白いひと 肆

「紅緒!」

 うずくまる紅緒にいち早く走り寄った玄梅は、彼女の背に触れた。かすかに上下している。いらえは無いが、生きていることが確認出来て、玄梅は浅く息を吐いた。彼に続いて宇賀地と他の謌生が駆けてくる。宇賀地は、さっと紅緒の正面に膝をつくと、彼女の肩を揺さぶって意外な言葉を発した。

「おい、失敗か?! 失敗なんだな?!」

 いつにない剣幕けんまくに、玄梅は違和感を持ちながらも、うつむいたままの紅緒が小さく声を発したので、一先ひとまず置いておくことにした。

「……りだ」

「え? 何ですか?」

「もう終わりだ」

 絶望的に暗い声であった。冷静な声音で、何が終わったのだ、と氷雨が問うと、そこでやっと紅緒はのっそりと顔を上げた。泣いてこそいないが、声と同様、暗澹あんたんたる表情である。

「私は一生身随神みずいじんは持てぬ。唯一の機会を仕損しそんじた……」

 その場の全員に微妙な空気が流れる。

 彼女は倒れたのではない。失敗したことに衝撃を受けて、それはもう思いっきり項垂うなだれただけだったのだ。何てまぎらわしい真似を、と若干苛立いらだつ玄梅の隣で、宇賀地が安堵あんどとも落胆らくたんともとれぬ息を吐いた。

「魂でつながった友など、私には作れぬのよ……過ぎた願いだったのだ」

 全力で負の空気き散らす紅緒を、日和が幼子をあやすように励まし、氷雨が凄惨せいさんな表情でおろおろとその周りを回り、鴉近が殺意を込めた視線を送る中、いまいち不安が拭いきれない玄梅が確認する。

「失敗したけれど、死ななかったということでいいんですよね?」

 急に物騒ぶっそうなことを言い出す玄梅を、ぎょっとした顔で謌生たちが見遣った。

「もともと、死ぬ、かもしれない、という話だったからどうやら大丈夫だったようだ。心配をかけた」

 曖昧あいまいな返事を返しながら、紅緒はのそのそと立ち上がる。出来ればもう少し自らの生死のほうにも一喜一憂して欲しい、と玄梅が引いているのをよそに、彼女は宇賀地に頭を下げた。

「お騒がせして大変申し訳ない。どうか、講義を進めてくだされ」

「おぉお、お前な! いきなりあんなもん詠んで一体どういう」

「うたよみ殿。講義の続行に何か問題があるのか?」

 宇賀地が勢い込んで説教を垂れかけたところに、よく通るが少々威丈高いたけだかな声がかかった。二人の侍従じじゅうのうち、五位の翡翠玉ひすいぎょくいている気の強そうな方がこちらをうかがうように一歩進み出ている。

 御前であることを思い出した宇賀地が、ちらりと片目で確認すると、幸い主上しゅしょうは、何事も無かったかのように、ゆったりとくつろいだ様子でこちらをご覧になっているだけである。すぐに続ける旨を返答して、紅緒に向き直ると、彼女にひたりと人差し指を立てた。数瞬すうしゅん言葉を探しあぐねたすえ、彼にはまれしかめ面で、後で話があるからな、と噛みしめた歯の間から絞り出すような小声で念を押す。しおらしく返事をした紅緒が、とぼとぼと皆より一歩下ったところに移動するのを見届けてから、うたよみは異様な空気を散らすようにしわぶいた。

「えー、では紅緒は見ての通り、契約に失敗したので祷謌とうか詠人よみびとの件は選外として、残りの四人に身随神みずいじん顕現けんげんさせてもらおうか」

 宇賀地の指示で、何とか気を取り直した謌生うたのしょうたちは身随神を呼び出す体勢を整える。すでに契約によって結ばれている神の顕現けんげんは、そう難しいことではないが、謌わずして意思を疎通そつうして呼び出すため、多少精神を落ち着かせて意識を集中する必要がある。その方法は例えば祈るような一連の動作を行ったり、胡座あぐらをかいて座り込んだり、ただ目を閉じるだけであったり、決まった文言もんごんを呟いたり、個人によってまちまちである。

