10. 西行、頼朝に会う

義高よしたかと旅の行者は、空き家の軒下で雑談するうちに、ネコ派とネズミ派に別れて言い争いをはじめる展開になりました。


男「ネコが役立たずとはなんという言い草だ。農作物を害獣から守り、人間に時を教える。一家に一匹いるべきものだ」

義高よしたか「ネコなんざあ、三年飼ったってその恩を一日で忘れるようなシロモンだ。ネズミのほうが最高だ。白いネズミは福の神の化身でもあるんだ」

男「ネコがネズミを食うのはよ、の時刻を知るっていう、時の支配者だからなんだ。どうやったってネコが勝ってるんだよ」

義高よしたか「てめえ、窮鼠きゅうそ猫を噛むってことわざ知ってるか。いざとなればネズミはネコよりええんだよ。こんな風にな!」


義高はついに男の胸ぐらをつかみました。男はこれを振りほどいて義高に殴りかかりました。二人は庭に降りると取っ組み合いのケンカをはじめてしまいました。


そこに、二人が雨宿りしていたボロ家の主人であるお坊さんが、明かりをぶらさげて帰ってきました。「…あんたがた、何してるんだね…」 しかし二人はそれに気づかず、わめきながら組み合ってゴロゴロとマウントを取り合っています。


お坊さん「…ええと… おや、何か落としましたぞ、これ…」


お坊さんは義高のフトコロから落ちた布きれを拾って、なんの気もなしに広げてみました。「旗かね、これは… あさひの柄のようだが」


二人はこれを聞いてビクッとし、一瞬動きを止めました。二人ともほぼ同時に声をあげます。


義高・男「その旗!」


義高よしたかが反応したのはもちろんですが、男のほうも「あさひ」に強烈に反応しました。あさひ将軍・木曾きその義仲よしなか。その旗印を大事に持ち歩く人物といえば…


男「義高よしたかとは、お前のことかあっ!」


この男こそは、彼への復讐を誓った人物、猫間ねこま光実みつさねだったのです。


義高は身をかがめ、不思議な呪文をすばやく唱えました。すると、お坊さんの手から旗がスルリと抜け、義高の手にしっかりと握られました。そして、荷物から刀を引っ張り出し、これを抜いて義高に襲いかかろうとする光実みつさねを見ると、そちらに向き直り、ふたたび呪文を唱えました。


次の瞬間、あたりの地面は、突然現れた数万匹のネズミに埋め尽くされました。それらは一斉に光実みつさねに押し寄せ、群がり、チューチューと鳴いて体を駆け上ってきました。光実はこれをあわてて振り落とし、なぎ払おうとしますがキリがありません。


そして、これまた一瞬にして、ネズミの群れはあとかたもなく消えてしまいました。そこには義高よしたかの姿もありません。残された光実みつさねとお坊さんは、何が起こったのか分からないままに呆然と立ち尽くすしかありませんでした。


この晩のエピソードはこれで終わりですが、ここに出てきたお坊さんの名は、西行さいぎょうといいます。彼はその後もしばらく、ここであったことについて考えていました。「あさひの旗の男、義高よしたかとな…」



西行さいぎょうは、もとは武士として生まれ、将来を有望視されていたエリートだったのですが、あるとき、人間の栄利を求める心のはかなさに気づき、ついに出家となって今までの地位をみな捨ててしまったのでした。出家してからも、彼の徳の高さ、そして学問の深さ、武芸への造詣ぞうけいは、他に並ぶ者がないという評判でした。


そんな彼が、ある日、頼朝よりともの館を訪れました。大仏建立のための募金活動で日本中を回っていたのです。


頼朝よりとも「おお、あの西行どのがこんなところを訪れてくれるとは。歓迎せねばならん、ぜひここに案内してくれ。側近どももみんな来い」


こうして書院にみなそろいました。


頼朝よりとも「よくいらっしゃった、西行どの。この機会にあなたからたくさん学ばせていただこうと、ちょっとたくさん集まってもらった」


西行「教えられるようなことはほとんどないと思いますが… 武芸のことなんかはとんと忘れてしまったし、今はせいぜい、我流で短歌や俳句のまねごとをしているだけですぞ」


頼朝の家臣の秩父ちちぶの重忠しげただが最初に手をあげました。「和歌のことで聞きたいです! 菅原すがわらの道真みちざねの句に、こんなのがありますよね。


 よいみやこのそらにすみもせで こころつくしのありあけのつき


この歌は筑紫で詠んだんですよね。月は普通東、つまり都の方角から出てきますよ。「すみもせで」って… 東に住んでるじゃないですか。おかしくないですか」


西行「ああ、その歌は、ちょっと間違って覚えられてますね。正しくはこうですよ。


 よいみやこのそらにすみぬらん こころつくしの有明ありあけつき


「すみぬらん」です。前はそこに住んでいた、ということですよ。だから、西国に流された自分の身を憂う歌としては意味が通じることになります」


みんな「へー、へー、そうだったのか、なるほどなー」


こんな感じの問答がいくつか続きました。頼朝も家臣たちも、西行の蘊蓄うんちくの一端に触れ、おおいに満足しました。まあ、残りは省略しますが。


頼朝「もうひとつ、教えを乞うてみたいことがある。こんなことを人に聞くのも恥ずかしいが、ここに揃った家臣たちの中で、いちばん弓術がうまいのは誰だろうか」


西行はこんな変な問いにも即答します。「みんな、歴戦の手練てだれでございましょう。誰が誰にひけをとる、ということはありません。それでも強いて言うなら… 大場おおばの景能かげよしどの」


