孟春と花房 弐
「いま、何と」
「あぁ、これは樒姫、久しぶりにお顔を拝見いたしました。ますます美しくなられましたね」
片頬に浮かべた微笑みを深める紅緒とは対照的に、可憐な顔を青白くした樒姫は唇を
「なぜ、紅緒……知ってらっしゃったの?」
その震える声に、
「私は読んでおりませんが、うちの
何の含みもない楽しそうな表情の紅緒の言に、樒物語の名だけは聞いたことがあるものの読んだことはなく、やはり話の見えない玄梅は、今度は樒姫を振り返る。すると、樒姫はこの世の終わり見せられたような表情を浮かべた後、「はあぁぁあぁぅう」と気が抜けた悲鳴としか形容のしようがない、不思議な声をあげて地に伏してしまった。
「あの、何が起きたのかわからないのですが」
こそりと耳打ちしてくる玄梅に、紅緒も
「今流行りの樒物語は書き手が
「えっ、そうなんですか。それはすごいですね」
「全くだ。それでその樒物語に、お前と私にそっくりな人物が書かれておるのだ」
「えっ……?」
思いも寄らぬ事実に困惑して何度も瞬きする玄梅の様子に、さらに
「先程私が口にしたのは、私と思しき
「な、なるほど? しかし何でまた姫はあんなに
「わからん。喜ばれるかと思ったが、違ったか」
最早小声ではなくなってきている二人の会話は、樒姫の頭をさらに地に沈ませた。女官たちがせっせとその背を撫でなさすりながら「姫様、おいたわしや」「心中お察しいたしますわ」「どうかお気を確かに」と口々に慰めている。
やがて、伏したまま呻いたり嘆いたりしていた樒姫が、意を決したように勢いよく身を起こした。
「二人とも、どうか許してください。本当に悪気はないの。ただ純粋に二人が素敵だと思ったからなのです。黙って書いてしまって、本当にごめんなさい」
一息に謝る樒姫と、心配そうにこちらを
紅緒は樒姫に膝でにじり寄り、その小さな手を取った。額に乱れかかる柔らかい髪をそっと指で
「よくお聞きください、姫。私も玄梅も怒ってなどおりませぬ。世の女子を
「ほ、ほんとう? 怒っていない?」
えぇ、と微笑む紅緒に、樒姫はほっと息を吐いたが、すぐに表情を曇らせて恐る恐るといった風に
「あの、実は、樒物語の続編を書きたくて。主人公を花房とその幼馴染にして。図々しいのはわかっているのだけれど……それも許していただける?」
「なんと、続編を」
眉をあげた紅緒がちらりと玄梅を振り返った。無言のままに投げかけてくる視線はどうやら了承を求める類のものだったので、玄梅は急いでコクコクと頷いた。ぱっと樒姫に向き直った紅緒はもう満面の笑みを浮かべている。
「それは素晴らしい。もちろんです。お望みであれば、今のように実演もして差し上げます。きっと筆が進みましょう」
まるで口づけるように樒姫の手を引き寄せて微笑む紅緒の提案に、玄梅は思わず幼馴染を二度見した。自分が了承した以上の何かが約束されようとしている。その実演とやらはもしかしなくても自分も巻き込まれるのでは。
「本当に? よろしいの? あぁっ、ありがとう二人とも」
感極まった様子で胸の前で手を合わせる樒姫。途端に女官たちは、現金にも小さく歓喜の悲鳴を上げて口々に熱のこもった要望を述べ始めた。
「ではでは花房が幼馴染の手を初めて握る場面を」
「いいえ、幼馴染が、嫉妬することで初めて花房への気持ちに気付いて困惑する場面の方が良いわ」
「呆れた。別れの朝に互いに言葉もなく、花房が幼馴染の
逆に最も性的。
「ご安心を、全て順番に演じてご覧に入れましょう」
ますますどの場面が良いか議論に熱が入る女官たちに、さり気なく樒姫を几帳の奥に戻していた待雪が、渋面を作る。
「こら、お前たち。二人はお勤めで忙しいのですよ。あまり
「いえ、待雪殿、良いのです。その代わりと言ってはなんですが、樒姫と皆様に少しお伺したいことがございます」
突然の紅緒の申し出に、女官たちは面食らった顔で口を
「私たちに聞きたいこととは何かしら。紅緒、遠慮なくおっしゃって」
「有難うございます。それでは、少しお聞かせください。
時は
その日紅緒は、常の如く
作っているのは腕環の形をした
「お前、それ何の石なの。見たことないんだけど」
司琅の黒目がちの目が、紅緒の手元をじっと見つめている。彼の右手は、今しがた完成したばかりの水晶の腕環を
「いや実際、何の石なのでしょうね。よくわからぬまま作っておるのですが」
