純然たる悪癖の披露 壱
「
まるで口慣れた
微妙な空気の四半刻を乗り越えた
「
眠そうな垂れ目をゆっくりと
「では、
すぐ目の前にいる謌生に目を留めて、その名前を呼んだ。
冷淡さを感じる三白眼の青年が、少し首を傾げて応じる態度を示す。
「うたよみとなるために重要な素質は?」
「……謌を詠む才能、魂魄の質、
一瞬黙してから静かに発せられた答えに、宇賀地は二、三度頷いて全員を見回した。
「ま、こんなことは知ってるか。知ってるとは思うが、言わんと仕事にならんから言うわ。例えば、十の魂魄のうちの三を
宇賀地は最初こそは立って話していたが、やがて
「つまり、捧げる魂魄を無駄なく全て神に届けるには、上手い謌が不可欠だ。次は、そうだな
「はい」
応えたのは
「お前は、氷雨の弟だったか。上手い謌の条件とは?」
「
「そう、つまり、非常に感覚的なものということであり、正解はなく、これを覚えれば安心という手本などもない。逆に言うと個々の色が出やすく、とにかく自由というわけ」
うたよみは、そこで一つ息を吐いた。
「うたよみに欠かせない素質の二つ目、
玄梅は表情にわずかに緊張を
「魂魄はすなわち霊魂をさします。
無言で頷いた宇賀地は、よいしょの掛け声つきで、ついに床に横になった。
それを見つめる謌生たちの目に困惑が満ちる。講義を行いながら寝転がるのには、何か意味があるのだろうか。
「さて、謌によって術を使うときに神に捧げる魂魄とは、果たして
わずかな間の後に紅緒の名が呼ばれ、ついにきたか、と玄梅が恐るおそる左隣を見やると、彼女は真剣な顔をして顎に手をやっていた。
「そもそもの魂魄の大きさ、つまり総量と、使った魂魄の
意外にもまともに答えたことに、何故かその場の謌生たち全員がほっと息を吐く。うたよみは「正解」と
「ちなみに魂魄を使いすぎると精神や肉体に影響が出るが、それはそのうち体験する機会もあるだろうから、詳しくは省く。では、最後は
依然寝転がったままの宇賀地は、いっそう
「
濃い
「身随神とは、うたよみが従える神の類です。うたよみは身随神に対して謌を詠まずして常に魂魄を捧げ続けることができ、それを受けて身随神は、その力をうたよみのほしいままに
鴉近は眉一つ動かさずに、よく通る声で答えた。
それを聞いた宇賀地は、ついにごろりと仰向けになると、大の字になり、そもそもあまりあいていなかった眠たげな目を完全に閉じてしまった。
「ご名答。何だ、お前たち、最初の講義の内容程度のことなんか、よーくご存知とみえる」
謌生たちはちらちらと目線を交わす。この男、まさかこのまま寝るなどと言い出すのではないだろうな。
「おや、大分時間が余ってしまったな。いや、お前たちが優秀なせいなのだから、気にする必要はないぞ。ここはひとつ、次の講義まで互いに交流でも深めているのがいい。私はこのまま寝る」
言うが早いが寝息らしき不規則な呼吸を始めたうたよみに、謌生たちはしばし呆気にとられたり、困惑したり、心中で悪態をついたりした。
「うたよみには変わり者が多いというのはどうやら本当らしい」
面白そうな声音で呟く紅緒に、玄梅が嘆息する。
「貴女も相当ですが」
「玄梅よ。貴女とか
そんなことが出来ると本当に思っているのかと反論したところで、この姫君には
「紅緒……何故このようなところに」
「何故か。実はお前にも言わなんだが、幼い頃から、私には謌が詠めたのだ。この度、
大事なところが全くわからない大味な事情説明に、一抹の懐かしさを感じながら、玄梅は眉間を揉んだ。
「とにかくこれから私はただの“紅緒”ゆえ、そういう感じで頼む」
「……あぁ、はい」
早くも精神的な疲労を感じて適当な返事をする玄梅に、気分を害した様子もなく、紅緒はきょろきょろと周りを見回している。