景能かげよし「は、はい?」


西行「あなた、さきの保元の戦いを経験されていますね。そのとき、筑紫つくしの御曹司と対決されたでしょう。そのときのことを皆に聞かせてあげてみてはどうですか。どうしてあなたが彼との戦いでを」


筑紫の御曹司とは、伝説の武士、源八郎為朝ためとものことですね。彼とまともに対決して生き残った武士はほとんどいないのです。


景能かげよし「はあ… 私はもともと、彼の扱う矢はちょっと長すぎると思っていました。ほんの少しだけアンバランスなのです。さきの乱で彼に出会ったとき、私はそれでも絶対彼にかなわないと悟り、全速力で彼の左をすり抜けて逃げました。そっちの方向は、少しだけ狙いが狂う可能性があったからです。両方とも馬に乗っていたこともあり、私は致命傷を避け、ヒザを射られる。馬の扱いは、さすがに東国で育った私の方が上手かったのです。こんなお話、恥ずかしいだけですが…」


西行「なるほど。…だそうです、みなさん。為朝ためともに狙われ、そして生き残った彼は、一番の手練れと呼んでも差し支えないのではないでしょうか」


その場の全員が西行の意見に賛成しました。為朝と戦ってだけでこの扱いですから、為朝はどんだけメチャクチャな強さだったんだ、とも言えますね。そこらへんは、馬琴センセイの『椿説ちんせつ弓張月ゆみはりづき』を読むとよく分かるんですが、それはまた別のお話…


頼朝よりとも「すばらしい! 私も知らなかった、景能かげよしの一面だ。今後、彼を見る目がちょっと変わっちゃうな。ありがとう、西行どの」


この勢いで、宴会が始まりました。酒と珍味が飽くほど出され、列席したみなが上機嫌になりました。唐糸からいとが酌に呼ばれ、西行にも酒がすすめられました。


頼朝よりともも楽しそうです。ふと、ひとつの余興を思いつきました。


頼朝「西行どのの博学に、われわれも負けておれんなあ。おい、唐糸からいとよ」


唐糸「は、はい?」


頼朝「政子と大姫から聞いたぞ。お前は、琴がうまいだけでなく、武芸についてもけっこう物知りらしいじゃないか。何か、ここで披露してみよ」


唐糸「いえいえ、とんでもない。そりゃ琴のことならなんとか人並みですが、それ以外は…」


石田が唐糸のそばに寄り、この答えをとがめました。「唐糸、興ざめなことをしてはいかん。大したことが言えなくても、女のことだ、大目に見てもらえるに決まっておろう。何か、知っている限りのことを言ってみよ」


唐糸「はあ、それではひとつ、弓の各部分の名称について、私の知るところを少しだけ。変なことを言ってしまったら、誰か、その場で修正してくださいね」


頼朝・家臣たち「いいぞ、いいぞ」

西行「ほう、女子の学問を聞かせてもらえるとは面白い…」


唐糸からいとはひとつ咳払いをすると、ぽつぽつと話し始めました。


「弓をと呼ぶのは、唐のある博士の説によると、弦を張ったときに穹崇然きゅうそうぜんとするところからだそうです。弓の両端を「ゆはず」と呼ぶのは、漢字でゆはずと書くんですが、弭弭然びびぜんとして滑らかだからだそうです。弓中央のにぎり部分は「ゆづか」といい、六つの材料、すなわちかんかくきんしつしつから成ります。もと(幹)強きときは、及ぶところかならず遠し、角の勢い順なるときは、はなつところかならずし、筋の力鋭きときは必ず深し。これらを和すに、にべを用いれば云々、糸でまとえば云々、漆でつつめば云々… これら材料の組み合わせこそがたくみみょう。さて、矢とやじりについては…」


(大体、こんな話が、見開きいっぱい続きます)


全員が、口をぽかんと開けて、唐糸からいとの博覧強記に言葉を失っています。西行も目をまるくして驚いています。


唐糸からいと「まことにお恥ずかしい… それではこれで失礼します」


唐糸はそそくさと退場してしまいました。しばらくは、この場の皆が、彼女の知識のもの凄さをウワサしてザワザワしました。「何もんなんだ、あいつは…」



西行も同様に、今見たものに感じ入ってしばらく無言でしたが、それとは別のことにふと気づき、頼朝よりともに向かって一言警告しました。


西行「お聞きなされ。今、屋敷の外に… 誰か、鎌倉殿(頼朝)を恨むものが徘徊しているような気がしますぞ」

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