17. 忠義の極北

三人の母に同時に去られてしまった者たち。すなわち、葎戸むぐらとを失った千江松ちえまつ八重垣やえがきを失った鈴稚すずわか、そして老母を失った正忠まさただは、互いに身を寄せて、涙が涸れはてるまで泣き通しました。


正忠「葎戸むぐらとが忠義のために身を売って作ってくれた10両までも、私たちの手をすり抜けて流れ去ってしまった。オレが何をしたというんだ。これは一体、何の報いなんだ…」


八重垣やえがき老母ろうぼの葬式は、村人の協力でなんとか執り行うことができました。それから初七日の間、正忠は一心に念仏を唱えて暮らしました。その間、鈴稚すずわか千江松ちえまつはひたすらメソメソと泣き続けました。


すでに手元に金は一切残っておらず、正忠まさただはこの家を売ることにしました。その金で、旅に出るのです。


正忠まさただ猫間ねこま光実みつさねさまを探すのだ。そして、今までに我々の身に起こったことを相談し、そして、鈴稚すずわかさまの今後についても何か手がかりを頂けることを期待しよう」


こうして正忠は、千江松ちえまつには祖母の粗末な服を着せて歩かせ、そして鈴稚すずわかを胸に抱いて、東に向かって出発しました。光実は鎌倉方面にいる気がするからです。また、葎戸むぐらともそちらに向かったはずだからです。


季節はもう冬で、薄っぺらな衣服は寒風を防げません。三人は凍えながら旅路を行きました。旅に出てすぐ、鈴稚すずわかのノドにができたようで、彼はまったく食事をとることができなくなりました。彼に薬を買い与えると路銀はあっという間になくなり、三人の道中は、見るもみすぼらしいものとなりました。それでも鈴稚すずわかの病はよくならず、日に日に衰弱していきました。


正忠まさただ「あきらめるワケにはいかん。鈴稚すずわかさまを… 光実みつさねさまに… 会わせるまでは…」



さて、葎戸むぐらとはあれから、まず彼女を雇った武士の京での住まいに運ばれました。その武士とは、頼朝よりともの重臣、秩父ちちぶの重忠しげただなのでした。乳母うばを求めるその妻とは、嫩子ふたばこのことです。(彼女を迎えに行ったのは、榛澤はんざわ六郎ろくろうです。)


重忠しげただ「よく我々の願いに応じて来てくれた。鎌倉に呼び戻されたこのタイミングで、今までの乳母うばが病気になってしまったのだ。それで、大急ぎで代わりの乳母を探していた。嫩子ふたばこはお主のことを一目見て気に入っておった。おぬしのような品位ある女性でよかった。…はじめに我々のことを名乗らないのは済まなかったな。我々はある『敵』を追っており、それを感づかれないように、素性をあまり明かしたくなかったのだ」


こういうわけで、葎戸むぐらとはさっそく身なりを整えさせられ、そして、別人のように見違えた格好となって、重忠しげただ嫩子ふたばこの子、重稚しげわかのもとに参りました。


葎戸むぐらと「どうぞよろしく、重稚しげわかさま」

重稚しげわか「うん!」


重稚しげわかはこの新しい乳母うばによく懐き、重忠しげただたちをおおいに安心させました。まったく、掘り出し物の人材だったと言えましょう。


翌日の明け方に、重忠しげただの一行は出発しました。葎戸むぐらとは、京の方向に向かって飛ぶかりを見あげては、残してきた者たちが幸せでありますようにと強く願いました。


さて、旅は進んで、これから天竜川を横切るところです。雨が降って川の流れが激しくなっており、すぐには渡れません。さらに、重稚しげわか痘瘡もがさにかかって熱を出したため、これが治るまで、少しの間、宿に滞在しつづけることになりました。しかし、やがて重稚しげわかは体調が戻り、もうそろそろ旅を再開できるかな、という見込みになってきました。


葎戸むぐらと重稚しげわか坊ちゃま、もうすぐ先に行けるようになりますからね」

重稚しげわか「もう、退屈だい!」

葎戸むぐらと「もうすこしのご辛抱なのですよ」


葎戸むぐらとも他のみなも、不機嫌な重稚しげわかをなんとか楽しませようと苦労していました。そこに、侍女のひとりがある報告を持ってきました。「門前に、乞食の芸人が来ております。多少、重稚しげわかさまのお退屈を紛らわせるのでは」


葎戸むぐらとは喜びました。「それは助かります、さっそく庭に入らせてください」



そこに入ってきたのは、編笠を深くかぶってフロシキと子どもを背負った男と、烏帽子えぼしっぽく尖らせた頭巾をかぶった子どもです。男はつづみも持っていますから、今からまいでも始めるのでしょう。葎戸むぐらとは、重稚しげわかを胸に抱き、障子をすこしだけ開いて(寒いですからね)、この男と子どもがどんな芸を始めるのかと見守りました。


男は、鼓をぽんと叩くと、ゆっくりと「大底たいてい四時しじ心総苦すべてこころくるしむ就中なかんずく腸断ちょうだんこれ秋天しゅうてん…」と朗詠をはじめます。子どものほうは、これにあわせてぎこちなく体を動かし、かろうじて舞いのような体裁の踊りをしました。ぎこちないのは、踊りに慣れないのと、寒さで体全体が凍えかけているせいです。かざした扇が、雪まじりの北風にあおられて飛んでしまいました。男がその子をきっと睨むと、子のほうはあわててこれを拾いに行きました。観客はどっと笑って喜びました。


