらないのです」


嫩子ふたばこ「で、ここからは、今まで働いてくれたお礼の件です。実際に重稚しげわかの乳母として仕事をしてくれた給金が、10両。うん、ちょうどいいわね、これを差し上げますよ。どうぞ、あなたがた自身のために、そして、お子様を弔うために使ってください…」


こうして、10両と、川で拾ったという千江松ちえまつの服が、夫婦のもとに戻りました。正忠まさただたちは、この服で千江松ちえまつをくるみ、そうしてかたじけなさに再び泣きました。



重忠しげただ「さあ、湿っぽい雰囲気は、これからの戦いに似合わんぞ。この破邪はじゃの薬によって、義高よしたかは永久に力を失うはずだ。これで勝利は間違いない。引き続き、急いで鎌倉に戻るぞ。正忠まさただ夫婦は、鈴稚すずわかぎみをよく世話し、そして… これから我々とともに来てくれるな」


正忠・葎戸むぐらと「はい!」

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