 最初に姿を現したのは鴉近の身随神だった。

 彼はただ、常の如く眉間にしわを寄せ、左腕を真っ直ぐ地面と平行に肩の高さまでかかげたのみであった。左手には柔らかな鹿革しかがわでできた手袋をしているが、あれはどうやら鷹狩たかがりなどに使うゆがけのようだ。左肩越しにすみれ色の瞳で前を見据え、真っ直ぐに立つ様は、ただでさえ端正な鴉近の姿を更に際立たせていて、水面からすっと立ち生える菖蒲しょうぶを思わせる。

 そよとも風がないにもかかわらず、不意に、鴉近のすず色で硬質な艶のある前髪が、ぶわりとなびいた。目に見えない大きなものが風を巻きながら、彼の前を横切ったのだ。それは、少し離れて立ち尽くす紅緒の髪をもそよがせ、皇帝や侍従の装束のすそをはためかせて、悠然とした速度で旋回せんかいすると、地面を撫でるように低く真っ直ぐに、鴉近へと向かった。そして彼の鼻先をかすめるように上昇したそれが大きく二、三度羽撃はばたいた気配がして、鴉近はわずかに目を細めた。まず見えたのは、鋭く黒い鉤爪かぎづめである。鴉近の左手をつかみ取るように着地せんとする、灰色の乾いてうろこ立った大きな足。それから白い柔らかな羽毛、大きく広げた黒橡くろつるばみの尾羽、茶褐色の腹、太い首に黄朽葉きくちば色の堂々としたくちばし、大きく広げられた白や茶の斑模様まだらもようの翼。順に皆の視界に姿を現したのは、およそ自然界には存在し得ないほどの大きな美しい鷹であった。丸い目が興味深気に周囲を観察している。

 見守っていた侍従たちが小さく歓声を漏らし、紅緒はうめきながら、片手で顔半分をおおった。うらやましすぎたのだ。

 続いて、大叢兄弟の身随神が顕現けんげんする。

 兄、氷雨は、姿勢の綺麗なえざえとしたたたずまいで、静かに瞑目めいもくした。彼の周りを、気温よりもいくらか低い温度の冷気が、薄い層を作っておおっているのが目に見えるようだった。その唇が、吐息だけで何かを紡ぐと、その呼気が白くもやになってすぐに消える。寒いとはいえ、すっかり日が昇った今、他の者の息は白くはならない。その隣で弟の日和が、自らの腰あたりの高さで、何も無いくうをそっと撫でるように二、三度手を動かした。日に透ける梔子くちなし色のふわふわとした髪の下で、薄く微笑む彼の目は優しく、冬のはかない陽だまりの如き空気をまとっている。

 ふと、遠雷えんらいのような音がした。否、それは空ではなく、氷雨の足許あしもとから聞こえる。皆が目をらすなか、徐々じょじょ輪郭りんかくを現したものは、氷雨の膝頭ひざがしらに頭を擦りつけるようにして座る、大きな山猫であった。黒く艶のある体毛は北方に住む生き物特有の長毛で、角度を変えて見るとかすかに色味の違う黒で縞模様しまもようが入っているのがわかる。ふさふさとした尾の先のみが雪のように白く、甘えるように細められた目に垣間かいま見える炯々けいけいたる若草色が獰猛どうもうさをはらんでいる。一方日和の手はいつの間にか小さなわらわの髪をいていた。顔立ちが中性的で男児か女児かは定かでない。肩口までの黒髪に白い五枚花弁の花を飾り、鮮やかな黄赤きあかの古い形の装束を身に着けている。そのように目立つなりをしているというのに、いつ現れたか全くわからないような、希薄きはくな気配である。童の小さな白いおもてにある大きな眼窩がんかには、ただ不穏な夕焼けのような緋色一色の眼球があり、瞳孔と白目は存在していない。それはこの童を人ではない「モノ」たらしめるに十分な異形であった。

