16. さらに、残される人々

葎戸むぐらとは謎の武士に乳母うばとして雇われ、夫にさえ一言知らせることができないままに、置き手紙だけを残して、鎌倉に向かって旅立っていきました。残していった人たちの幸せを心から祈りつつ。


千江松ちえまつは、母が出て行ってしまう気配に気づいて駆け寄り、「行かないで」と泣きかけましたが、兎口いぐちばばが手にいっぱいの栗を持たせてやったので、他愛なく機嫌を直してしまいました。


千江松ちえまつ「うちの婆さまに、栗を見せてあげよう!」


千江松は母のことを忘れて、両手がふさがった状態のまま、トコトコと走って家に戻りかけましたが、途中でドブにはまってしまいました。腰までずっぽりと泥に浸かってしまい、千江松はワンワンと泣きます。これを目撃した他の村人が、あわてて寄り集まってくると、彼をそこから引っ張り出して、もとの家の縁側に運んでやりました。


村人「おおい、この子、泥だらけになっちゃったぞ。誰か、洗ってあげな」


それを聞いて、柱づたいにヨロヨロと近づいてきたのが、正忠まさただの母である老婆です。目が見えませんので、村人の知らせを聞いてびっくりして近づいてきました。「それは、それは、大変じゃ。みんな、すまんかったな、あとはワシ一人でやれるから」


千江松ちえまつは泥だらけなのとびしょ濡れで気持ち悪く、いよいよ泣きまくっています。祖母は、せめて千江松の服を洗ってやらなくてはいけないと思いました。


祖母「服はこの一枚しかないからのう。すぐに川で洗ってやらないと。目は見えんが、まあ、用心しながらやれば大丈夫じゃろ。ほら、千江松や、服を脱がせてやるぞ。代わりに、ちょっとの間、ワシのを貸してあげるから」


祖母は手探りで千江松の帯を解き、すっかり着物を剥ぎ取ると、自分のを脱いで彼にかぶせました。「ちょっとだけ待っておるんじゃ」と言い聞かせると、汚れた服を丸めて腕に抱え、よたよたと、川岸まで歩きました。


ようやく川岸に着き、そこで着物を流れに浸してジャブジャブとやりはじめましたが… 思ったより流れは早く、彼女の握力では、思うようにこれに逆らいながら布を持ち続けられません。水が冷たいせいもあり、つい、両手からずるりと着物を離してしまいました。着物は無情に流れ去ってしまい、もう目の見えない自分には取り返しようがありません。


祖母「ああ、しまった。ワシが余計なことをしたせいで、あの子の一張羅いっちょうらを失ってしまったわ… 正忠まさただたちに向ける顔がない。しかし、あれらがすっかり自分の子を放っぽって留守にするのもいけなかったのだぞ… いや、やはりワシが悪いのう…」


彼女は肩を落としてトボトボと家に帰り、千江松ちえまつに「すまん、おぬしの服を失った」と謝りました。千江松は祖母の服の感触が気に入らずに脱ぎ捨てており、素っ裸で泣きながら彼女に抗議しました。「僕の服をちょうだいよ! 寒いよう、ワーン」


祖母は「すまんのう、すまんのう」といいながら、せめて彼を抱き上げ、自分の体温で暖めてやるくらいしかありませんでした。そこに、正忠まさただがやっと戻ってきました。訪ねようとした兎口いぐちばばが見当たらず、これを探し回ったせいで、かえって帰りが遅れてしまったのです。


正忠まさただ「母上たち、一体何をしているんです」


正忠は、彼女の説明をひととおり聞かされて、真っ青になりました。「その目で、ひとりで洗濯をしようとしたんですって! ひとつ間違えば、自分が溺れ死んでしまうところなんですよ、お願いだから無理をしないでください」

祖母「うむ… 自分でやれるところを見せたかったんじゃ。お前らに世話をかけたくないんじゃ」

正忠「まあ、無事で本当によかったですよ。千江松ちえまつの服のことは仕方がありません。それにしても、葎戸むぐらとがいないのはどうしたんです。千江松を放りっぱなして」

