姫君の出仕あるいは出陣
早々に着替えと
彼女が身に着けているのは、今日のために作らせた、
卯の花色と呼ばれるこの色は
位は一位から八位まであり、それぞれに
紅緒の家の格からすれば、初出仕の若造であってもそれなりに上位の位をさずかっても不思議ではないのだが、本人のたっての希望で、無位となっている。ちなみに、紅緒の父は
ともあれ、紅緒は今日から役人として謌寮に出仕することになっている。
役人とはいえ、
紅緒は浮き足立つ気持ちを何とか抑えつつ、目当ての部屋にたどり着くと、ひょい、と中を
「父上、紅緒は本日より、
「…………」
紅緒の父、
視線を中空にそらして、もう一度見ても、わが娘は真更衣を着ている。よく似合っている。布地から自分で見立てたものらしいが、目の肥えた尚季から見ても、趣味が良いといえる。問題があるとすれば、真更衣は男の衣装だ。ゆえにもちろん、
尚季は小さく
どこでどう
とはいえ謌寮のうたよみたちは今や、呪術を要する宮中行事だけでなく、
実際、紅緒の謌の才は、親の
嗚呼、これが男子であれば。
「父上」
そもそもこの流れでいくと、自分が孫の顔を見ることができるのは一体いつなのだ。この娘の弟にあたる息子はいるので、
「父上」
見よ、あのように卯の花色の地味な衣など
「父上、そのように同じことを何度も嘆かれても紅緒はもう謌生となりましたゆえ」
いつの間にか紅緒は
紅緒は父親似である。
尚季は
「何故父の心が読める」
「父上の無表情には慣れておりますれば。それに父上ほど心中の声の
尚季は小さく咳払いをして、話を変える。
「そなた、呼んだ刻限より遅れたな。今朝はまた
「玉露ほどの優秀な女官ともなると、密告の素早さも一級品ですね」
にこにこと笑いながら言う娘を、父
「そなたが
そうでした、などと
「そんなことよりも、父上。私は本日より謌生となり、出仕いたしますゆえ、なにかお言葉を」
尚季は返事の代わりにわずかに
何故なのかわからないが、何か起きるような気がしてならない。
この娘は、男装したり庶民に身を
だというのに何故か、大事に巻き込まれるような予感がする。
尚季は心配するあまり、再び思考にのまれそうになったが、きらきらと輝く娘の目をみて、思いとどまった。そのように嬉しそうな顔をされては、親として言うことなど限られている。
尚季は僅かに息を吐いた。嘆息ではない。本人としては少し笑って見せたつもりだったのだが、口の端はぴくりとも上がっていない。
「そなたならきっと出来る。私の娘なのだから。しかし、女の身で無理はせぬよう、好きなように励むことだ」
紅緒はふと真顔になると、父上、と膝でにじり寄る。
「
父の手に自分の手をかさねながらそう言う娘に、尚季は頷いて、その漆黒の前髪を
「よい。それに、
にこりと片頬に笑みを浮かべて出て行く紅緒を見送った苦労性の父親は、中仰詞の姫が徒歩で出仕って、誰かに
本日初出仕となる者は、
その五人は今、
否、気まずいのは四人だけのようで、ただ一人、
他の四人は畏まった姿勢で、ちらちらと互いに視線を交わしている。その視線には、この場にいる異分子に対する困惑が多分に含まれている。
こいつ、女か? 男か?
女だろう?
いや、女だとして、なぜこのようなところに?
衣の色からして
また、この人物が女だとして、華家の女は人前に顔を晒すことは
これは果たして話しかけても良いのだろうか。何か一人で笑っているくらいなのだから、会話の
そして何よりも、この異様な雰囲気の中、誰が一番最初に声を発するのか。
押し付け合うような、譲り合うような微妙なやりとりを目だけで交わす彼らをよそに、呑気な声が響いた。
「いや、久しいのう、
何ということだ、誰よりも先に当の本人が口を開いてしまったではないか。四人の間にさっと緊張が走った。
その人物……紅緒は依然として楽しげな笑顔を右に向けて、明らかに特定の人物に視線を固定している。彼女の右隣に座っているのは八位の
ぴたりと固まって、目だけを泳がせている男の様子に構うことなく、紅緒は嬉々として続ける。
「ああ、もう廿李ではないのか……失礼した。今の名は何という?」
「あ、いや、え?」
「昔言っていたとおり、謌生になったのだな。良かった。きっと廿李ならすぐにうたよみになれるだろうな。そうだ、姉君は
「へ?! は、はい、良き縁があり昨年嫁ぎまして、今は腹に子が……」
「何と! 知らなんだ。水くさいではないか。今度祝いの品を贈ろう」
「はぁ、それは……どうも、あの、有り
男のよそよそしさと困惑に満ちた声色にようやく気付いた紅緒は、笑みを引っ込めて、しげしげと男を眺めた。
周りの者たちは好奇の目で二人のやりとりを窺っている。
目を細めた紅緒が膝でにじり寄り、男の濃い
「なるほど、私が誰だかわかっていないのだな」
「……申し訳ない」
どぎまぎとしながら何とか謝罪の言葉を絞り出した男に、紅緒は首をかしげて少し考える様子を見せたあと、ではこれでどうだ、と高く結い上げている
たっぷり三十数えられるほど間を置いた男の顔は、徐々に驚愕の色に染まっていったが、次にみるみる青ざめていき、最終的にはどうか間違いであってくれとでも言いたげな表情を浮かべてやっと口を開いた。
「……あ、
様、と敬称をつけようとした男の口を、べちんっと音のする勢いで紅緒の
「思い出したか! いかにも
精神的にも物理的にも衝撃を受けた紅緒の幼馴染は口から離れていく
「謌生って
再び口に張り手を受ける。
「そう、私も
賤しき身分の者はそんな喋り方しないだろう。華家言葉をまくし立ててくる幼馴染に頭の片隅でそう思いながら、半ば呆然としたまま元服後の字を答える。
「……
「そうか、良き名だ。私は今は紅緒という。皆、よろしく頼む」
顔にかかったままだった髪を、やけに艶めかしく掻き揚げて、くるりと周りの者に視線を巡らせながら名乗った紅緒は満足気に笑った。
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