「……あぁ、そう」
「しろちゃん、今のは笑うところですよ」
真顔で告げられた言葉に、司琅は笑うどころかやや
出来上がった腕環を大きな目の前に掲げた紅緒は、怪談でも語るような顔つきで、司琅ににじり寄った。
「聞いてくだされ。なんとこの石、日の光の下では
「うわー、何それやだやだ。一体どれだけ高価な代物なんだよ。俺様に近付けるな」
女性への耐性がないくせに何故か紅緒のことは平気な司琅は、
紅緒は今出来たものと合わせて四つの腕環を完成させており、それらは全て皇帝の妻たちのものとなる予定である。安全だと思っていた宮城内に
「しろちゃんの護符は、曇りなく澄んでいて美しいですねぇ」
流石です、とうっとりと褒められたが、司琅は鼻を鳴らしただけであった。当たり前のことを言うな、とその目が言っている。事実優秀な彼は、今年の秋にはうたよみに任ぜられると
「今日は少し頑張りすぎましたね。小腹がすきました」
「いや、お前は全然頑張ってない。これくらい朝飯前だろ。腹立つ」
「えぇ、
呆ける後輩に司琅の
「紅緒様、こんにちは」
「紅緒様、差し入れを持って参りましたの」
例の
前より増えたじゃん、と司琅はうら若き女子の登場に内心焦りながら素知らぬ顔をする。しかし、腹が減ったと言った途端に差し入れだなんて、世界はこの男だか女だかわからない奴に優し過ぎるのではないか。
「こんにちは。
そして相変わらずこいつの精神構造はどうなっているんだ、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。
女官たちは黄色い声をあげながら、するすると部屋に入ってくると、持ってきた食べ物を広げ始めた。紅緒と宮城内で行動すると、よくこのような状態になる。例えば宇賀地に命じられたつまらない事務仕事が一段落ついたとき、または
「先輩の
素焼きの小皿に載せられた
「……ありがとう、ございます」
司琅はやや頬を染めてぼそりと礼を述べ、揚げ菓子をかじる。まぁ、全然、こういうのは、悪くはないけど、全然、でも名前くらいは覚えて欲しい、できれば、などとぶつぶつ胸中で呟きながら。
しばらく談笑しながら小腹を満たしていたが、紅緒に口の端についた菓子くずを取ってもらってうっとりしていた女官が急に声をあげた。
「そうですわ、今日も
「さ、どうぞ」
「こ、これは?」
そっと蓋を戻して、女官に短く問うと、少しだけはにかみながら答えてくれた。
「お気づきになりました? 今日は髪飾りをこちらのつばくらめとお揃いにして参りましたの」
「お揃いに」
なるほど。しかしそういうことではない。助けを求めるように司琅を見遣れば、彼は一つ頷いて「安心しろ、いつも通りのやばい品だ」と太鼓判を押してきた。だからそういうことではない。
この大盤所の二人の女官が、紅緒への贈り物を何者かから
「中の香は、手ずから御作りになったものですので」
だから誰が、といくら問うても彼女たちは教えてはくれないのだった。いつものことながら紅緒が途方に暮れていると、これも毎度のことながら司琅が鼻で笑った。
「もらっとけば。高く売れそうだし」
「……また他人事だと思って」
そんなことがあって、しぶしぶ鴇色の包みを片手に帰途についた紅緒であった。が、その日は厄日であったのか、それで終わらなかった。
徒歩で
「何も言わずに
「出居? 私に客ですか?」
父は真顔で娘の顔をじっと見るばかりである。いつか大事に巻き込まれるだろうとは思っていたが、まさかこういう類の厄介ごととは思わなんだな、まだ謌生になって間もないというのに、いや、これもこの娘の溢れんばかりの才がそうさせるのであって、もしかして輝かしい出世への足掛かりになるやもしれん……え? 出世!? いやいやいや、出世とかしなくても良いので結婚してほしい実際のところ、などと心中で長々と嘆いている父を、紅緒は半眼で眺めて「わかりました」とだけ言うと、素直に出居に向かった。
尚季の言い様から察するに、
その時、紅緒は生まれて初めて自らの
「思うたより遅かったな」
特に責めるでもない声色は、むしろ
うたよみの貴公子姫 希介 @maresuke240
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