祖母「お前に客があってな、それでお前を探しに出て行ったきりじゃ」

正忠「客… なんだろう。分からないな。そうだ、八重垣やえがきさまはどうしていらっしゃいます。今朝は割と元気だったのだけど、今もよくお休みかな」



正忠が、屏風をそっとどかして、八重垣やえがきが眠っているのを確認してみると、何か様子がおかしいようです。


正忠まさただ八重垣やえがきさま?」



なんと、八重垣は、しばらく前にいました。その母の懐を、何も知らない鈴稚すずわかぎみが、乳をもとめて探っているところでした。これを見た正忠まさただは、体から力が抜けてヒザをついてしまいました。やがて、体の奥底から嗚咽おえつがせり上がってきます。


正忠まさただ「そんな、そんな、どうして。これからお元気になるのではなかったのですか」


今となっては、分かるような気もします。八重垣やえがきかたが一時だけ元気になったのは、燃え尽きる直前のロウソクが一瞬だけ強く光るのに似たものだったのでしょう。正忠の母も、ガタガタ震えながら「おいたましい、おいたましい」と、体をまるごと絞るような涙を流しています。千江松ちえまつ鈴稚すずわかもつられて泣き出しました。


正忠まさただ「おお… こんなときに葎戸むぐらとはどこへ行ったんだ… なぜ帰ってこない」


正忠は、いまさら、柱に貼ってあった手紙のようなものに気づきました。「これは… 葎戸むぐらとの字だ! なんだと、乳母うばに雇われて出て行くだと… そんな急な」


正忠の母は「手紙とな。ワシには気づきようもなかったものじゃ。頼む、ワシにもわかるよう、ちゃんと内容を教えてくれ」と頼みました。


正忠「葎戸むぐらとは、我々に金を残すため、鎌倉のある武士に乳母として雇われたのです。私が仲介屋を通して探していました。しかし、八重垣やえがきさまの薬を買う金のために… 今となってはもう遅いのに…」


正忠の母「なんでワシにそんなことを秘密にしておった…」


正忠「余計な心配をさせたくなかったのです。すみませんでした。手紙には続きがあります… どれどれ、乳母として出て行く身代みのしろに、10両の金を賜ったそうです。それは、千江松の腰紐に結びつけてあると」


正忠の母は息が止まるほど驚愕します。今聞いた言葉を信じたくありません。「なんと言った。も、もう一度言ってくれ。金はどこにしまったと」


正忠「はい、10両の金は、千江松ちえまつの腰紐に結びつけた守り袋の中にしまったと… この金で、薬はもちろん、稚君わかぎみにはハトのおもちゃを買ってあげてくださいと。また、お母様にはありがたいお経の本を、と…」


正忠まさただの母は、ワッと叫んで地面にうずくまってしまいました。正忠は驚いて、どうしたのです、としゃがみ込んで母の肩を抱きとめました。母は、わななく手で正忠の体を夢中で探り、そして腰の短刀の場所を知ると、それを鞘から抜き取って、自分の首に突き刺しました!


正忠まさただ「な、何を!?」


正忠の母は、急所をうまく貫くことができませんでした。しかし、致命傷には間違いありません。血が思いがけずたくさんあふれ、ボタボタと手をつたってこぼれます。苦痛の中、細い糸のように声が漏れます。「金は… 私が、川で、千江松ちえまつの服ごと… 流してしまったのじゃ… 葎戸むぐらとが、自らを売って残した金… とてももう、生きてはおれぬ…」


正忠まさただ「母上!」


正忠の母「そうとも、ワシなど、もっと早く死んでおればよかった… 御前ごぜんばかりがお若くして死に… ワシが… 代わってやれればよかったのに… おお、暗い、ここはどうして暗いんじゃ。稚君わかぎみは、どこにおわす… 千江松は…」


母は、見えない目を大きく見開いて、地面をかきむしりながら息絶えました。

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