葎戸むぐらとは、これを見てあまり楽しいと思えません。何となく、京に残したわが子を連想してしまったのです。


葎戸むぐらと「あの子も、千江松ちえまつと同じくらいの年頃なのに…」


次の瞬間、葎戸むぐらとは全身が凍り付いたような気持ちになりました。「千江松ちえまつはあんなにやつれた顔じゃない」と自分に言い聞かせたあと、もっと残酷な真実に気づいたのです。「違う、千江松ちえまつが、あんなにやつれた顔になってしまったのだ… あれは間違いなくわが子、そしてあれは、わが夫!」


他の観客たちはみな、満足して建物の中に戻っていきました。あとは、係員が褒美を持ってくるまで少し待ち時間があるようです。葎戸むぐらとは、寝てしまった重稚しげわかぎみを他の女房に渡して任せると、ひとり、急いで庭に戻ってきました。


そこでは正忠まさただが、暮れかけた空の下、「寒い、中に入りたい」といって泣いている千江松ちえまつをなだめていました。背負っている鈴稚すずわかにいたっては、どうやら泣く体力さえほとんど残っていないようです。


障子をサラリとあけて葎戸むぐらとが姿を見せると、正忠はこれを見上げて、ハッとした表情を見せました。「おまえは」と声に出しかけて、それが今は許されない状況であることを一瞬で悟り、そして、恥ずかしさのあまり顔を伏せました。


千江松ちえまつはそんな機微は分かりません。「母上だ! 母上!」と大喜びして、縁側まで駆け寄り、そのままよじ登ろうとしました。葎戸むぐらとはこれを受け入れるわけにはいきません。「…な、なんです、この子は! わたしを母ですと? おかしな話です」と、わざと周りに聞こえるように声を大きくして千江松ちえまつを叱ります。


千江松ちえまつ「母上! 母上!」


千江松の必死の声に、葎戸むぐらとは心が弱ります。「…のう、子どもや。言うことはよく分からぬが、ほら、舞いのご褒美だよ。お菓子だ、たくさん取っていきなさい」


千江松ちえまつ「母上! 母上! お菓子じゃいやだ、お乳を飲ませて!」


葎戸むぐらとは涙があふれそうになりますが、さらに心を鬼にして、すがりつく千江松ちえまつを足で蹴り離します。「優しくしてみれば馴れ馴れしくつけ上がる、無礼な子だよ、きたならしい!」


千江松ちえまつは新しく積もった雪に転んで埋もれ、この上ない哀れな泣き声をあげました。これを聞くと、もう葎戸むぐらとは辛抱ができなくなってしまいました。衣装を汚して階下に飛び降りると、千江松ちえまつを助け起こして、「こんな苦労を」と言いかけ、あとは涙で続けられません。


そこに正忠まさただが近づき、「こんな形での再会になるとは…」と、ためらいがちに声をかけました。葎戸むぐらとは、どうしてこんなことをしているのかをたずねました。あの10両で、充分楽な暮らしを始められたのではなかったのですか。


正忠まさただ「あの金は、母が誤って川に流してしまった。それを苦にして自殺もしてしまった。八重垣やえがきさまは… お前が出て行った直後に、眠りながら亡くなってしまった。我々にはもう、光実みつさねさまを探して事の次第を訴えるしか、生き延びる可能性が残っていない。こういうわけで、三人で旅をしていたのだ。途中、鈴稚すずわかさまが、ノドに腫れ物ができて、食べ物を召し上がれない。オレ達のことはこの際どうでもいいと思っているが、鈴稚すずわかさまを死なせるわけにはいかん」


葎戸むぐらと「お、おお…」


正忠まさただ「もう、お前は『買われた』身だ。こんなことをしていけないのは分かっている。ただ、一度だけでいい、鈴稚すずわかさまに、おまえの乳を飲ませてやってくれ。固形物がだめでも、乳ならいけるはずだ。た、たのむ…」


葎戸むぐらと「わかりました、私たちには重忠しげたださまからの罰が下るかもしれませんが、我らを縛る10両の義理も、鈴稚すずわかさまには関係のないこと。ほら、鈴稚すずわかさま、こちらにおいでなさい、私の胸で暖めてあげますよ。どうぞおっぱいを召し上がりなさい」


鈴稚すずわかはかつては葎戸むぐらとの乳を飲みたがらなかったのですが、死ぬ寸前まで飢えていましたので、弱々しく彼女の乳を吸い始めました。やがて、少しずつ元気を取り戻し、乳の吸い方も力強くなっていきます。


これをみて半狂乱になったのは千江松ちえまつです。「僕のだ! 僕のなのに!」


正忠まさただが「違う、お前のではない」と説き諭そうとしても、彼には無駄です。優しく言って聞かなければ、と、正忠まさただはゲンコツを振り上げて千代松を脅しました。それでもなお、いっそう大きな声で泣き、魂を絞るような声で「ぼくのだ」と叫び、わめきます。


障子の内側から「葎戸むぐらとよ、どうしたのだ」という声が聞こえました。もう時間がありません。葎戸むぐらとは、止められる最後の一瞬まで鈴稚すずわかに乳を飲ませ続ける覚悟です。


しかし千江松ちえまつは、ついに父の制止を振り切り、鈴稚すずわかえりを引っ張って、彼を葎戸むぐらとから引き剥がしてしまいました。


「ぼ く の だ !」


鈴稚すずわかは雪の上に仰向けに落ち、阿鼻叫喚の勢いで泣き始めました。



正忠まさただは覚悟を決めました。「君臣の礼儀をわきまえぬ子には、こうするしかない」と言い放ち、千江松ちえまつに走り寄ってこれを捉えると、自分のヒザにおさえてえ、腰から抜き放った短刀を彼の心臓に突き立てて、そして一息にえぐりました。

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