すると、不意に好奇心に満ちた声がかかった。
「ねぇ、あなたは女の子だよね?」
「……おい」
前方に座している、先ほど
「ああ。確かに私は
にこにことそう言い放つ
この顔ぶれの中では、この
何故か玄梅一人だけが気まずいしばしの沈黙のあと、日和は噴き出した。
「あはは、変なの」
「変なの?! 変なのですと?!」
そしてまた何故か玄梅一人だけが
「友にはなれぬでしょうか?」
非常に残念そうな様子の紅緒に、日和は名の通り陽だまりのような笑顔を向けた。
「いや、面白い。紅緒殿、とりあえずお知り合いからよろしく」
「見ろ、玄梅、私についに
「……はい」
上機嫌な紅緒を前に、静かに脱力して座り込んだ玄梅は、これからの心労を思って頭を抱えるのだった。
彼女には、
本人は無意識なのだから、輪をかけて
自分には到底手に負えないと、その悪癖を止めさせることは幼少の
「まぁ、それでは謌生でいらっしゃるの」
「では何か謌を詠んでくださる?」
「美しい女性を前にしては、神に魂魄を捧げるのも惜しいものです。貴女たちへ私の魂を贈る謌を詠んでも?」
「あぁ! その言葉だけでもう御心をいただいた心地ですわ」
「私たちは代わりに何をお返しすれば良いかしら。ただの女では神のように不思議な力をお貸しできませんわ」
「もういただいていますよ。貴女方とこのようにお言葉を交わす時をいただいておりますれば、あとは何も。あぁ、ただ……」
「何? 仰って」
「遠慮なく仰って」
「本日は日が強く照っております。これから、ここで実技の講義なのですが、少し喉が渇いてしまって。我々謌生に何か喉を潤すものをいただければ」
「お任せになって」
「すぐに
品を損なわない程度の最大限の早足でその場を去る二人の女官をにこにこと見送って、紅緒が謌生が集う輪に戻ってくる。
「やったな、玄梅。
「ええ……またそんな高級飲料を……」
次の講義は、謌の力量を示す実技であった。
彼女には、悪気なく人をたらしこむ悪い癖がある。子供のころはこの癖のせいで、周囲の大体の大人は彼女に
本人は、きょとん、だった。
そして、一部始終を見ていた他の謌生は、一様に口を開けて紅緒を見ている。
最初に立ち直ったのは日和であった。
「べ、紅緒殿は女の子なんだよね?」
「しつこいぞ、日和様。私がいくらこんな
「違う、ごめん、違うんだけど、え? ちょっと、えーと……玄梅殿、でしたか」
「あ、は、は、はい?!」
早くも紅緒の日和に対する敬語が怪しくなってきたことにはらはらしていた玄梅は、急に声をかけられ、生来の人見知りもあって、盛大にどもった。そのうえ、日和の目から微妙に位置を外した顎の辺りを見ている。先程「知り合い」になったのはあくまで紅緒と日和であって、その場にいたとはいえ、自分は含まれていないのだからちょっと距離感が掴めない。そんな少し面倒な性格の玄梅に、日和は困惑した表情で尋ねる。
「紅緒殿と親しいんですよね?」
「はぁ、まぁ親しいというか……」
「彼女はいつもあのような感じなの?」
「あの、はい。他意はないのです。本当に思っていることを口に出しているだけなので……別に最初から飲み物が欲しくてあのように口説いているわけではないのです」
それはそれでどうなんだよという更に困惑の深まった顔になった日和の横で、氷雨が冷めた視線を紅緒に送っている。
鴉近に至っては不快そうな表情を露わにし、舌打ちまでした。
「何だあの女は。遊びに来ているのか」
呟くような悪態は、戻ってきた女官から麦湯を受け取っていた紅緒には届かなかったが、玄梅にははっきりと聞こえていた。
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