15. 残された人々

さて、復讐の鬼となった義高よしたかのことはすこし置いておき、全く別の場面の話をしましょう。


猫間ねこま光実みつさね木曾きその義仲よしなかを追う旅にったとき、京には、兄の猫間ねこま光隆みつたかの亡きあとに残された人々がいました。光隆みつたかの妻、八重垣やえがきと、その子、鈴稚すずわか。そして、光隆みつたかの家来、竹川たけかわ因幡介いなばのすけ正忠まさただ正忠まさただは、自分も義仲よしなかへの恨みを返したかったのですが、光実みつさねに、八重垣やえがきたちを守るように頼まれたのでした。


京の、と書きましたが実際はすこし違います。領地をすっかり召し上げられて貧しくなった八重垣やえがきたちは、嵯峨さがの片隅にささやかな小屋を建てて、世間から身を隠すように、そこにひっそりと暮らしていました。


正忠まさただひとりで八重垣と鈴稚すずわかに仕えたわけではありません。彼自身にも妻(葎戸むぐらと)と子(千江松ちえまつ)があり、それらもともに住みました。また、正忠まさただには老いた母がおり、彼女もいっしょです。結構登場人物がいるようにも見えますが、つまりは、猫間ねこまの未亡人とその子、そしてそれに仕える家来の家族、という理解でいいでしょう。



猫間ねこま光実みつさねが旅立ってから三年が経ちました。あれから光実からの便たよりはありません。生活のための蓄えは、ほとんど尽きていました。八重垣やえがきかたは、心細さと悲しさから病気になっており、体調はずるずると悪くなるばかりです。そのための薬代は、正忠まさただ葎戸むぐらとが自分たちの持ち物を売って捻出していました。もう、刀もアクセサリも、ろくな服さえも持っていません。


鈴稚すずわかぎみは4歳になっていますが、乳離れができず、これが悩みの種となりました。八重垣やえがきは、乳母うばに頼まず、自分が直接乳を与えていました。しかし彼女は最近特に弱っており、もう乳が出ません。鈴稚すずわかはそれでも母に乳をねだり、葎戸むぐらとが代わりに自分の乳を飲ませようとしてもそれを受け付けずに泣きます。


正忠まさただ「父を早くに失った若様を慰めようと、みずからの乳で育てようとされたのが、今ではかえって裏目に出てしまったとは…」


正忠まさただたちの子である千江松ちえまつも4歳で、この子は元気ですが、正忠夫婦にとってそれが特に救いになるわけでもなく、かえって罪悪感を感じてしまうばかりです。


これと反対に、正忠まさただの母は、もう年老いて耳が遠くなっており、目の方はほとんど見えないくらいです。しかし彼女は、意地でも正忠まさただ夫婦の世話になって生きようとは思っていません。自分のできそうな仕事をいつも探しては、(質はともかく)がんばってこなそうとします。


母「見よ、ワシは自分のことくらい自分でできる。ワシにかまうヒマがあったら、八重垣やえがきさまの看病をしてあげなされ。ワシの世話なんぞを優先しようとしてみろ、そしたら自殺してやるぞ」


正忠「わかった、わかったから…」



こんなギリギリの暮らしを続けていましたが、ある日、手元の金はついにすっかり尽きてしまいました。もう、八重垣やえがきのための薬を買うこともできません。二人ができることは、お寺を巡って神仏に頼みを託すくらいです。


正忠「金だ、金がなければ… 人間、どんなに頭が切れようと、腕がたとうと、貧乏には勝てん…」


葎戸むぐらと「いざとなれば私がなんとかするつもりだわ… (正忠、そんなことはやめてくれと悲鳴)でも、もうそういう年でもなくなってしまった」


葎戸むぐらと「私たちが、ほかに売れるもの… そうだ、幸い、私はお乳の出はまだいいわ。誰かの乳母うばとして仕事ができないかしら」


正忠は、こちらのアイデアはアリだと思いました。「うん、千江松はそろそろ乳離れさせることも可能だ。だから、乳母に出られるな。すまぬ、それだけが頼みの綱のようだ…」


葎戸むぐらとは、今後ろくに家にいられるなくなるであろうことを覚悟の上で、乳母うばに出る先を探すことに決めました。法隆寺の門前には兎口いぐちばばという老女がいて、この手の仕事の紹介をしていました。正忠まさただは早速彼女に仕事の口があるかを相談に行きました。このことは葎戸むぐらと以外には秘密です。


正忠「…と、こういうワケなのだ。乳母の仕事があれば、ぜひ紹介してくれ」

婆「うむ、多少の心当たりはあるから、いったん帰って、ちと待っておれ」



ところで、夫婦がこう決めたころから、たまたま八重垣やえがきかたが少し調子がよくなってきたようでした。4、5日間は食事さえ取れなかったのが、今日はかゆを食べることができました。


