第一章
皇都に訪れたとある暁
都の夜が明ける。
赤い
季節は秋である。
すっきりと澄んだ空気に、色付き始めた葉や秋草の
どこもかしも、ひんやりした
そんなひそやかな空気を切り裂くように
どうやら忍び歩きの様子で、着込んでいる簡素な男物の
そうでなくてもその人物には人目をひく点がいくつかある。
成人に達した男は普通、
さらに、まさに
やがて空からは赤みが消え、今日が晴天であることを予感させる
華家の居住区に入り、通り慣れた様子でいくつかの角を曲がった先で、その人物は僅かに
とある華家の屋敷の西門の前である。
しばし両膝に手をついて肩で息をしていた黒衣の人物は、やがて周囲を見回して誰もいないことを確認したあとに、しっかりと閉じた門扉から
すると、ごぼり、と音を立てて塀の一部が向こう側へ抜け落ち、人が一人やっと通れるほどの穴が現れた。自然に崩れて出来たものではない、誰かが、恐らくはこの人物が作った抜け穴なのだろう。
いそいそとその穴をくぐって塀の内側に降り立った黒衣の侵入者は、一抱えある築地塀の破片を二つ、穴にきっちりとはめ込んで大きく息を吐いた。
額の汗を拭って、顔にかかった艶やかな黒髪をばさりと払う。涼やかに切れ上がった
「あー、良かった。間に合っ」
「てない」
独り言の続きを強い口調で
恐るおそるといった体で首をすくめ、ご機嫌うかがいの笑いを唇に乗せた黒衣の麗人はもう一度独り言を言う。
「いやー、何とか、間に合っ」
「てない」
先程と同じ、にべも無い女官の言に、途端に無表情になると、すたすたと歩き出す。
「わかっておるわい、一応もう一度言ってみただけよ」
「また早朝から屋敷から抜け出されて。どうせいつものアレなのでしょうけれど、姫様、もういい加減になさってくださいまし。あっ……あぁ! ちょっ……んもう! はしたない!」
それをいちいち拾いながら後を追う女官は、
「お前は早起きだのう。今少し寝ていても私は構わんぞ」
「
「そうかそうか。まぁ、急ぎ着替えるゆえ、許せ」
まるで悪いと思っていない様子で、
「本当に昨夜お選びになったお召し物でよろしいのですね?」
「よい。早よう持ってきてたもれ。あぁ、その前に身体を拭きたい」
玉露と姫の声を聞きつけたのだろう。何処からともなく、空の
玉露はこめかみを押さえてため息を吐いた。
「姫様、先程も申し上げましたが、本日は姫様の初
唐突に立ち止まったうえ、くるりと勢い良く振り向いた姫にぶつからないように焦りつつ足を止めた玉露だったが、軽く主の胸に飛び込む形となってしまった。
姫は細身ではあるが肩幅があり、
「玉露」
ぐいと腰を抱き寄せられた憐れな女官は「ひい」と小さく声をあげる。
口を開けた少々はしたない呆け顏で二人を見ていた女童たちは、黄色い悲鳴をあげかけて思いとどまった。
玉露が恐るおそる見上げれば、涼し気な目尻と口の端で上品に微笑む中性的な美貌があった。
「お前には私の
わかっているならやめてほしい。
切にそう願えども願えども、
翡翠色の瞳が
「だが、大事ないぞ。この
違う、そうじゃないと白眼になりかけたが、優秀な女官は何とか持ち直す。
「姫様! 出世などなさらずともよいのです!そもそも出仕ではなく
そう、あろうことか、この姫は父親が
つまり、
娘が入内することにより、その実家の家格は上がる。更に
とはいえ、この姫はもともと優雅に
すると当の本人はよほど入内が嫌だったのか、生まれてこのかた一六年、親にすら隠し続けてきた人並外れた『
つまり、女の身で男性に混じって公務に就くというのである。
勿論、常識的に言って、ただごとではない。
「姫様のその美しさなら、次期皇帝の
よよ、と泣き崩れる玉露の背を二、三度優しくさすって、姫、紅緒は笑った。
「まぁ、落ち着いてよく聞きなさい、
「姫様……」
「やもしれぬ」
「…………」
「何より、皇帝の妻になど死んでもならぬ」
「姫様!」
その
『み み みな みつ つちのみ そらのみ すがしみよ しらねのおんみの むすびしみての うちよりたまみづ こぼしたまはらむ あがたまを かそけづる やよ かそけづる』
すると、桶の底板の中心から水がこんこんと
水は桶の深さの八割に達すると湧くのをふつりとやめた。
姫はまだ初々しさのある女童から、そっと桶を取り上げる。
「持とう。お前には重いであろ」
「あ、そんな……」
自らが仕える貴人にそんなことをさせてはならないと焦る少女に、
その視線を
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