 無事に身随神が顕現けんげんさせた大叢兄弟に宇賀地がひとつ頷き、残る玄梅に目線を遣ると、彼の身随神はすでにほぼ姿を現していた。

 地面に膝と両手をついた玄梅はまるで項垂うなだれているようで、表情をうかがい知ることはできない。彼の両手の下からは、透明感のある琥珀こはく色の鉱石が結晶をしながら生えていて、それは所々に真紅や瑠璃紺るりこん木賊とくさ色の石をまじえながら、等身大の女人にょにんの形を作り出していた。やたらとなまめかしいその身随神は、硬い石であるにも関わらず、艶々つやつやと光沢のある透き通った琥珀の腕をなめらかに動かして玄梅の背をそっと撫でた。そこでやっと顔を上げた玄梅の暗い紅梅こうばいの目が、やや自信なさ気に他の謌生を見回す。

 皇帝はというと、初めの姿勢を崩さず、相変わらずの真顔でご覧になっている。侍従二人は、普段なかなか見る機会のない神の姿を三柱みはしらも一度に目にして、少々興奮した様子である。紅緒に至っては、羨望せんぼうから嫉妬を経て今やきらきらした尊敬の眼差しで同輩たちを見ていた。

「さて諸兄しょけい、問題なく顕現けんげんできたようでなにより。皆なかなか良い身随神を従えているようだな。しかし……」

 言いよどんだ宇賀地は、ちらりと鴉近を見る。片眉を上げた鴉近の手の上では大鷹が機敏な動きで頭を巡らせて、辺りを見回している。

「まだそれぞれの技量を見せてもらってはいないのになんだが……ちょっと見たところ、お目出度めでたい行事に適している身随神は鴉近の鷹しかないんじゃないかと思うんだが、どうだ?」

 これは予想外だった、というふうに腕を組みながら、謌生たちに意見を求めた。確かに、宮中の初春はつはるの行事に登場させるものとしては、大きくて見栄みばえがするとはいえ黒い山猫や、顔立ちは美しいがかなり不気味な童子、玉のような煌々きらきらしさはあるものの造形が全裸の女人と、そもそも瑞祥ずいしょうである鷹とでは、やはり鷹に分がある。無難であるとも言うが。

「異議のありようもないですよ。この子の技も慶事けいじ向きではないと思いますし」

 日和はほっとした表情をにじませながら、童の頭を撫でた。氷雨が「右に同じ」とだけ答え、玄梅も頷いた。本音を言えば、三人ともこの御前講義で随分気疲れしたので、このうえ新年まで緊張を引きずりたくはないといったところである。鴉近はそんな皆の心の声が聞こえたのか、微妙な表情を浮かべている。

「鴉近の身随神は、何が出来る?」

 宇賀地に問われて、鴉近は目を伏せて少し考えてから応えた。

「この紫鷹しようの力を借りて、飛ぶことができます」

 「飛ぶ?!」と、心底羨ましそうな顔の紅緒が悲痛な声を上げた。すみれ色の目が、五月蝿うるさいなと彼女を一瞥いちべつした。跳躍ちょうやく程度ならまだしも飛翔ひしょうとなると、一廉ひとかどのうたよみにも可能な者はほぼおらず、非常に稀有けうな能力である。宇賀地は手を打って喜んだ。

「それは素晴らしい。なかなか派手でいいんじゃないか? それじゃあひとつ実演して見せ」

 不自然に言葉が途切とぎれて、うたよみ並びに謌生が一斉に、素早く同じ方向を振り返った。全員が全く同じ所を見ている。場の空気が瞬時に張り詰めた。六対の目が表情もなく凝視しているのは、皇帝のおわす席にほど近い地面である。何の変哲へんてつもない白茶けた土をにらみながら、徐々じょじょに殺気立つ彼らの空気にただならぬものを感じた侍従じじゅう二人が、狼狽えながらも皇帝の前に進み出る。

「な、何だ……?」

 侍従たちがそろそろと太刀のつかに手をかけた、その瞬間、どん!! という轟音ごうおんとともに、何かが地を割って素早くおどり出た。片方の侍従がその勢いによろけて尻餅をつき、何とか踏みとどまった気の強そうな侍従が、目を激しく泳がせながら太刀を抜きはなった。もうもうと舞い上がった土埃つちぼこりに皇帝がき込み、袖で口をおおっている。

 唖然あぜんとする謌生の間をって、無言のまま宇賀地が駆けた。

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