正忠「おお、少しだけ未来が明るくなった。仏の助けだ。さっそく清水きよみずの観音さまにお礼参りをしてくる。あと、帰り道に、兎口いぐちばばに例の件の様子も聞いてくる」


正忠が出ている間、葎戸むぐらとは八重垣とおだやかな雑談を交わしました。つかの間の平和が感じられました。


八重垣「いつもありがとう。あら、表で、千江松が泣いているわよ。私の世話なんてほどほどにして、あの子にお乳をあげておいでなさい」

葎戸むぐらと「はい、いったん失礼します」


小春こはる日和びよりの暖かい日でした。縁側に座って、葎戸むぐらとはわが子に乳を飲ませます。千江松は満足するまで飲んで、ウトウトとまどろみました。


庭を横切った向こうのあたりに橋があり、そこをたまたま、伴人を多く連れたカゴが通って行きました。カゴがすこし開いて中の人がこちらを眺めたようにも見えますが、定かではありません。葎戸むぐらとは昔を思い出しました。


葎戸むぐらと八重垣やえがきさまだって、あのくらいの生活をすべき身分なのに…」


やがてカゴは見えなくなりました。葎戸むぐらとが眠ったわが子をフトンの上に寝かせ直していると、兎口いぐちばばが慌ただしく走って庭に入ってきました。


婆「あんたか、乳母うばの口を探しているのは。見つかったぞ、勤め先が」

葎戸むぐらと「本当ですか!」

婆「由緒ある武家の奥方じゃ。鎌倉から来たが、つい最近まで京に留まっておった。そして、これから東に帰るところなんじゃ。すぐにお主を雇いたいという」


葎戸むぐらと「では、鎌倉まで行くのですか。まさか、今すぐですか。夫がまだ帰ってきません。せめてあの人に一言言わないと」

婆「そんな猶予はないぞ。今を逃せば、もう機会はない。さっき、その奥方は、カゴの隙間からお主を見た。そして、一発で気に入ったらしい。おぬしも、すぐに決断しないと」


あまりの急展開に葎戸むぐらとが立ちすくんでいると、今度は庭に、40歳ほどの武士が静かに入ってきました。


武士「葎戸むぐらとさんですな。私が、お遣いで参りました。主の名は、ワケあって明かせんが。ともかく、この婆さんの言うとおり、すぐに鎌倉に帰らなくてはいかんのです。どうぞ、すみやかな決断をお願いしたい。あなた様とご家族へのお礼のお金は、ここに」


10両の小判が、花びらのようにビラリと並べられました。予想外の大金です。


葎戸むぐらと「10両… 夫なら、これを見て断るはずがない… わかりました、今すぐ参ります。一通、手紙を書き残す時間だけをくださいますか。せめて、何があったのかを夫に知らせる必要があります」


武士「そのくらいの時間はある。しかし、急がれよ」


葎戸むぐらとは、家に戻ると、薄い墨で、事情をひととおり紙に書き、これを柱に貼りました。こんなに簡単に別れが来るのか、と、悲しさで胸が裂けるような気がしますが、ほかにどうしようもありません。


葎戸むぐらとは、10枚の小判を守り袋にしまい、寝ているわが子の腰紐にそっと結びつけました。そして、鈴稚すずわかを抱いて眠っている八重垣のほうを向き、心の中で、さようなら、お元気で、とつぶやきました。


そうして悲しみを振り切るように家を出ました。庭には正忠の母もいますから、彼女の耳に口を近づけて、一言、お別れを言います。ただし、本当のことは言いません。目が見えないのですから、何が起こっているかはよく分からないのです。


葎戸むぐらと「ちょっと、正忠さまを向かえに行ってきます。来客があるのに、帰りが遅いので」

母「あい、あい、気をつけて」

葎戸むぐらと「お一人のときに、に足を突っ込まないようにお気をつけて。どうぞお元気で」

母「あい、あい」



これで、皆への別れはすべて済ませたことになります。葎戸むぐらとが武士に促されてカゴに乗り、スダレを降ろそうとすると…


この物音で起きてしまった千江松ちえまつが、「母上、どこへ行くの」と叫んで、走り寄ってきてしまいました。「どっか行っちゃうの? ねえ、ねえ(泣く)」


兎口いぐちばばが、すかさず懐から大きな栗をいくつか取り出し、「いい子じゃ、この栗をあげようぞ」と言って、千江松の両手いっぱいに盛りました。千江松は大喜びでこのプレゼントに目を見張りました。


葎戸むぐらとは、涙をこぼすまいと、笑顔を無理に作って一言もしゃべらず、スダレをすっかり降ろしました。カゴが持ち上げられる感触があり、あとはカゴの中で何を考え、どんな表情をしていたか、葎戸むぐらとはあとになっても思い出せませんでした。

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