孟春と花房 壱
年が明けた。
寒さはいまなお厳しいが、新しい年を迎えた人々の装いには若草や
宮中では、内々で
そう、
曰く、
曰く、
曰く、鴉近の禁欲的で端正な顔立ちに華やかな儀礼用の衣装が相まって、なんとも美しかったと聞く。
曰く、皇帝の妃たちの住む宮などでも同じく
「見たかった」
今は一月の末、新年の浮かれた雰囲気が遠い昔のように思えてくるころである。この話をすでに何度も聞かされている
「だから、仕方ないでしょう。未だ
「そうはいってもやはり、鴉近殿の晴れ姿をこの目でしかと見たうえで、一から十まで褒めちぎりたかったのだ」
鴉近は心底嫌がりそうである。玄梅は苦笑交じりに少し声を落とす。
「
玄梅は無論、軽口のつもりで言ったのだが。紅緒は、これ以上
「姫様、
二人の前を歩いていた案内の女官が立ち止まり、もはや見慣れた
「玄梅、紅緒。どうぞ、
その弾んだ声に、紅緒と玄梅も笑顔で目を見交わして
「あらたしき歳の始めの
玄梅の
「二人にも
「樒姫、そう言わずに。玄梅は昨日何度も練習していたのですから。今のは最も良い出来でした」
「まぁ、そうなのですか」
おい、何で言うの、という紅梅の視線を横顔に受けながら、紅緒は几帳の向こうの樒姫と微笑みあう。
本日、紅緒と玄梅は、猫の蜂の件以来何度目かの招待を受けて、
「玄梅、挨拶の練習は紅緒と二人でなさったの?」
「はぁ、まぁ、そうですが」
「二人きりで?」
「そうですよ、樒姫。こやつときたら肝心の笑顔が引き
「うわ、やめてください紅緒、姫の前で」
「なんだ、恥ずかしいのか、頬を赤くして」
「あなたがつまんで引っ張っているからだと思いますけど!?」
「あらぁ……! まぁまぁまぁまぁ」
たとえ彼らとの会話がややおかしくても、樒姫がとてもとても楽しそうにしているのだから構わない、と見守る待雪の目は生暖かい。他の女官は、樒姫同様に「あらぁ……!」の表情になっている。
四半刻ほど
「そうでした、二人に聞きたいことがあるのです。ひと月前に五辻様のお
思わず玄梅が
「よく御存知ですね。一体どこの
やや面白がるような声音で、どこから話が漏れたのか探る紅緒に、樒姫は小さく笑いながら答える。
「不埒な私の父に聞きましたの。あまり広めて良いお話でないことは承知しておりますわ。安心なさって」
あぁ、と玄梅は小さく納得の声を発する。すっかり失念していたが、樒姫の父、
「実は
「玄梅です。えぇ、この玄梅ですとも」
間髪入れずに誇らしげに答えたのは、本人ではなく隣で胸を張っている幼馴染である。やめて、本当にやめて、と玄梅は白目を
「私はその場にはおりませんでしたが、聞くところによると、並大抵の謌では
「ももももうそれくらいで」
玄梅は紅緒の袖を強めに引く。控えている女官たちがひどく感心した様子で頷いており、待雪に至っては、「ご立派です」などと呟いている。几帳の向こうの樒姫は少しの間沈黙していたが、やがて
「玄梅、本当に立派な活躍ですね……でも、まだ
無理に明るくしたような声音が、だんだんと
「御心を砕いてくださり、
「つまり玄梅は、うたよみになる頃には、樒姫にもご安心いただけるような頼りがいのある男に成長すると申し上げたいのです。だからどうか、愛らしい声をそのように沈ませないでください」
「……そうですね。ごめんなさい、二人はうたよみになるために努力しているのだから、心配より応援した方がよいですね」
気を取り直したように言う樒姫だが、まだ空元気の域を脱していない。少しだけ眉尻を下げた紅緒は、少し思案した後に
「そういえば、先日私も自信の無さゆえに大失敗してしまい、同輩に
「誰にですか」
紅緒のあっけらかんとした口調を打ち消す低い声で玄梅が話を遮った。今それはどうでもいいから、と送った目配せは、
「高鞍殿……あの人、紅緒に対して失礼すぎませんか。そろそろ我慢の限界なのですが」
地を這うような声音に、紅緒はぎょっとした。女官たちも驚いて目を瞬かせている。
「ど、どうした玄梅、急に」
「急? 急なものですか。あの人が最初の講義の時から紅緒に悪態をついていたこと、私は忘れていませんからね。遊びに来ているのか、と言ったのですよ、初対面の人間に向かって」
実際には聞こえていなかったので、そうだっけ、と小首を傾げる紅緒をよそに、玄梅の鴉近への不満が止まらない。
「その後も、紅緒が話しかけても無視するわ、目障りだとでも言わんばかりの顔をするわ、舌打ちはするわ、挙句
急に
ああ成程、これは彼女らを楽しませる新しい試みなのか、流石は玄梅、私との付き合いが長いだけあると盛大に勘違いした紅緒は大きく二度頷いた。
「しかも聞くところによると、
几帳の向こうから「あ、あ、玄梅もう少しゆっくり……」などという切羽詰まった独り言が漏れ、墨が香り、紙のこすれる音もする。樒姫は何か書き留めているようだ。
「最近ほんの少しまともに紅緒と口を利くようになってきたのも、それはそれで腹立たしいんですよね、正直。一体どの面下げて……紅緒が何も言わないので堪えていますが、いつか紅緒の前で、地に額をつけて、これまでの態度を詫びさせてやる、絶対に」
ついに物騒なことを言い出した玄梅の
「なんですか、今いいところなのですが」
「『こちらを見ろ。お前の瞳が私を映していないことを、これほど辛く思う日が来るとは思わなかった』」
一瞬、紅緒を除く女たちの時が止まった。
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